夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

まもなく卒業式の時節、69歳の私でも、『仰げば尊し』の歌を愛惜を重ねて・・。

2014-03-13 12:00:50 | 定年後の思い

私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の69歳の身であるが、
朝食後に家内は台所で、ラジオを聴きながら皿洗いなどをしていた。

私は居間で新聞を読んだりしていたが、ラジオから、『仰げば尊し』の歌が流れて、
まもなく学童、学生の卒業式の時節になった、と教えられたりした。

やがて私は遥か昔の私が中学校の卒業式が思いだされた・・。

1960年(昭和35年)の3月の当時は、校内の講堂で、
確か後輩の1年、2年製がほぼ全員が『蛍の光』を合唱し唄った後、
私たち卒業生は恩師、後輩達の御礼を込めて、『仰げば尊し』を唄ったと思ったりしている。
                    

私は1957年(昭和32年)年3月に地元の公立小学校を卒業して、
やはり地元の公立中学校に4月に入学したが、相変わらず劣等生のひとりであった。

長兄は地元の公立小学校を卒業して、国立の中学に入学して、
地元の公立小学校から、国立の中学に入学できたのは創設60年の中で初めてだ、と周囲から讃(たた)えられていた。

次兄にしても学業は優秀で、地元の公立中学校に通ったが、
私が中学一年の時は、三年生で、私は何かと《・・あいつの弟・・》と注視されることが多かったが、
お兄さんは成績も良く言動も周囲から褒(ほ)められたいるのに・・、
と私の担任の先生を困らせたりしていたことが多かったのである。


私は中学に入学し、野球部の練習に明け暮れていた・・。
レフト付近に3人で守備位置に付いて、外野フライのノックを受けていたのであるが、
何かしら私だけが打球の判断がのろいのである。

私は運動神経が悪く、練習すれば、打球の飛んで来る判断も良くなると、
思っていたのであるが、やがて私は野球には向いていないと断念し、
中学2年を迎える寸前に、退学してしまった。

そして小学4年生の頃から、独りで映画館に通って映画を鑑賞してきたので、
映画少年が再び続き、何故かしら前の席に座り、ときおり好みの映画を鑑賞したりしていた。
          

私が中学2年生だった1959年(昭和34年)の頃、
いつものように同級生の仲良しグループのひとりの悪友と下校した帰り道で、
たまたま女の子の話となった。

私は悪友の間柄だったので、クラスで好きな同級生の女の子のことを、
『俺・・XXさんのことが好きだょ・・』
と私は悪友に云った、と記憶している。

悪友が秘かに笑いを浮かべながら、
『お前・・そいつに云ったの・・どこまで進んでいるの・・』
と追い討ちをかけてきた。

『俺は・・XXさんに・・何にも云えてないよ・・』
と私は悪友に云った。

『駄目だなぁ・・俺なんか・・XX知っているだろう・・』
と悪友が、やはりクラスで活発な同級生の女の子の名前を明言した。

『あいつの家に云ったら・・たまたまあいつしかいなくて・・
あいつの部屋で話したりしている途中・・おっぱいが少し見えたので・・
俺はムラムラとして服を脱がしてしまって・・あいつ抵抗しなかったから・・はめちゃたよ・・』

『本当かょ・・』
と私は心の中で動顚し、あの活発な女の子が抵抗もしないで身体を許して、
こいつと性交までするなんて、信じられない、と私の方がドキドキした。


或いは私は三年生になると悪友たちと、下校の時に3回ばかり、好奇心の誘惑に負けて、
タバコを吸ったりした。

やがて私たちの行動が発覚して、私は職員室で担任の女の先生から呼ばれ、
『あなたの合格した高校・・言動に厳しいから・・
タバコなんて吸ったら・・退学ですって・・ご自分を粗末にするのはよしなさい』
と私は担任の先生から叱咤されたりした。
          

そして私は1960年(昭和35年)の中学3年の終りの頃、
私は職員室で担任の女の先生から呼ばれ、
『XXくん・・あなた眼・・悪いわね・・0.3って・・』
と先生は、健康診断書を見ながら、私に云った・・。

『・・どうして・・今まで黙っていたの・・
メガネを掛けないと・・黒板の字も見えないでしょう・・』
と先生は云った。

私は教室の後部に座って、黒板の字もかすれていたが、
皆もこのようにと思い、信じていたのである。
こうした根底には兄達、妹達もメガネをしていないので、それなりに思い込んでいたのである。

帰宅後、亡き父の妹である叔母に、
『・・今日、先生から云われたのだけれど・・
眼が悪いので・・メガネを掛けなさい・・と云われたの・・』
と私は云った。

父は私が小学2年に司教されていたので、母は外に働いていたので、
未婚の叔母に私達の兄妹は、料理、洗濯、掃除などで、甘え、育ってきたのである。

結果として、高校の入学から、私は生まれて初めて、メガネを掛けたのである。

そして宅地の丘の外れから、遠望の丹沢の山並み、富士山を観た時、
くっきりとした景観が観え、行く先々の情景も余りにも明確に見えて、
こんなに視えるのかょ、と私は驚き、ため息をした・・。
          

そして私たちは卒業式を迎えて、
私は長兄、次兄のまったく関係のない都心の私立高校に入学することになっていたので、
早く中学校から出て、心気巻き直しのような心情で式にのぞんでいた。

http://www.youtube.com/watch?v=qqBqghm8oB4
☆Youtube《『仰げば尊し』 作詞、作曲・不詳、唄・コロンビア合唱団 》☆

この後の謝恩会で、担任の女の先生と逢った時、
『XXくん・・のびのびと高校生活に望んで下さいね・・そしてタバコ何かの悪戯ダメょ』
と先生は私に云われたりした。

『私も地元の学校から、初めて都心の高校に通いますので・・恥ずかしくないように頑張ります・・
先生には大変ご心配をお掛けしまして・・』
とこのような意味合いの言葉を重ねたのである。


余談であるが、やがて私は1960〈昭和35年〉4月に、都心の私立高校に入学し、
生まれて初めて授業の楽しさを実感させられ、成績も初めて上位に達した。
やがて高校の卒業式の帰路、私たち仲良しの3人は、ある繁華街の外れある寿司屋に入店した。

そして私たちはビールを吞み、寿司を食べたりした。
この間、私はタバコを3年ぶりかしら、と思いながら吸ったりし、何かしら解放感を深めたりしたのは、
私が18歳の1963〈昭和38年〉3月であった。

やがて私が40歳の時に民間会社の中小業に勤めて奮戦していた頃、
私にとっては甥っ子に当る妹の子供が中学を卒業した頃に、たまたま逢った時、
『叔父さんさぁ・・僕たちは卒業式の後、仲良しグループで呑み会をしたょ』
と聞き、最近の中学生は卒業式が終われば呑み会かょ・・時代が違うなぁ、
私は微苦笑したことが想いだしている。

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