私は昼下り、居間に簡易ベットを持ち込んで、横たわりながら、雑誌を読みはじめた・・。
総合月刊雑誌の『中央公論』であり、
養老孟司(ようろう・たけし)・著に寄る『鎌倉傘張り日記』が目に止まった。
私はこのお方に関しては、殆ど無知である。
一冊の本も読んだこともなく、『バカの壁』を著作され、ベストセラーになった頃、
『文藝春秋』の《日本の顔》で掲載された折、
初めて知り、東京大学の教授で解剖学を専攻された人であり、育ちの良い人、
といった印象が私なりに残った。
今回、お住まいが鎌倉という記憶があるので、
随筆として『鎌倉傘張り日記』というタイトルを掲げて折、
どのように日常生活を切り取り表現されているか、という興味から読みはじめたのである。
私は素直に共感しながら感銘を受け、思わず人生の達人、と敬愛してしまった・・。
無断であるが、私が感銘を受けた箇所を引用させて頂きます。
【・・
もともと社会的な関心が高いほうではなかった。
そもそもの仕事が基礎医学で、趣味が虫集めだから、それで当然ではないか。
それが社会時評みたいなことをする。
それは無理だから、自分の本音が出てくれば、やめたくなるに決まっている。
ある年齢を越えると、努力というのができなくなる。
無理してやらなくたっていい。
たいていのことは、まあ、いいか、になる。
世間の出来事に対して、とんでもないとか、ダメだとかいったところで、
老いの繰り言にしか聞こえない。
残ったものは、自然への関心である。
自分は自然に還るのだから、それでいいのだと思う。
今日はたまたま箱根の山から横浜まで出てきたが、山の桜が美しかった。
ソメイヨシノではない。土地の人はフジザクラ、オトメザクラ、マメザクラなどと呼ぶ。
灌木に小ぶりの花がついて、地味だが、気がつけば鮮やかに目に残る。
日本の新緑は本当に美しい。
紅葉を愛でる人は多いし、ドライブマップには紅葉印がついている。
でもそういう場所なら、かならず新緑も美しい。
広葉樹が多いといういうことだからである。
】
私は昭和55年前後、小説家・立原正秋・著の『夏の光』の小説から喚起され、
幾たびの時節、箱根のマメザクラ、新緑、紅葉を愛でたりした。
このしたつたない体験があるので、共感したのである。
【・・・
翻って都会を見ると、話がまったく違う。箱根の山から横浜に来ると、それがまことによくわかる。
箱根に行く前はラオスにいた。田舎を回って、毎日虫を捕っていた。
だから感覚が田舎者になっている。
高層ホテルの上から、下の世界を見ると、ほとんど目が回る。
美しいというより、目まいがするというしかない。刺激だけがむやみに強い。
駅の構内を歩くと、西も東もわからない。歩行者にぶつからないように歩くだけで、精一杯である。
これははたして生活と呼んでいいか。
】
私は定年退職後の三年生の身であり、
東京の郊外の調布市に住んで、ある程度緑豊かな樹木に囲まれ日々を過ごしている。
ときおり都心に出かけた折、人混みに疲れ、
高層ビルを観て、人の出入りを想像すると眩暈(めまい)を感じたりしている。
都心で30年以上本社務めのサラリーマンをしてきたが、
こうした感覚がここ数年深まっているのである。
【
私はべつに田舎に住んでいるわけでない。
しかし心底から雑念を去ってすることといえば、虫捕りであり、新緑を見ることである。
そこに「吸い込まれてしまう」のだから仕方がない。
そういう心の持ち方こそ、幸せと人は呼ぶものでないか。
】
注・・【】印は、引用をさせて頂きましたが、原文より改行を勝手ながら多くしました。
ご自分の好きなことに没頭することこそ、この人生の命題と私は受け止め、
思わず養老孟司・氏のグラビアで見た表情を思い浮かべたりした。
こうした方が、人生の達人、と私なりに感銘を受け、
