夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私の『心のふるさと』は・・♪

2008-07-18 19:40:35 | 幼年・少年時代の想いで
私は齢を重ねた63歳の年金生活の身であるが、
過ぎた日々の半生を振り返えり、私の心の源泉は、
と問い続けたりすることがある。

そして、どなたも同様と思われるが、
やはり私は幼年期、少年期にときおり思い寄せたりしている・・。

幼年期、少年期に関しては、このサイト、別サイトで数多く投稿して折、
このブログの【年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~】に於いて、
カテゴリ『幼年・少年期の想いで』と称して、
52編ばかり残している。


私は東京郊外の調布市で農家の三男坊として、昭和19年の秋に生を受け、
祖父、父、母、そして父の妹の叔母2人、
長兄、次兄に囲まれて、乳児の時を過ごした・・。

祖父と父が中心となり、小作人の手を借り、
程々の広さの田畑を耕し、宅地の周辺には竹林、雑木林があった。

敗戦後、まもなくして農地改革で田畑は減少したが、
幼児の私には、それなりの田畑、湧き水、小川、蓮(ハス)専用の田んぼ、
池、防空壕などの数多くの情景が、
今でも鮮明に残っている・・。


長兄、次兄に続いて私は生を受けたが、跡取り候補の男の子は2人いたので、
祖父、父らは3番目は女の子を期待していたらしく、
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していたかのように、
私は感じ取り、いじけた可愛げのない幼年期を過ごした。

そして、祖父と父は大学に学ぶことが出来なかったので、
跡取りの長兄に期待をかけ、小学5年生の頃から、家庭教師を付けたりした。

長兄は当時通っていた村立小学校の創設60年の卒業生の中で、
初めて国立の中学校に入学できて、
周囲の期待に応(こた)えたのである。

次兄は活発な伸び伸びとして育成されたが、
それなりに学校の成績は、クラスで一番と称せられていた。


このした中で、私は小学校に入学しても、
通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等性であった。
父が小学2年3学期、祖父がまもなくした小学3年の一学期に死去し、
大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめたのである・・。

私はお兄さんは出来たのに、と担任の先生のため息もさることながら、
相変わらずの劣等性でいじけた影の子であった・・。


後年、都心の私立の高校に通った頃から、
地元から離れ、都心の空気と兄達の影響のない高校であったので、
私なりに伸び伸びとして育ち、
文学、歴史などに深く興味を持つ普通の子となったのである。

これ以降は、大学を中退し、映画・文学青年の真似事をした後、
何とか大企業の中途入社でき、サラリーマンを35年ばかりし、
定年退職を迎えたのである。


私は20代のなかばの頃まで、
地元を振りかえることをなるべく避けていた・・。

中学生の頃までに、急激に住宅街への変貌する情景に、
心身の波長が耐え切れなかった面があったが、
何よりも劣等性だった小・中学時代を思い出すのも、
負い目もあり、つらく、ふるさとなんかは、と思い続けていた。

30代のなかば、地元で家を構えた時、
家内と散策するたびに、小・中学校に通った路とか、
かっての情景を語ったりしたのである。

そして定年退職後、私は肩書きの失くした名刺になったので、
調布の里っ子、と明示しながら、
友人らに恥ずかしげに手渡したりしている。


尚、ここ30数年に於いて、
心のふるさと・・しばしば各界で使われているが、
この言葉を最初に使われたのは、私のつたない読書歴のメモに記載している。

旅行雑誌の『旅』の編集長をしていた紀行作家・岡田喜秋が、
作家・立原正秋に紀行文の連載を依頼した時、
『心のふるさとをゆく』とタイトルを命名されたのである。
昭和43年の新年号から1年間連載されていた。

私は紀行文をそれなりに乱読してきたが、
今は亡き立原正秋・著の『心のふるさとをゆく』には、
私なりの自己形成のひとつの基幹となしたことを付記する。


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改めて、『野に咲く花のように』・・♪    

2008-07-18 08:56:28 | 定年後の思い
昭和57年頃の夏、私は会社の業務が多忙で夏季休暇も半分程しか取れなかったので、
近場の熱海の外れにある赤根崎のリゾート・ホテルに2泊3日で宿泊した。

家内は茶事を中学生の頃から習っていたので、
私は結婚してから色々と和事に関しては、家内から影響を受けたりしていた。
茶花、花入、茶碗、掛け軸などを知り、四季の移ろいも改めて知りはじめた・・。

結婚して、3年後に家を建てた時、
多額な借入となったが、若さの心の勢いとして、茶室まで設けた。

私は茶事に関しては無知であったが、
免許状の昇進と礼金の仕切りのような暗黙の約束事を知った時は、
不思議な世界と思ったりしていた。


リゾート滞在の折、休暇前は睡眠不足であったので、よく寝ていた。
昼下りのひととき、庭園にある茶室で茶事があるので、
支配人から家内が誘われ、私も末席としてお供した。

掛け軸、花入、茶花も簡素で、
素朴な茶碗で抹茶を頂いたりした。

茶室から庭園に出で、家内と散策した時、
『野に咲く花のような茶事であったね・・』
と私は家内に云った。

家内は微笑んでいた・・。

庭園は夏の光を受けていたが、
外れにある松林の中に入ると、
海上からの風が吹き、肌には心地よかった。


古人の利休が、花は野にあるように、という明言は私なりに知っていたが、
私はこの時以来、人生信条として『野に咲く花のように』と掲げて、
年賀状などで明記し、たびたび公言したりしている。


年金生活の4年生の今、ここ数年の年賀状には、
身過ぎ世過ぎの年金生活ですので、
清く貧しく美しくが適度の目標です、
などと付記したりしている。



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