私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳であるが、
民間会社の中小業のサラリーマンを35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に卒業した身である。
、
ときおりサラりーマン現役時代を振り返る時、どの方でも体験されたと思われるが、
それぞれの方の人生軌跡に於いて、その時、それなりに決定的な決断が差し迫られることがあり、
そしてその方のご自身のその後の人生に、大きく影響させられる時点もある。
私の場合は、サラリーマン最後の5年間が出向となったが、
この出向が提示されて決まった時、私なりの人生のターニング・ポイントのひとつと成った。
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私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、
あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転進する為に、
コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだりした後、
この当時は映像・音響の大手メーカーの民間会社に、何とか中途入社出来たのは、
1970年(昭和45年)の4月であった。
そして配属された音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、
まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業などの部門を異動したりして、
35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
こうした中で1998年〈平成10年〉に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。
こうした中で、私の勤めいていた会社も、人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施された。
私は1970年(昭和45年)の中途入社した身であったが、
この頃の時代の風潮としては、多くのお方と同様に、この会社で定年の60歳まで
勤め上げ意志を殆どの方たちは共有し、私なりの人生設計を持っていた。
そして激動の1998年(平成10年)の前後、先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。
このような情況の中、やがて私は人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》と思いがあった。
もとより周囲の人事異動が激しく行われていた時期であったので、
ある程度の人事の異動が覚悟していたが、出向とは予測もしていなかったのが本音であった・・。
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私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。
出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外として感じたので、
つたない私でも屈辱と無念さが入り混じ、失墜感があったのである。
出向先は神奈川県の東名高速道路に隣接した所にある物流会社の本社であった。
この物流会社は全国の主要基点に物流センターを設置し、
音楽商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そしてそれぞれの物流センターは、
販売店からの日毎の受注に応じた出荷や返品を含めた商品の出入り、
或いは製造先からの入荷などもあり、保管などの業務管理を行っていた。
私はこの中のひとつの物流センターに通ったが、大きな倉庫が3棟あり、
こうした中で音楽商品の棚が立ち並び、およそ15000ぐらいの種類の商品があった。
そしてセンター長をはじめとする私を含めて正社員の5名の指示に基づいて、
若手の20代を中核とした男性の契約社員、アルバイトの10名、
そして30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。
それまでの私は、30年近く本社勤めであったので、
各部門間で男性正社員はじめ、多くの女性正社員、契約社員と職場を共にしたが、
こうした物流センターの職場環境には戸惑ったりした。
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やがて私は若手の契約社員、アルバイト、そして女性パート人達と業務上の打ち合わせ、親睦会、
そして現場での立ち話したり、管理部門として立場で、社内の事情を把握するにつれて、
意外と賃金を含め冷遇されていると解かってきた。
そして物流現場で多くの人達に効率よく動いて頂く為に、上に立つ方に様々なタイプがあることを知った。
短絡的に云えば、あたりは柔らかく指示するタイプ、或いは威圧的に形で指示するタイプであった。
私のそれぞれの若手の男性の10名、そして女性のパートの120名前後のお方に性格を知る必要があると思い、
ともかく私なりに脳裏に刻み、 多くのお方のその人なりの長所と短所を覚えた。
私は出向の身分で、ある面の責務は物流会社にゆだねられることもあった為か、
あたりは柔らかく接することができ、たとえばミスなど気付いた場合、
その当人の性格を加味し、人前を避けて注意したりした。
もとより再発防止が目的であるので、威圧的に行っても当人が傷つく場合が多いので、
これは私の性格からして避けたのである。
そして物流センターの現場では、出来る限り笑顔で大きな声で接していた。
そしてまもなく、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私がが30年近く勤めてきた出向元の会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりした。
こうした中、私の出向元のレコード会社では、出向先の物流会社に対して、物流コストの削減を要請され、
結果として若手男性の契約社員、アルバイト、そして女性のパートお方達の時間給の削減、そして解雇が行われた。
私は内面心の板ばさみとなり、労苦の多い時期でもあった。
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やがて私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に、何とか定年退職を迎えられたのである。
まもなく出向先の物流会社で私の歓送会を開催して頂き、
女性のパート方達から花束、贈呈品、そして色紙にほぼ全員からの短かなメッセージを見た時、
涙があふれそうになり困ったのは事実である。
私は現場で立場の弱い人達から、限りなく多くの心の勉強をさせて頂いた。
指示する立場であれ、傲慢さをなくし謙虚な言動がいかに大切なのかを、
改めてこの人たちから多々学んだのである。
私は殆どレコード会社の本社で情報畑、管理畑で30年、その後の5年は物流会社に出向で、
サラリーマン生活を終えたのであるが、
今でもこの物流会社で出向したことは確かな心の節度として、かけがえのない貴重な財産と思っている。
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そして、私は出向身分であったので、何とかリストラ烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
されど私の心の片隅には、最期には出向であっても、途中で挫折せずに程ほどの年収を得て勤務でぎたことは、
結果的には幸運の星と思ったりしている。
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余談であるが、出向元のレコード会社の有志が、退職後まもない時、
私の為に歓送会を開いてくれた。
その席のひとりのお方は、すでに早期退職優遇制度でお辞めになった二歳ばかり齢上の人であるが、
散会後に私のそばに近づいて、
『実は・・俺に物流会社の出向先の話がアンタより先にあったの・・
俺の前に確かひとりいた・・いずれも断わったので・・
人事の取締役・・やむえずアンタにお願いしたと思うよ・・ 悪かったけどねぇ・・』
と二歳ばかり齢上の人から私は初めて実情を知ったのである。
この後、私は過ぎ去った5年の出向期間を思い浮かべたりし、
《結果して・・俺は第3の男かょ・・》と心の中で、呟(つぶや)いたりした。
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