そしてわが身のつたなさに微苦笑している。
総合月刊雑誌の『中央公論』であり、
養老孟司(ようろう・たけし)・著に寄る『鎌倉傘張り日記』が目に止まった。
私はこのお方に関しては、殆ど無知である。
一冊の本も読んだこともなく、『バカの壁』を著作され、ベストセラーになった頃、
『文藝春秋』の《日本の顔》で掲載された折、
初めて知り、東京大学の教授で解剖学を専攻された人であり、育ちの良い人、
といった印象が私なりに残った。
今回、お住まいが鎌倉という記憶があるので、
随筆として『鎌倉傘張り日記』というタイトルを掲げて折、
どのように日常生活を切り取り表現されているか、という興味から読みはじめたのである。
私は素直に共感しながら感銘を受け、思わず人生の達人、と敬愛してしまった・・。
無断であるが、私が感銘を受けた箇所を引用させて頂きます。
【・・
もともと社会的な関心が高いほうではなかった。
そもそもの仕事が基礎医学で、趣味が虫集めだから、それで当然ではないか。
それが社会時評みたいなことをする。
それは無理だから、自分の本音が出てくれば、やめたくなるに決まっている。
ある年齢を越えると、努力というのができなくなる。
無理してやらなくたっていい。
たいていのことは、まあ、いいか、になる。
世間の出来事に対して、とんでもないとか、ダメだとかいったところで、
老いの繰り言にしか聞こえない。
残ったものは、自然への関心である。
自分は自然に還るのだから、それでいいのだと思う。
今日はたまたま箱根の山から横浜まで出てきたが、山の桜が美しかった。
ソメイヨシノではない。土地の人はフジザクラ、オトメザクラ、マメザクラなどと呼ぶ。
灌木に小ぶりの花がついて、地味だが、気がつけば鮮やかに目に残る。
日本の新緑は本当に美しい。
紅葉を愛でる人は多いし、ドライブマップには紅葉印がついている。
でもそういう場所なら、かならず新緑も美しい。
広葉樹が多いといういうことだからである。
】
私は昭和55年前後、小説家・立原正秋・著の『夏の光』の小説から喚起され、
幾たびの時節、箱根のマメザクラ、新緑、紅葉を愛でたりした。
このしたつたない体験があるので、共感したのである。
【・・・
翻って都会を見ると、話がまったく違う。箱根の山から横浜に来ると、それがまことによくわかる。
箱根に行く前はラオスにいた。田舎を回って、毎日虫を捕っていた。
だから感覚が田舎者になっている。
高層ホテルの上から、下の世界を見ると、ほとんど目が回る。
美しいというより、目まいがするというしかない。刺激だけがむやみに強い。
駅の構内を歩くと、西も東もわからない。歩行者にぶつからないように歩くだけで、精一杯である。
これははたして生活と呼んでいいか。
】
私は定年退職後の三年生の身であり、
東京の郊外の調布市に住んで、ある程度緑豊かな樹木に囲まれ日々を過ごしている。
ときおり都心に出かけた折、人混みに疲れ、
高層ビルを観て、人の出入りを想像すると眩暈(めまい)を感じたりしている。
都心で30年以上本社務めのサラリーマンをしてきたが、
こうした感覚がここ数年深まっているのである。
【
私はべつに田舎に住んでいるわけでない。
しかし心底から雑念を去ってすることといえば、虫捕りであり、新緑を見ることである。
そこに「吸い込まれてしまう」のだから仕方がない。
そういう心の持ち方こそ、幸せと人は呼ぶものでないか。
】
注・・【】印は、引用をさせて頂きましたが、原文より改行を勝手ながら多くしました。
ご自分の好きなことに没頭することこそ、この人生の命題と私は受け止め、
思わず養老孟司・氏のグラビアで見た表情を思い浮かべたりした。
こうした方が、人生の達人、と私なりに感銘を受け、
そしてわが身のつたなさに微苦笑している。