私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨夜、いつものように本を読んでいたら深夜の1時半過ぎとなり、寝付いたのは2時過ぎと思われ、
今朝、目覚めたのは7時半過ぎであった。
『意気を抜いて眠ったら・・この時間になってしまったょ・・』
と私はいつもの日の出の起床時間から大幅に寝坊したので、
照れ笑いをしながら、家内に言ったりしていた。
しばらくした後、私は玄関の軒下で煙草を喫ながら、
昨夜の9時過ぎから小雨が降り続く玄関庭の樹木を眺めたりした。
そして数多くの雑木は、芽吹きが終えて幼い葉を広げ始めている情景に見惚(みと)れたりした。
そして花冷えのような気温なので、昼下がりのひととき、
寝室で布団にもぐり、少し読書をしながら、寝付くのも良いかしら、
と寝不足気味の私は思ったりした。
この後、私は過ぎ去った現役時代の何かと睡眠不足だった時のことを思い返したりした・・。
東京オリンピックが開催された頃、私はアルバイトをしながら映画青年の真似事をしていて、
小林正樹・監督の『人間の條件(全六部作)』は9時間半の大作であり、
池袋にあった人世座という映画館で、この当時に確か土曜日の夜にオールナイトで上映されたりしていた。
私は見逃した作品であったので、一週間ごとに二回ばかり観賞したので、
徹夜明けの池袋の朝、小林正樹監督の執念は凄かった、感動しながら駅に向ったりした。
その後、文學青年の真似事をしていた時代、
新聞の人事募集を見て、ある警備会社に契約社員として採用されたのは、
1968(昭和43)年の初春であった。
この警備会社の派遣先は、新宿から10分たらず駅に隣接した大きなショピング・センターであった。
私の勤務体制は朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。
そしてショピング・センターの営業時間は、朝の10時に開店し、
夜の8時に閉店し、夜間に一時間毎に視(み)まわり時間の責務で、
もとより仮眠の時間はなかった。
難点としては、2人の交代制なので、私が朝の9時に警備室に入室し、
相手方と1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。
私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。
しかしながら、私の相手方が宗教関係で一日だけ休日を取得され時、
私は徹夜明けでも勤務続行となり、さすがにショピング・センターの営業時間中、
警備室で待機している時、コックリと居眠りをし、48時間勤務に耐えた辛い思いで過ごしたりした。
その後は、文學青年の真似事もあえなく敗退し、
やむなく将来設計も可能なサラリーマンに転身するために、コンピュータの専門学校に1年ばかり学んだ後、
何とか民間会社に中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
まもなく音楽業界のあるレコード会社が新設されて、
私は転属辞令を受けて、この会社の情報畑に20年ぐらい職務としていた。
そしてシステムの改定に伴い、開発・運用などに携わる業務であったので、
徹夜などは少なくとも百日ぐらいはしたと思う。
会社の勤務時間は朝の9時半に始業し、夜の6時が終業となっていたが、
システムの改定後の半年過ぎれば部分改定などがあり、定例時間内で退社できたのは、
殆どなかったのである。
徹夜となれば、朝の9時半に始業時に出社し、夜を徹して、翌日の昼下がりに退社していたので、
30時間ぐらいの勤務となり、若さと気力で業務に従事できたが、
さすが40代の半(なか)ばとなった頃は、
『中年のおじさんに・・体力テストは勘弁してほしい・・』
と非常階段の踊り場で六本木の朝焼けの前の情景を眺め、
煙草を喫いながら呟(つぶや)いたりしていた。
このように新婚の特別休暇、夏季休暇、年末年始も会社の規定通りの期間に休めたことはなく、
いつも数日は欠けたが、システムの安定した間に代休が取得できた時は、
家内と小旅行をしたりしていた。
その後、経理畑、営業畑に異動した時、大幅な業務改定時期を除けば、
初めて規定の業務時間が大半となり、ときおり夜の9時過ぎとなったりした。
そして55歳の直前に業界はリストラ烈風となり、私も出向となり、
少し遠い物流会社に勤務し、
朝は4時45分に起床して、帰宅は早くても夜の9時以降であったので、
当然ながら睡眠時間は削り、日曜日の午後に昼寝をして何とか保っていた。
このような私のサラリーマンの35年を振り返ると、
数多くの方と同様に多忙で合ったので、
睡眠時間を削り勤務していたことが圧倒的に多かったのである。
私の現役時代の理想としては、朝9時半に出社し、退社が夜の7時前後で、
帰宅するのは8時前後であったが、
もとより叶えられるのは少なかったのである。
2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
年金生活に入った私は、夜の10時に布団にもぐり本を読みながら寝つき、
起床は日の出と共に起きだし、昼下がりのひとときに昼寝をするのが理想であるが、
8年生となった現実は、週一度ぐらいは昼寝を体験し、
天上の神々からの何よりの贈り物として、甘受している。
ときおり私は、睡眠に関して妄想することがある。
睡眠時間の代わりに何かの錠剤を飲めば、
あたかも充分に睡眠できたように満足できる新薬を考案された人は、
ノーベル賞は3つぐらいは確実に受賞されると思ったりする。
しかし、夜のひととき、布団の中にもぐり、ほっとひと息つき、安らぎを得ながら寝付く、
そして目覚めた時、ぼんやりとぬくもりの感触を味わえるひととき、
こればかりは貧富にかかわらず、何事にも変えがたいと思ったりしている。
余談であるが、ナポレオンが睡眠時間は3時間あれば充分、と伝説があるが、
多くのヨーロッパの主要国、そして周辺の人々への虚勢と思い、
私は秘かに日中のひとときは昼寝をしていた、と確信を深めたりしている。
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昨夜、いつものように本を読んでいたら深夜の1時半過ぎとなり、寝付いたのは2時過ぎと思われ、
今朝、目覚めたのは7時半過ぎであった。
『意気を抜いて眠ったら・・この時間になってしまったょ・・』
と私はいつもの日の出の起床時間から大幅に寝坊したので、
照れ笑いをしながら、家内に言ったりしていた。
しばらくした後、私は玄関の軒下で煙草を喫ながら、
昨夜の9時過ぎから小雨が降り続く玄関庭の樹木を眺めたりした。
そして数多くの雑木は、芽吹きが終えて幼い葉を広げ始めている情景に見惚(みと)れたりした。
そして花冷えのような気温なので、昼下がりのひととき、
寝室で布団にもぐり、少し読書をしながら、寝付くのも良いかしら、
と寝不足気味の私は思ったりした。
この後、私は過ぎ去った現役時代の何かと睡眠不足だった時のことを思い返したりした・・。
東京オリンピックが開催された頃、私はアルバイトをしながら映画青年の真似事をしていて、
小林正樹・監督の『人間の條件(全六部作)』は9時間半の大作であり、
池袋にあった人世座という映画館で、この当時に確か土曜日の夜にオールナイトで上映されたりしていた。
私は見逃した作品であったので、一週間ごとに二回ばかり観賞したので、
徹夜明けの池袋の朝、小林正樹監督の執念は凄かった、感動しながら駅に向ったりした。
その後、文學青年の真似事をしていた時代、
新聞の人事募集を見て、ある警備会社に契約社員として採用されたのは、
1968(昭和43)年の初春であった。
この警備会社の派遣先は、新宿から10分たらず駅に隣接した大きなショピング・センターであった。
私の勤務体制は朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。
そしてショピング・センターの営業時間は、朝の10時に開店し、
夜の8時に閉店し、夜間に一時間毎に視(み)まわり時間の責務で、
もとより仮眠の時間はなかった。
難点としては、2人の交代制なので、私が朝の9時に警備室に入室し、
相手方と1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。
私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。
しかしながら、私の相手方が宗教関係で一日だけ休日を取得され時、
私は徹夜明けでも勤務続行となり、さすがにショピング・センターの営業時間中、
警備室で待機している時、コックリと居眠りをし、48時間勤務に耐えた辛い思いで過ごしたりした。
その後は、文學青年の真似事もあえなく敗退し、
やむなく将来設計も可能なサラリーマンに転身するために、コンピュータの専門学校に1年ばかり学んだ後、
何とか民間会社に中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
まもなく音楽業界のあるレコード会社が新設されて、
私は転属辞令を受けて、この会社の情報畑に20年ぐらい職務としていた。
そしてシステムの改定に伴い、開発・運用などに携わる業務であったので、
徹夜などは少なくとも百日ぐらいはしたと思う。
会社の勤務時間は朝の9時半に始業し、夜の6時が終業となっていたが、
システムの改定後の半年過ぎれば部分改定などがあり、定例時間内で退社できたのは、
殆どなかったのである。
徹夜となれば、朝の9時半に始業時に出社し、夜を徹して、翌日の昼下がりに退社していたので、
30時間ぐらいの勤務となり、若さと気力で業務に従事できたが、
さすが40代の半(なか)ばとなった頃は、
『中年のおじさんに・・体力テストは勘弁してほしい・・』
と非常階段の踊り場で六本木の朝焼けの前の情景を眺め、
煙草を喫いながら呟(つぶや)いたりしていた。
このように新婚の特別休暇、夏季休暇、年末年始も会社の規定通りの期間に休めたことはなく、
いつも数日は欠けたが、システムの安定した間に代休が取得できた時は、
家内と小旅行をしたりしていた。
その後、経理畑、営業畑に異動した時、大幅な業務改定時期を除けば、
初めて規定の業務時間が大半となり、ときおり夜の9時過ぎとなったりした。
そして55歳の直前に業界はリストラ烈風となり、私も出向となり、
少し遠い物流会社に勤務し、
朝は4時45分に起床して、帰宅は早くても夜の9時以降であったので、
当然ながら睡眠時間は削り、日曜日の午後に昼寝をして何とか保っていた。
このような私のサラリーマンの35年を振り返ると、
数多くの方と同様に多忙で合ったので、
睡眠時間を削り勤務していたことが圧倒的に多かったのである。
私の現役時代の理想としては、朝9時半に出社し、退社が夜の7時前後で、
帰宅するのは8時前後であったが、
もとより叶えられるのは少なかったのである。
2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
年金生活に入った私は、夜の10時に布団にもぐり本を読みながら寝つき、
起床は日の出と共に起きだし、昼下がりのひとときに昼寝をするのが理想であるが、
8年生となった現実は、週一度ぐらいは昼寝を体験し、
天上の神々からの何よりの贈り物として、甘受している。
ときおり私は、睡眠に関して妄想することがある。
睡眠時間の代わりに何かの錠剤を飲めば、
あたかも充分に睡眠できたように満足できる新薬を考案された人は、
ノーベル賞は3つぐらいは確実に受賞されると思ったりする。
しかし、夜のひととき、布団の中にもぐり、ほっとひと息つき、安らぎを得ながら寝付く、
そして目覚めた時、ぼんやりとぬくもりの感触を味わえるひととき、
こればかりは貧富にかかわらず、何事にも変えがたいと思ったりしている。
余談であるが、ナポレオンが睡眠時間は3時間あれば充分、と伝説があるが、
多くのヨーロッパの主要国、そして周辺の人々への虚勢と思い、
私は秘かに日中のひとときは昼寝をしていた、と確信を深めたりしている。
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