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映画「聖なる鹿殺し」:終わりを悟った子供たちの表情が並のホラーを蹴散らす

2018年05月04日 13時41分12秒 | 映画(新作レヴュー)
我が子を手にかけるかどうか悩む父親,というシチュエーションで真っ先に思い出すのは,フランク・ダラボンがスティーヴン・キングの中編を映画化した「ミスト」だ。霧の彼方から援軍がやって来る音が聞こえてくるラスト・シーンの衝撃は忘れがたいが,ヨルゴス・ランティモスの新作「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」のラスト,ダイナーで座っていた娘が立ち上がる瞬間も,分かっていても「そうだったのか」という脱力感は長く尾を引く。一定期間内にパートナーを見つけられない人間は動物に変身させられてしまう,という奇妙な設定を観客に納得させてしまった前作「ロブスター」で見せたランティモスの腕力は,一段とパワーアップしている。

心臓外科医スティーヴン(コリン・ファレル)は,過去に行った手術の後に死亡した患者の息子(バリー・コーガン)と,患者の死後も交流を続けていた。ある日,息子に家に招かれたスティーヴンは,未亡人からの誘いを拒絶するが,その日を境に家族に奇妙な出来事が続発するようになる。その元凶が患者の息子だと知ったスティーヴンは彼を軟禁し,呪いを解くように脅すのだが,逆にスティーヴン自身が家族の命を救うために,究極の選択を迫られることとなる。

設定の奇妙さは前作同様。スティーヴンが実際に患者に対して行ったこと,スティーヴン夫妻の夜の儀式めいた行為,突然家族を襲う病気,それに対する息子の関与等々について,明確な説明は為されない。曖昧な理不尽さが次第に画面を覆っていき,観客はどんどんと居心地の悪い場所へと追いやられていく。前作に比べて黒い笑いが影を潜めた分,不吉,不穏としか形容できない重たい空気がそれに取って代わり,鑑賞後の後味の悪さは拍手喝采レヴェルと言いたいくらいだ。
ランティモス作品の常連であるファレル,シネアストに愛されるミューズとなったニコール・キッドマンという二人のビッグ・ネームに伍して,息子役のバリー・コーガンが,普通の少年が持つ世俗的な雰囲気を一切拒絶したかのような佇まいで物語を引っ張る。観終わった観客は,根源的な「悪」とは,見るからに「凶悪」な容貌をしている訳ではなく,淡々とした風情で信じられないくらい凶暴な復讐を成し遂げる存在なのかもしれないと思うようになるだろう。

題名にある「鹿」を「殺」す場面はまったく登場しない。だが「聖なる」ものは,確かに,かつ静かにそこに存在している。
★★★★
(★★★★★が最高)


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