先日写真の整理をしていた。
とは言っても、プリントされた写真ではなく、コンピュータのフォルダの中にあるファイルの整理である。
撮った写真は、必ずフォルダを作り格納する。そしてそのフォルダの名前は、年月日の後に地名がつくのだ。
たとえば本日松戸市で取った写真ならば「2008.09.10matsudo」という名前を着けるのだ。そしてペイントショッププロというレタッチソフトの一括名前変更機能を使って名前をつけ、01から始まる連番も同時につけるのである。
それから「幸たんく」用(ほとんどが旅たんく)に写真のフォルダを2つ作る。名前は「or」と「540」だ。
「or」とはoriginalの意味で、撮った写真をそのままのサイズで保存する。「540」とは写真の幅が540ピクセルのことだ。オリジナルの写真を一括変更機能と横幅が540ピクセルになるように作ったスクリプトを使って、いっぺんに変更かつ…オリジナル写真名540連番…という名前をつけて保存する。
そして大本のフォルダには横幅540ピクセルの写真を作った要領で横幅270ピクセルの写真を名前と連番をつけて作成する。
そして今日は「2005.09.15matsudo」フォルダの中の写真を整理していた。
そして懐かしいものを見たのだ。それが今ではないので余計懐かしさがましたのだ。今日の投稿は写真は1枚だ。
場所は松戸市立第一中学校。ゆきたんくにとっては、長男の母校であり、戦争遺跡関連の遺構としての貴重な資料が眠っている場所だ。
その松戸一中の正門の所だ。
写真の中に1本のさるすべりが写っているだろう。
その横を歩くのに、短い距離ではあるが急に勾配が大きくなる。中学生のような体も柔軟で若い者にとっては良いだろうが、お年寄りにはきついもののはずだ。
といつも思っていた。(自分も足首が少しきつかった)
その昔の1905年にこの場所に松戸競馬場が開場している。日露戦争で軍馬育成の大切さを痛感した日本政府は、殖産産業として競馬・馬産を奨励したのだ。戦争がきっかけで作られた競馬場だ。
それが1919年に戦争がきっかけで姿を消すことになる。競馬場の土地が陸軍用地として接収されたのだ。後の松戸工兵学校だ。つまりこのさるすべりは競馬場や工兵学校の中に植わっていたと思われる。その特性から訓練などに使われるわけはないから、観賞用に植わっていたのかもしれない。一中の正門近くは工兵学校の兵舎の建っていた辺りだという。
それがある日突然ななくなった。あの盛り上がった道が平らになり、さるすべりの木もなくなっていたのだ。なんでそこにあったかは分からない木だったが、なぜなくしたかも分からない木だった。
用事でここを通るたびに「そういえば…」と思い出すのである。
付近に陸軍の標石がありますが、そこの道路が兵学校時代の地獄坂からの道の続きで、サルスベリのあったあたりは、当時の相模台地形図によれば、標高28メートルを越えて、まわりよりも若干高くなっていた地点にあたっています。その小さな丘を避けるように、工兵学校の壁が設けられていたようなんですね。サルスベリのあたりは木が茂っているような感じです。
当時の工兵学校の構内写真ではサルスベリなど写っておらず、しかも思い出話でもサルスベリがでてきません。ですので、現在の道路を開削した際に、民有地だった、あるいは軍用地であっても丘が邪魔だったので使われていなかった場所にたまたまサルスベリがあって、開削の際にたまたま残ってしまったというようなことではないかなと思われます。
少なくとも工兵学校とは無関係だったようです。
航空写真を見直してみました。
たしかに地獄坂から続く道は、百日紅の木の北側に続いているように見えます。
私は、この百日紅のあった辺りの下の部分が地下壕の入り口なのではと考えていました。
それも外れたようですが、正体が分るとスッキリすねものですね。