私は昭和19年の秋、農家の三男坊として生を受けた。
祖父と父が中核となり、程々に広い田畑を小作人の手を借りながら、
農家を営んでいた・・。
敗戦後、農地改革などである程度は狭まったが、
それなりに旧家として維持されていた。
そして、七夕(たなばた)に関しては、
私が小学生の頃まで、自宅の庭の隅に竹に短冊を吊るす慣わしだった。
孟宗竹の今年成長した5メートル前後の若竹を一本伐って、
杭を打ち、安定させていた。
父の末妹の叔母が嫁ぐ前だったので、お正月の小倉百人一首と同様に、
叔母の指導の下で、私は妹と飾りだてをした。
そして私が小学2年の3学期、父に死去され、
その後、3年生の5月に祖父が亡くなった。
農家の大黒柱の2人が亡くなり、母と叔母、
そして長兄、次兄、私、そして妹の2人が残されたが、
農業の技量、大人の男手を失くしたので、
我家は没落しはじめた・・。
私はこの後、学校に行くと、担任の女の先生から、職員室に呼ばれた。
『XXくん、貴方のお父さん、お祖父さんも亡くなってしまい、
可哀想だか・・貴方、男の子でしょう・・
お母さんに心配させるようなことは・・分かっているわよね・・』
と私に云った。
そして
『男の子は、頑張るのよ・・』
と私に握手してくれた。
私は、その夏、短冊に書こうとしたが、少しためらっていた・・。
《 せんせい、あくしゅもいいけど、
だきしめてほしい・・ 》
叔母や妹が短冊に何かしら綴っているので、
私は本心を書けなかった。
そして私はやむえず、
【 せいせいもげんきで
ぼくもがんばります 】
と何とか読める汚い字で書いた。
短冊を吊るしている時、叔母が、
『どういうこと・・』
と私に云った。
『何でもない・・何となく・・』
と私は下を向きながら答えた。
私は小学生の時は、兄達は優等生で、
私はいじけた劣等生で可愛げもない児であったが、
齢を重ねた63歳の今、
それなりに苦くも懐かしい想いでとなっている。
祖父と父が中核となり、程々に広い田畑を小作人の手を借りながら、
農家を営んでいた・・。
敗戦後、農地改革などである程度は狭まったが、
それなりに旧家として維持されていた。
そして、七夕(たなばた)に関しては、
私が小学生の頃まで、自宅の庭の隅に竹に短冊を吊るす慣わしだった。
孟宗竹の今年成長した5メートル前後の若竹を一本伐って、
杭を打ち、安定させていた。
父の末妹の叔母が嫁ぐ前だったので、お正月の小倉百人一首と同様に、
叔母の指導の下で、私は妹と飾りだてをした。
そして私が小学2年の3学期、父に死去され、
その後、3年生の5月に祖父が亡くなった。
農家の大黒柱の2人が亡くなり、母と叔母、
そして長兄、次兄、私、そして妹の2人が残されたが、
農業の技量、大人の男手を失くしたので、
我家は没落しはじめた・・。
私はこの後、学校に行くと、担任の女の先生から、職員室に呼ばれた。
『XXくん、貴方のお父さん、お祖父さんも亡くなってしまい、
可哀想だか・・貴方、男の子でしょう・・
お母さんに心配させるようなことは・・分かっているわよね・・』
と私に云った。
そして
『男の子は、頑張るのよ・・』
と私に握手してくれた。
私は、その夏、短冊に書こうとしたが、少しためらっていた・・。
《 せんせい、あくしゅもいいけど、
だきしめてほしい・・ 》
叔母や妹が短冊に何かしら綴っているので、
私は本心を書けなかった。
そして私はやむえず、
【 せいせいもげんきで
ぼくもがんばります 】
と何とか読める汚い字で書いた。
短冊を吊るしている時、叔母が、
『どういうこと・・』
と私に云った。
『何でもない・・何となく・・』
と私は下を向きながら答えた。
私は小学生の時は、兄達は優等生で、
私はいじけた劣等生で可愛げもない児であったが、
齢を重ねた63歳の今、
それなりに苦くも懐かしい想いでとなっている。