Music Mania

No Music No Life

若いときのリア充は買ってでもしろ

2017年05月06日 | 日常
今、リア充じゃない人は肩身が狭い。
ここでいうリア充というのは、人からみてリア充に見える人である。
例えば、青空の下で友人たちとビール片手に焼肉を頬張ってるとか、友人たちとUSJで「2時間待ち!」と叫ぶとか、友人たちと潮干狩りで採れたアサリを焼いてるとか、そういうのがリア充なのだ。
なので、休みの日に前から読みたかった本を一日中読むとか、好きなワインを飲みながら自慢のオーディオセットで音の洪水に浸るとか、空母赤城の精密模型製作に明け暮れるとか、そういうのはリア充に入らない。
なぜなら、それは「お一人様」だから。

SNSで、いかにも友人関係に恵まれていて、充実したアウトドアを楽しんでるかをアピールするわけだけど、そこには一種の強迫観念があるように思える。
リア充でなければ人ではない、みたいな。
そこまで極端ではなくとも、休日に1人で過ごすなんてのは、寂しい負け組人生みたいでカッコ悪いのだろう。
そして、出来るだけたくさん友人がいて、「昨日は明け方までカラオケ歌って、今日はディズニーシーだから、睡眠時間たったの2時間よ」と寝てないアピールもする。
最近ではなんと、リア充代行サービスなるものまで存在し、お金を払って一日友人を雇って、一緒に写真を撮ってSNSに投稿するらしい。

バブルの時代は、恋愛至上主義が蔓延っていて、恋人がいないと肩身が狭い想いをした。
今は若者の恋愛離れが進み、恋人のいるいないはさほど重要ではない。
その代わり、どれだけリア充なのかどうかが問題となった。

とくにリア充アピールしなければ負け組になってしまうのが、クリスマスや年末年始、そしてゴールデンウィークなどの連休である。
もちろん、そんなもの気にしない人には関係ない。
家で一人で過ごしてたってぜんぜん問題ない。
でも、リア充代行サービス使ってアピールする人もいるって、なんか面白い現象だなって思う。
それをSNSで見た友人なのか知り合いなのかよくわからない人達は、「この人ってリア充なんだな」と善望の眼差しを向けるのだろう。
それは、一人で充実した休日を過ごすより、人から充実してると思われることのほうが満足度が高い、ということなのだ。
それこそ、「若いときのリア充は買ってでもしろ」なのだ。

そんな表面だけのリア充なんてなんの意味があるの?と思う僕は古い価値観に縛られているのかもしれない。
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