私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
日頃の不摂生の為か、 左の腰の近くに吹き出物のような赤みが発生して、
昨日に続いて、最寄駅の近くのある『皮膚科』専門医院に治療を受ける為に、午前の9時半少し前に自宅を出た・・。
花曇りのような中を15分ばかり歩いたりしていたが、
昼より小雨が一時降った後に、午後3時過ぎから本降りが予測されていたので、
平素の買物専任者の私は、雨の降る前に、治療を受けた後にスーパーで買物をして帰宅する、
このような思いで『皮膚科』専門医院に向っていた。
やがて『皮膚科』専門医院に午前10時から受診開始時間の15分前に到着したが、
受付をした後に待合室に入ると、既に先着の受診者は5名ほどいた。
そして私は受診できる時まで、持参した本を読みながら、待ちわびた。
たまたま持参した本は、相田みつを・著作の『雨の日には雨の中を 風の日には風の中を』(角川文庫)であり、
過ぎし2009年(平成21年)の夏の頃に、偶然に本屋で見かけて、買い求めた本であった。
私は相田みつを氏に関しては、
ここ20年近く、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』に毎朝向っている。
そして氏の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。
私はこの相田みつを氏の遺(のこ)された名言を、人生の生きた哲学のように学び、
私はつたない人生を歩んできたのに、ときおり独断と偏見の多い日頃の言動をする時もあり、
人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。
そして相田みつを氏の御著書は5冊ばかり購読し、多々教示されている。
今回、持参した本を再読していると、
《 無為不待
人里はなれた谷間の
白百合の花は誰にも
見てみてもらえないですが
少しのかけひきも
なく精一杯の
美しさで
咲きます
このような純粋な行為を
佛教では無為不待と
いうそうです
みつを 》
このような氏の特有な書体を読んだりした後、無為不待(むいふたい)、という言葉を改めて学んだりし、
ため息をした後、このような心境の言動は、齢を重ねた69歳の私は、とても遠い世界だ、
とうなだれてしまった・・。
平素の私は、ご近所の奥さんたちから、御歳よりお若く、謙虚で明朗活発な方、と褒めたたえられているが、
もとよりオセイジであり、私の日頃の言動はともすれば自己顕示欲もあり、
あとで反省したりしているが、忘れた頃に幾たびも繰り返すことが、若き青年時代の頃からあったりした。
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
裏返しのような反動心があり、ときおり自己顕示欲が増して、平常心から程遠いことをする時もある。
たとえば確固たる専門知識のない癖に、少しばかり知っていることを断言したりする時もあったりした。
年金生活をしている今でも、ときおりは自己顕示欲が露呈して、
つたないブログの投稿文なのに、ランキングが上位になれば、と思ったり、
齢ばかり重ねた69歳の私は、幾つになったら人知れず純粋な言動ができるの、
と反省ばかりしている。
そして怪我は治(なお)るが、性格は直(なお)らないなぁ、と苦笑した後、うなだれている。
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日頃の不摂生の為か、 左の腰の近くに吹き出物のような赤みが発生して、
昨日に続いて、最寄駅の近くのある『皮膚科』専門医院に治療を受ける為に、午前の9時半少し前に自宅を出た・・。
花曇りのような中を15分ばかり歩いたりしていたが、
昼より小雨が一時降った後に、午後3時過ぎから本降りが予測されていたので、
平素の買物専任者の私は、雨の降る前に、治療を受けた後にスーパーで買物をして帰宅する、
このような思いで『皮膚科』専門医院に向っていた。
やがて『皮膚科』専門医院に午前10時から受診開始時間の15分前に到着したが、
受付をした後に待合室に入ると、既に先着の受診者は5名ほどいた。
そして私は受診できる時まで、持参した本を読みながら、待ちわびた。
たまたま持参した本は、相田みつを・著作の『雨の日には雨の中を 風の日には風の中を』(角川文庫)であり、
過ぎし2009年(平成21年)の夏の頃に、偶然に本屋で見かけて、買い求めた本であった。
私は相田みつを氏に関しては、
ここ20年近く、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』に毎朝向っている。
そして氏の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。
私はこの相田みつを氏の遺(のこ)された名言を、人生の生きた哲学のように学び、
私はつたない人生を歩んできたのに、ときおり独断と偏見の多い日頃の言動をする時もあり、
人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。
そして相田みつを氏の御著書は5冊ばかり購読し、多々教示されている。
今回、持参した本を再読していると、
《 無為不待
人里はなれた谷間の
白百合の花は誰にも
見てみてもらえないですが
少しのかけひきも
なく精一杯の
美しさで
咲きます
このような純粋な行為を
佛教では無為不待と
いうそうです
みつを 》
このような氏の特有な書体を読んだりした後、無為不待(むいふたい)、という言葉を改めて学んだりし、
ため息をした後、このような心境の言動は、齢を重ねた69歳の私は、とても遠い世界だ、
とうなだれてしまった・・。
平素の私は、ご近所の奥さんたちから、御歳よりお若く、謙虚で明朗活発な方、と褒めたたえられているが、
もとよりオセイジであり、私の日頃の言動はともすれば自己顕示欲もあり、
あとで反省したりしているが、忘れた頃に幾たびも繰り返すことが、若き青年時代の頃からあったりした。
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
裏返しのような反動心があり、ときおり自己顕示欲が増して、平常心から程遠いことをする時もある。
たとえば確固たる専門知識のない癖に、少しばかり知っていることを断言したりする時もあったりした。
年金生活をしている今でも、ときおりは自己顕示欲が露呈して、
つたないブログの投稿文なのに、ランキングが上位になれば、と思ったり、
齢ばかり重ねた69歳の私は、幾つになったら人知れず純粋な言動ができるの、
と反省ばかりしている。
そして怪我は治(なお)るが、性格は直(なお)らないなぁ、と苦笑した後、うなだれている。
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