私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨日の昼下がりのひととき、居間でほんやりとしていたら、
何気なしに1000枚ぐらいあるカセット、CD、DVDの音楽棚に近寄り、
CDの並んだ背文字を見たりし、少しはみ出しているようなブック形式のCD4枚組を取りだした。
コニー・フランシスのアルバムであったが、懐かしいねぇ、と思いながら、
確か聴くのは、定年後は一年に一回ぐらいだょねぇ、
と思いながら、CDラジカセにセットした・・。
そしてコニー・フランシスの唄声と聴くと共に、私が初めて聴いた頃を思い馳せたりした。
私が都心の高校に入学したのは1960〈昭和35〉年の4月であり、
あの当時は小学4年の頃から映画館に独りで観たりした映画少年で、
相変わらず映画を観たりしてきたが、洋画中心になっていた。
そして小・中学生は劣等生だった私が遅ればせながら高校に入学してまもなく、
突然に読書に目覚めた・・。
読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力であった。
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読すると同時に、
授業を学ぶ楽しさも初めて体験し、成績も向上した。
こうした中で、音楽も聴き始め、
ポピュラーとして、真っ先に浮かんだのは、コニー・フランシスであった。
私がコニー・フランシスを初めて意識的に聴いたのは、
確か高校2年前後の1962年の頃であったと思う。
ラジオから甘くせつない声がながれてきた。
この頃、実家の居間にはテレビがあったが、自分の個室はラジオぐらいで、
ラジオは殆ど付けっぱなしであった。
中学時代は、テレビでザ・ピーナッツを視聴したりしていたが、
コニー・フランシスの何となく甘くせつなく、色合いのある声が聴こえ、
『マイ・ハピネス』、『カロリーナの月』、『泣かせないでね』等であったと思う。
レコードまでは買えなかったけれど、良くラジオから流れた・・。
その後、『可愛いベイビー』の日本語も流れ、日本の歌手では中尾ミエが歌うようになった。
私が50代になった時、業務の忙しい中、
休日の時、急にコニー・フランシスの唄声が聴きたくなった。
そして私は、CDアルバムを7枚ばかり購入して、聴き入っていた。
その後、たまたま私はあるレコード会社に勤めていたので、
社内の洋楽畑の人から、私がコニー・フランシスのファンであること知り、
セット物のCDを頂いた。
アメリカ市場の流行のブック形式で、豪華な解説書ある直輸入の商品であった。
日本の発売に併せ、豪華な日本語の解説書が加わった、CD4枚組であった。
私はアメリカの本国で曲の編成に興味もあったが、
何よりあの当時のコニー・フランシスはどのように評価を受けていたのか、
と解説書を精読した。
《・・
・・彼女は、ナンシー・シナトラ、ペトゥラ・クラーク、ディォンヌ・ワーウィック、
そしてブレンダ・リーなどといった競合するライバルを遥かにしのぐレコード売上げで、
1960年代最も成功した女性ヴォーカリスト・・
・・》
と綴られていた。
私はコニー・フランシスを聴くたびに、ときには甘くせつなく、色合いのある唄声に魅了されるが、
やはり私の中学、高校時代の想いでも重なるので、
人一倍、その一曲、一曲は心にしみて聴こえてくる・・。
そして、『トゥルー・ラブ』を繰り返して、聴いたりすることもある。
私はアメリカで編成されたコニー・フランシスの4枚組のCD、
全118曲を聴いてたりした後、
私は中学2年頃に『マイ・ハピネス』、そして『カラーに口紅』を確かに聴いていた、
と教えられたりした。
この当時の私としては、《カラーに口紅》という意味合いから連想して、
少年心に、口紅を付ける素敵なお姉さん・・ワンピースを着た人・・
と勝手な思いで想像していた14歳の男の子であった。
コニー・フランシスの『渚のデート』、『大人になりたい』、『ヴァケイション』、
『ボーイ・ハント』等を聴いていると、
まぎれなく、甘くせつない色合いの唄声は、
あの中学校の頃の大衆文化の移り変りの早かった時代である中、
思春期の私は、アメリカの文化の香り、豊かな経済力、と共に夢に酔い、
そしてコニー・フランシスのような素敵なお姉さんにあこがれていた、と思われる。
私はワンピース、ツー・ピースを着た女性に、何かしらときめきを覚える。
そしてスカートのすそ先が少し揺れ、胸元がまぶしく、
中学生の時から、齢ばかり重ねた今でも、このような女性に対しての思いは変わらず、
ときおり私は独り微苦笑をしたりする。
こうしたことの原点は、コニー・フランシスから感じたことが始まりである。
