夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

春爛漫のこの時節、齢ばかり重ねた私でも、生きている歓びを改めて享受し・・。

2012-04-15 13:02:38 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

一昨日の夜9時過ぎに小雨が降りだし、昨日は小雨の降る一日となり、
昼下りも11度前後であったので、花冷えかしら、と思いながら本を読んだりしていた。
そして深夜まで本を読んだりしていたので、今朝も寝坊して7時半過ぎに起床した。

家内は洗濯の合間に朝食の準備を孤軍奮闘をして、
私はぼんやりと洗面した後、まばゆい陽射しを受けながら、雨上がりの主庭の樹木を眺めたりしていた。
そしてテラスに下り立ち、大きな莟〈つぼみ〉から待ち焦(こが)がれたように咲き始めた紫木蓮(し・モクレン)、
或いは陽当たりの少ない所にある藪椿(ヤブ・ツバキ)の朱紅色、紅色、濃い紅色の花びらが、
彩(いろど)っている情景に微笑んだりした。

私の住む地域は節分を迎えた2月は平年より寒い日が続いた為に、
3月中旬に遅ればせながら白梅、紅梅は満開となる中、純白の日本水仙も咲いたりしていた。
そして茶花のひとつとして愛されている白玉椿(シラタマ・ツバキ)も咲き始め、
私は春到来ねぇ、と喜びをかみしめたりしてきた。

そして5本ばかりのモミジ、花梨(カリン)、無花果(イチジク)などの雑木は芽吹きを迎え、
やがて日増しごとに成長し、幼き葉から葉を広げ、新た若葉となっている。
この間、常緑樹の金木犀(キンモクセイ)の新芽も伸びだし、
垣根がわりのアカネモチは、朱紅色の新芽が勢いよく伸び、
その後は眩(まぱゆ)く朱紅色の若葉に変貌し、彩(いろど)りとなっている。

こうした中、日本水仙は終わりを告げると、黄色と純白のラッパ水仙が咲き、
可憐な純白した花びらの鈴蘭水仙(ススラン・スイセン)が、主庭、玄関庭に数多く咲き始めている。
そして稲穂のような小判草(コバンソウ)が地表から芽をだいして、
日増し毎に成長し、今や20センチばかりとなっている。

私は自宅から3分ぐらい歩いた先に野川があるが、
清流の水面(みなも)を眺めたり、この遊歩道や近くの公園を殆ど毎日のように散策したりしてきた。、
コナラ、クヌギ、モミジ、欅(ケヤキ)などの雑木の芽吹きが始まり、
その後の幼い葉が見られる木の芽時(このめどき)の時節の情景に、
齢を重ねる毎に私の心は深まってきている。

そして櫻の樹木は、無念ながら我が家は狭い100坪ばかりの敷地なので植えられず、
やはり付近の公園や野川の遊歩道、そして駅までの旧街道を散策したりして観たりしてきた。

私の住む地域は、染井吉野(ソメイヨシノ)の櫻が最初に咲き始めると、
その後に山櫻(ヤマザクラ)、最後に八重櫻(ヤエザクラ)が咲くのが、平年の慣(なわら)わしである。

こうした中で、三分咲きに心を寄せたりした後、
過ぎし金曜日の6日に、染井吉野(ソメイヨシノ)は満開となったりし、愛(めでた)りしてきた。

そして12日に野川の櫻並木の遊歩道を歩いたりすると、
早くも花びらが散乱して、歩道の脇には絨毯のように花びらが重なっていた。

私は立ち止まり、数多くの櫻花を見たりすると大半は小枝に残っているが、
ときおり微風が吹くと、花びらが小枝から離れ、青い空の中をさまようように舞いながら、
やがて地上に落下している。
古来より、櫻の散りはじめ、花びらが舞いながら散る情景を花衣(はなごろも)と称してきたことに、
思いを重ねたりした・・。

私は櫻花に関しては、3分咲きに魅了されるひとりであるが、
やはり花びらが散りはじめ、空中にゆったりと舞いながら散る光景に美を感じてきた。

このような情景に私は見惚(みと)れてたりしていたが、
遥か1000年前の人たちも、私のように感じる人が多いかしら、と思わず微笑んだりしてしまった。

私は櫻花を観る時、齢ばかり重ねた身であるが、
今年も余生の中で、天上の神々の采配で生かしてもらっている、と思いが強く、
毎年、花衣(はなごろも)の情景を眺めていると、過ぎし日々に愛惜を重ねたりしている。

このように思ったりした後、野川の水の流れを見たりした。
川面は陽春の陽射しを受け、光を帯びながら清き流れとなっていた・・。
そして川辺に枯れた薄(すすき)の群生に、櫻花が重なっていて、
やがて水の流れに巻き込まれ、花筏(はないかだ)のように下流に向かい、ゆっくと流れていた。

この後、私は野川の歩道を離れ、小路を歩くと、
ある旧家の農家だった家の敷地の中、
青空の中に聳(そび)えるように淡き色合いの大きな山櫻(ヤマザクラ)に出あったりした。
そして、このようなところに山櫻があったことは知らなかったよ、と思いながら私は足を止めた。

私は若き34歳の時、次兄が突然に自裁されたので、
私はこの山櫻に心を託して、山櫻の咲く時になると、次兄の言葉、しぐさを思い浮かべたりし、
何かとお世話になった次兄を思い馳せたりし、30数年過ぎている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、その後は年金生活をしている身である。
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている拙(つたな)いひとりである。

春爛漫の時節を迎えた今、齢ばかり重ねた私でも、生きている歓びを改めて享受している。
主庭は陽春の昼の陽射しを受けながら、まばゆい新芽、若葉を眺めたりし、
ときおり微風が吹く中、小判草や鈴蘭水仙の花先きは揺れたりする情景を、
私はぼんやりと見ながら綴っている。


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