すべてのクリント・イーストウッド監督作品の中で興収1位となっただけでなく,「戦争映画」というジャンルにおいて全米史上最高の興収(何と3億ドルをオーバー!)を挙げているというニュースには驚いた。しかし,共和党員でありながら,イラク戦争には反対の立場を取った「リバタリアン(個人的・経済的自由を重視する政治思想の主張者)」が発したメッセージに,それだけ多くの国民が反応したという事実は,アメリカという国を理解するひとつの手立てになるかもしれない,という気はする。なにしろこんなにも,コーラとポップコーンが似合わないメッセージは,そうはないだろうから。
戦争というものが,普通の人が普通に営む日常生活とは全くかけ離れた世界で行われている,特殊な営みではない,という見方は,イーストウッドの1986年の監督作品「ハートブレイク・リッジ勝利の戦場」における,市街戦の生々しい描写と相通じるものがある。主人公のクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)の妻が携帯電話で夫と話している最中に突然戦闘が始まってしまい,妻が電話を通して断片的に聞こえてくる爆破音や銃弾の発射音に怯えるシーンは,戦争とそれによってもたらされるかもしれない死というものが,日常生活と地続きであるということをリアルかつ冷徹に伝える。
カイルが何度もイラクに戻ろうと決意した理由のひとつに,イラク側に元五輪のメダリストだった凄腕のスナイパー,ムスタファの存在があった,という事実が描かれている。このプロットを指して,戦争の中にゲームに通じる感覚を見出す性,を指摘した批評を目にした。
確かに,二人の間で繰り広げられる死闘という言葉が相応しい描写を観る限り,死と隣り合わせの戦場に敢えて赴こうとするカイルの心象の中に,巨大な敵をライバルと見なして自らを奮い立たせようとするものがあったはずという理解は成り立つ。
しかし,ムスタファを倒した直後に巻き込まれる,敵も味方も全く見分けが付かなくなるような凄まじい砂嵐の中の戦闘にこそ,イーストウッドの思いは込められているような気がする。まるで観客の鼻や口の中にまでも砂が入り込むような,視界がゼロに近い嵐の中で撃ち合うシーンがもたらす虚無感は,この上もなく重く辛い。
ブラッドリー・クーパーはまるで「レイジング・ブル」の時のデニーロのようなシルエット変化で驚かせ,シエナ・ミラーもゴールデン・ラズベリー賞を獲得した「G.I.ジョー」の汚名を挽回するような演技を見せている。
その二人の結婚式で流れるヴァン・モリソンの畢生の名曲「Someone Like You」が,観終わった今も耳朶に残る。
★★★★☆
(★★★★★が最高)
戦争というものが,普通の人が普通に営む日常生活とは全くかけ離れた世界で行われている,特殊な営みではない,という見方は,イーストウッドの1986年の監督作品「ハートブレイク・リッジ勝利の戦場」における,市街戦の生々しい描写と相通じるものがある。主人公のクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)の妻が携帯電話で夫と話している最中に突然戦闘が始まってしまい,妻が電話を通して断片的に聞こえてくる爆破音や銃弾の発射音に怯えるシーンは,戦争とそれによってもたらされるかもしれない死というものが,日常生活と地続きであるということをリアルかつ冷徹に伝える。
カイルが何度もイラクに戻ろうと決意した理由のひとつに,イラク側に元五輪のメダリストだった凄腕のスナイパー,ムスタファの存在があった,という事実が描かれている。このプロットを指して,戦争の中にゲームに通じる感覚を見出す性,を指摘した批評を目にした。
確かに,二人の間で繰り広げられる死闘という言葉が相応しい描写を観る限り,死と隣り合わせの戦場に敢えて赴こうとするカイルの心象の中に,巨大な敵をライバルと見なして自らを奮い立たせようとするものがあったはずという理解は成り立つ。
しかし,ムスタファを倒した直後に巻き込まれる,敵も味方も全く見分けが付かなくなるような凄まじい砂嵐の中の戦闘にこそ,イーストウッドの思いは込められているような気がする。まるで観客の鼻や口の中にまでも砂が入り込むような,視界がゼロに近い嵐の中で撃ち合うシーンがもたらす虚無感は,この上もなく重く辛い。
ブラッドリー・クーパーはまるで「レイジング・ブル」の時のデニーロのようなシルエット変化で驚かせ,シエナ・ミラーもゴールデン・ラズベリー賞を獲得した「G.I.ジョー」の汚名を挽回するような演技を見せている。
その二人の結婚式で流れるヴァン・モリソンの畢生の名曲「Someone Like You」が,観終わった今も耳朶に残る。
★★★★☆
(★★★★★が最高)