夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

春の陽気に恵まれた中、東京郊外に住む私は散策すれば・・。

2014-03-24 15:39:45 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝も快晴の朝を迎えて微笑んだりした。

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
過ぎし日の21日に晴れ時々曇りの中、北風の吹く日の後は、
一昨日の22日の土曜日、そして昨日の23日も春めいた陽気に恵まれて、
英語に何かと弱い私でも、『Spring has come (スプリング・ハズ・カム)』と家内に言ったりした。

古来より寒さ暑さ彼岸まで、と明言されてきたが、
私の住む地域は30数年ぶりの寒い冬であり、水仙、白梅が咲くのは、
平年よりも数週間遅れてきたので、春到来はいつになったら、と天上の気候の神々の采配に戸惑ってきた。

やがて3日前から春の陽気に恵まれて、
何かと鈍い私でも、春だよねぇ、と心の中で呟きながら、自宅の近くの小公園、遊歩道などを、
歩き廻ったりしてきた。
          
今朝の6時は5度で迎えたが、清々しい空気に包まれる中、眩(まばゆ)い陽射しを受けたりした。

10時過ぎに平素の買物専任者の私は、いつものようにスーパーに出かける前、
薄手の冬用のスポーツシャツ、長ズボン、ウォーキングシューズの容姿で向った。
日中は快晴の中、18度前後の暖かさの予測されていたので、
私としては今年初めての薄手の容姿となった。

そして買物の責務を果たして帰宅した後、私は京王線の『仙川』駅を目指して、
徒歩15分ばかりの道を歩きだしが、
今回は私が小学校に通った通学路の旧街道を歩いてみよう、と遠回りの路に進路変更とした。

細い路を歩いたりしたが、55年前の頃から住宅街に変貌しているが、
小公園の道端の脇には、草花が咲いて私は立ち止まって撮ったりした。
          

そして国分寺崖と称される坂道を上がった後、やがて音楽専門学校の桐朋学園仙川キャンパスの脇道に出た。
          

そして校門のひとつから、早咲きの桜かしら、と思いながら、撮らせ貰ったりした。
          

その後、駅ビルの中にある本屋に寄ったりした。
雑誌コーナーを見ていると、
私が秘かに季節ごとに逢える恋人のように購読している季刊誌の『文藝春秋SPECIAL』(2014年春号)が、
発売されていることを知り、手に取ったりした。
       
たまたま《 認知症最前線 》の特集であり、
表紙の中央には《 認知症に勝つ 》と明記されていたので、私は微苦笑してしまった。

私はこれまでの60代の9年半の日々は、幸運にも大病に遭遇せずに過ごしてきたが、
健康でなければ自身の日頃のささやかな願いも叶わないこともあり、
実践のひとつとしては、何よりも怖いのは、認知症などであり、
これだけは回避したく、ひたすら歩いたりしてきていたからである。


この後、新書コーナーの視たりしていると片隅に、
監修・斎藤明美『高峰秀子』(キネマ旬報)と少し厚い本があった。

そして私は手に取ると《 高峰秀子三回忌 永久保存版 》と明記されて、
過ぎし日の2010年(平成22年)3月に発行、と私は読み、見逃していたょ、心の中で呟いたりした。

私が二十歳の時は、東京オリンピックの開催された1964年〈昭和39年〉の秋の時であったが、
大学を中退し、映画の脚本家になりたくて、映画青年の真似事をしていた時期で、
オリンピックには眼中なく、京橋の近代美術館に通っていた。

戦前の邦画名作特集が放映されていたので、
数多くの戦前の昭和20年までの名作を観ることが出来た。

この中の作品の中で、山本嘉次郎・監督の『綴方教室』(1938年)、
そして『馬』(1941年)も観て、天才子役、少女と称せられた高峰秀子さんの存在を実感させられた。

私はこの当時の1964年に於いては、 少なくとも木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954年)、
成瀬巳喜男・監督の『浮雲』(1955年)、 木下恵介・監督の『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、
松山善三・監督の『名もなく貧しく美しく』(1961年)等は当然のように鑑賞していた。

そして封切館で松山善三・監督の『われ一粒の麦なれど』(1964年)で観たばかりの年でもあった。

私は女優の高峰秀子さんの存在は、天上の女神のような存在であり、
『二十四の瞳』と『浮雲』がほぼ同時代に演じたこのお方には、ただ群を抜いた女優であった。

子役、少女、そして大人としての女優としての存在は、私のつたない鑑賞歴に於いて、このお方以外は知らない。

その上、脚本家、ときには監督もされた松山善三さんには、
まぶしいようなあこがれの存在の人であり、秘かに敬意をしていた。
             

このような過ごしていた間、確か冬の日だったと記憶しているが、
私は成城学園の近くの砧にある東宝の撮影所で、宣伝部の方と話し合っていた時、
たまたま高峰秀子さんがこちらに向かって来た時があった。

宣伝部の方が飛び出て、『この青年・・大学を中退し、この世界に・・』
と話されていた・・。

『こんにちは・・でも・・もったいないわ・・大学をお辞(や)めになるなんて・・
でもねぇ・・大変ょ・・この世界は・・』
と高峰秀子さんは私に言った。

私はこの当時も大女優であった高峰秀子さんとは、
これが出会いであったが、これ以降はお逢いしたことがない。
          

この後の私は、映画青年の真似事、その後に文学青年の真似事もあえなく敗退し、
やむなく私はサラリーマンに身を投じ、音楽業界まあるレコード会社に35年近く勤めて、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となり、その直後から年金生活を始めた身である。

この間、サラリーマンの現役時代のいつの日が忘れてしまったが、本屋の店頭で、
高峰秀子さんの随筆の本にめぐり逢い、数冊の随筆集を読みはじめ、これ以降は本屋で見かけるたびに、購読してきた・・。

そして2010年12月の歳末時に高峰秀子さんの死去が公表されて、私も落胆したひとりであり、
もとより天上の花のひとつとなった高峰秀子さんにお逢いできるひとがないので、
せめて私は高峰秀子さんが上梓された数多くの随筆を読んだり、再読したり、
或いは出演された名画を鑑賞したりして、愛惜を重ねたりしている。

このような私の心の片隅に敬愛しているお方なので、今回めぐり逢えた本を買い求めたりした。

この二冊の本を持ち、家内のお気に入りのパン専門店『ANDERSEN(アンデルセン)』で、
フランスパンとケーキのような菓子パンを購入した後、帰路に向った。

そして何かと単細胞の私は、人生最良の日かしら、と微笑みながら自宅に向かった。 

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする