マジンガーZの格納庫を作る。ウェブ上でバズることを目的に始まった,実在する準大手ゼネコン営業部のプロジェクトを再現した,いわば「現在のクリント・イーストウッド路線」とも言える作品。あまり多くはなかった観客の中には,普段は映画を観そうにない中高年の男性の姿もちらほら見受けられた。ひょっとすると映画の中で六角精児が演じた,現場に通じる古手の技術屋もまじっていたのかもしれない。けれどもそんな彼らがこの作品を観て「いやー,映画って本当にいいもんだなぁ」という水野晴郎ばりの感想を抱いて家路に着いたかというと,残念ながらそうはならなかった可能性の方が高いと言わざるを得ない出来だ。
話自体は面白くなる要素を存分に秘めていた。ゼネコンの社員と言えども,営業部に所属する人間の多くは事務系の職員。そんな彼らが自らが所属する組織の強みや土建業の神髄を,口さがないネットの住人が満足するような結果を求めて悪戦苦闘を重ねるプロセスを辿る中で初めて知っていく,という筋立ては,非業界人にとっても興味をそそられるものだ。
実際に岸井ゆきの演じる女性社員が,長髪イケメン技術オタクの社員が発する「掘削で大事なのは,掘った土がどのくらいフケる(量が増す)か,ということなんです」という台詞をフックに,プロジェクトに入り込んでいくプロットには力がある。地味な仕事でも掘り進んでいけば見えてくるはずの面白さ,という,まさにあらゆる仕事に通底する真理を炙り出す可能性は,この物語自体にはあったはずなのだ。
だがそんな予兆は,芯が弱い脚本,作品自体が問うているはずの「技術力」のあってはならない低さによってあっさりと裏切られる。
フライヤーには大きく太い字で「感動の積算エンターテイメント」(そもそも「ン」が抜けている)とあるのに,そのヤマ場たるべき「積算」シークエンスがおざなりなのだ。本当なら設計図が完成した後の材料調達の部分こそ,事務屋の底力の見せ所だったはず。しかし作品はそこへ行く前に,主役たちが力を奮う余地のない技術的課題の解決に尺を使い尽くしてしまい,発進できないで終わった,という印象だ。
音声録音の技術レヴェルも低く,至る所で台詞が,特に小木博明の力んだ早口が抜け落ちるのも致命的だ。
聞けば本当は前田建設(本当は「工業」もつくのだが)の実績としてもっと紹介したい現場もあったのだが,施主である国や公共団体から許可が出なかった,というハンデもあったらしい。しかしそれ以前に「カツドウ屋」としての現場力が不足していたのが,一番の問題。「黒部の太陽」が懐かしい。
★
(★★★★★が最高)
話自体は面白くなる要素を存分に秘めていた。ゼネコンの社員と言えども,営業部に所属する人間の多くは事務系の職員。そんな彼らが自らが所属する組織の強みや土建業の神髄を,口さがないネットの住人が満足するような結果を求めて悪戦苦闘を重ねるプロセスを辿る中で初めて知っていく,という筋立ては,非業界人にとっても興味をそそられるものだ。
実際に岸井ゆきの演じる女性社員が,長髪イケメン技術オタクの社員が発する「掘削で大事なのは,掘った土がどのくらいフケる(量が増す)か,ということなんです」という台詞をフックに,プロジェクトに入り込んでいくプロットには力がある。地味な仕事でも掘り進んでいけば見えてくるはずの面白さ,という,まさにあらゆる仕事に通底する真理を炙り出す可能性は,この物語自体にはあったはずなのだ。
だがそんな予兆は,芯が弱い脚本,作品自体が問うているはずの「技術力」のあってはならない低さによってあっさりと裏切られる。
フライヤーには大きく太い字で「感動の積算エンターテイメント」(そもそも「ン」が抜けている)とあるのに,そのヤマ場たるべき「積算」シークエンスがおざなりなのだ。本当なら設計図が完成した後の材料調達の部分こそ,事務屋の底力の見せ所だったはず。しかし作品はそこへ行く前に,主役たちが力を奮う余地のない技術的課題の解決に尺を使い尽くしてしまい,発進できないで終わった,という印象だ。
音声録音の技術レヴェルも低く,至る所で台詞が,特に小木博明の力んだ早口が抜け落ちるのも致命的だ。
聞けば本当は前田建設(本当は「工業」もつくのだが)の実績としてもっと紹介したい現場もあったのだが,施主である国や公共団体から許可が出なかった,というハンデもあったらしい。しかしそれ以前に「カツドウ屋」としての現場力が不足していたのが,一番の問題。「黒部の太陽」が懐かしい。
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(★★★★★が最高)