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昨日の昼下がりのひととき、居間でほんやりとしていたら、
何気なしに1000枚ぐらいあるカセット、CD、DVDの音楽棚に近寄り、
CDの並んだ背文字を見たりし、少しはみ出しているようなブック形式のCD4枚組を取りだした。
コニー・フランシスのアルバムであったが、懐かしいねぇ、と思いながら、
確か聴くのは、定年後は一年に一回ぐらいだょねぇ、
と思いながら、CDラジカセにセットした・・。
そしてコニー・フランシスの唄声と聴くと共に、私が初めて聴いた頃を思い馳せたりした。
私が都心の高校に入学したのは1960〈昭和35〉年の4月であり、
あの当時は小学4年の頃から映画館に独りで観たりした映画少年で、
相変わらず映画を観たりしてきたが、洋画中心になっていた。
そして小・中学生は劣等生だった私が遅ればせながら高校に入学してまもなく、
突然に読書に目覚めた・・。
読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力であった。
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読すると同時に、
授業を学ぶ楽しさも初めて体験し、成績も向上した。
こうした中で、音楽も聴き始め、
ポピュラーとして、真っ先に浮かんだのは、コニー・フランシスであった。
私がコニー・フランシスを初めて意識的に聴いたのは、
確か高校2年前後の1962年の頃であったと思う。
ラジオから甘くせつない声がながれてきた。
この頃、実家の居間にはテレビがあったが、自分の個室はラジオぐらいで、
ラジオは殆ど付けっぱなしであった。
中学時代は、テレビでザ・ピーナッツを視聴したりしていたが、
コニー・フランシスの何となく甘くせつなく、色合いのある声が聴こえ、
『マイ・ハピネス』、『カロリーナの月』、『泣かせないでね』等であったと思う。
レコードまでは買えなかったけれど、良くラジオから流れた・・。
その後、『可愛いベイビー』の日本語も流れ、日本の歌手では中尾ミエが歌うようになった。
私が50代になった時、業務の忙しい中、
休日の時、急にコニー・フランシスの唄声が聴きたくなった。
そして私は、CDアルバムを7枚ばかり購入して、聴き入っていた。
その後、たまたま私はあるレコード会社に勤めていたので、
社内の洋楽畑の人から、私がコニー・フランシスのファンであること知り、
セット物のCDを頂いた。
アメリカ市場の流行のブック形式で、豪華な解説書ある直輸入の商品であった。
日本の発売に併せ、豪華な日本語の解説書が加わった、CD4枚組であった。
私はアメリカの本国で曲の編成に興味もあったが、
何よりあの当時のコニー・フランシスはどのように評価を受けていたのか、
と解説書を精読した。
《・・
・・彼女は、ナンシー・シナトラ、ペトゥラ・クラーク、ディォンヌ・ワーウィック、
そしてブレンダ・リーなどといった競合するライバルを遥かにしのぐレコード売上げで、
1960年代最も成功した女性ヴォーカリスト・・
・・》
と綴られていた。
私はコニー・フランシスを聴くたびに、ときには甘くせつなく、色合いのある唄声に魅了されるが、
やはり私の中学、高校時代の想いでも重なるので、
人一倍、その一曲、一曲は心にしみて聴こえてくる・・。
そして、『トゥルー・ラブ』を繰り返して、聴いたりすることもある。
私はアメリカで編成されたコニー・フランシスの4枚組のCD、
全118曲を聴いてたりした後、
私は中学2年頃に『マイ・ハピネス』、そして『カラーに口紅』を確かに聴いていた、
と教えられたりした。
この当時の私としては、《カラーに口紅》という意味合いから連想して、
少年心に、口紅を付ける素敵なお姉さん・・ワンピースを着た人・・
と勝手な思いで想像していた14歳の男の子であった。
コニー・フランシスの『渚のデート』、『大人になりたい』、『ヴァケイション』、
『ボーイ・ハント』等を聴いていると、
まぎれなく、甘くせつない色合いの唄声は、
あの中学校の頃の大衆文化の移り変りの早かった時代である中、
思春期の私は、アメリカの文化の香り、豊かな経済力、と共に夢に酔い、
そしてコニー・フランシスのような素敵なお姉さんにあこがれていた、と思われる。
私はワンピース、ツー・ピースを着た女性に、何かしらときめきを覚える。
そしてスカートのすそ先が少し揺れ、胸元がまぶしく、
中学生の時から、齢ばかり重ねた今でも、このような女性に対しての思いは変わらず、
ときおり私は独り微苦笑をしたりする。
こうしたことの原点は、コニー・フランシスから感じたことが始まりである。
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