夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ときには都心のホテルで、懐かしき恩師と同期生、と談笑を重ねて・・。

2014-03-15 15:30:09 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
農家の児として、この地域で1944年(昭和19年)の秋に生を受けて、
地元の小・中学を卒業するまでの間、何かと都心にあこがれて、ときおり行ったりした。

やがて都心の高校に入学したのは1960年(昭和35年)4月であり、
これ以来、青春期、青年期、自己格闘しながら都心から数多く学び、
長きサラリーマンの時代も都心の赤坂、六本木、渋谷などで苦楽を共にして奮戦してきた・・。

そして2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

このような拙(つたな)い歩んできたが、年金生活を丸9年半が過ぎている今、
都心に対し齢を重ねるたびに興味がなくなっている。
          

昨日、品川の駅前にある『品川プンリスホテル』に、過ぎ去り年の1969年〈昭和44年〉4月に、
コンピューターの専門学校に入学して、この同期会が初めて開催されることとなり、私は向った・・。

私は指定時間に間に合うように自宅の近くに走行している路線バスで、
最寄りの駅のひとつの小田急線の『成城学園前』駅前に行き、
そして小田急線で『新宿』駅に到着した後、
山手線に乗り換えて『品川』駅で下り立ったのは午前11時過ぎであった。

そして駅前に聳え立つ『品川プンリスホテル』のメインタワーにあるロビーを目指して、
人出の多い中、昨年の秋以来だ、と思いながら歩いたりした。

そして私たち幹事の集合時間より、45分前であったので、
私は独りで2階にあるコーヒーラウンジで紅茶を飲んだりした・・。
          

昨年の初夏、専門学校のひとりの講師から電話を頂き、
私たち同期生の幾人かの、その後の歩みを私は知ったりした。

その後に有志で懇親会を開こうとなり、やがて私たち生徒の中で、
優れた機敏能力のある女性を中核に、私たち3人の男性が賛同し、
今回、クラス会のような同期会を初めて開催しょうとして、
私たちは幾たびか打ち合わせを重ねてきた・・。
          
      
私は少し昔、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。

その後、養成所の講師の知人から、同じ創作をするのだったら小説を書きなさい、
とアドバイスを受けた後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。

こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。

やむえなくサラリーマンになる為に、あてどない心情の時、
たまたま本屋の店頭でビジネス情報誌として名高い『週間 ダイヤモンド』に於いて、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊が付いていた。

そして私は購入して読んだが、数学、物理などの理工関係にも苦手な私は、
無念ながら理解出来ない方が多く、ただ漠然として、
これからの企業ではコンピューターの活用は必要不可欠で伸長する、
と理解していた程度であった。
          
         
この後、私はコンピューターの専門学校のソフトコースを1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょう、と不純な動機で、
石原慎太郎さんが名誉学院長されているある専門学校が新設されたコンピューター学科のソフトコースに、
1969年〈昭和44年〉4月に入学した。
          

確か最初は飯田橋駅の付近の老朽したビルが校舎であったが、
まもなく代々木駅の近くの新築されたビルが校舎となった。

こうした中でソフトコースの同期の生徒は、
高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が圧倒的に多く、
わずかながら大卒、或いは企業に入られた後に退社したりした方もいて、
私は遅れた24歳の青年であったが、年齢こそ違え同級生のよしみから交遊も重ねたりした。

そして科学計算向きのフォートラン、事務計算向きのコボル等のプログラムを実習したりしたりし、
汎用の小型コンピュータを稼動させて、テスト処理を行ったり、
或いはシステム概要、特に苦手な微分・積分などの授業を受けたりした。

私は映画の脚本とか小説などの創作者向きと思った文科系の身であったので、
人生やり直しと思い、苦手なコンピュータ分野であったが、
企業に中途入社する為に、何らかの技量が不可欠と思いながら、あえて学んだのである。

やがて1970年〈昭和45年〉3月に、私たち生徒はソフトコースを卒業して、
それぞれ企業に就職して行った・・。

その後の私は、同級生だった人たちが、どうような進路を歩まれたか、
そしてお世話になった先生にも連絡をしなかったので、音信不通となった。
          

もとより45年近い歳月が流れる中、就職して結婚されて、社会の第一線から退職され、
私のように69歳で年金生活、若い方でも63歳となっているので、
お孫さんにも恵まれている方も多いと思われる世代となっている。

そして日本の各地で住まわれて、日々を生活されている。

このようなことを改めてぼんやりと私は思い馳せたりした。
          

やがて私は38階にある食事処のフロアーに行った。
改めてここから見下ろす都心の展望が良く、
その上にフロアーのホテルのスタッフも丁重な言動に好感を増したりした。

この食事処のフロアーは、『味街道 五十三次』と称されて、
かっての東海道の宿泊所名で数多くの個室もあり、
この中の一室を私たちの同期会は午後一時より二時間ばかり予約していたが、
午前12時より午後の3時半まで、借用させて下さった。

やがて15分前に恩師のふたり、そして私たち同期生16名が揃い、
卒業してから初めての44年ぶりの同期会が開催された・・。

そして開会の言葉の後に、私たちの同期の女性ふたりが早く亡くなわれたので、
黙祷して哀悼をささげたりした。

この後、開会の挨拶は、私は最年長の為か、
私たちは花の第一期生・・と言ったりした後、私は劣等生のXXです、
などと数分挨拶をし、笑いを誘ったりした。

そして恩師をおふたりに挨拶をして頂き、乾杯の後、
飲み放題のアルコールを各自飲みながら、指定の会席料理を頂いたりした・・。

こうした中で、女性の中には秋田、山形、沖縄県にお住まいの方もいて、
遠望から参集して下さり、お互いに思いでいっぱいの心の披露を語って下さったりした。

或いは人生の半ばで不遇な出来事に遭遇されたり、
それぞれのお方の人生における苦楽を発露されたりした・・。

このように語り尽くせないこともあり、時間を延長させて頂き、
午後の4時に散会とした。


この後、お時間のある方は・・と2階のコーヒーラウンジで、
コーヒーか紅茶を飲みながら、私たち10数名は1時間半ばかり談笑したりした。

やがて遠方の方たちは宿泊するので、私は退散として帰宅したのは、午後7時過ぎであった。
          

このような昨日の出来事をぼんやりしと思い浮かべて、何かと都心に苦手な私でも、
ときには都心のホテルで、懐かしき恩師、そして同期生と談笑するのも良かった、
とそれぞれお方の顔立ち、しぐさを思い重ねたりしている。

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