夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

過ぎし若き31歳の時、生まれて初めてお義兄(にい)さん、と私は呼ばれ・・。

2014-03-03 14:57:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の69歳の身であるが、
私が家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。

私の妹は1969年〈昭和44年〉の秋に嫁ぐ前に長兄宅に同居していたが、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、平素はこよなく文學を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。

私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風(ながい・かふう)は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父は微苦笑されながら、何かと私を可愛いがってくれた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975年〈昭和50年〉の秋であり、
私たちは交際をはじめ、この年の12月15日に婚約するために、両家の結納となった。

その後、結婚日、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、行き違いが発生して、
もとより人生初めてのことで私、そして新妻となる家内は大波にもまれたりした。
          

私は長兄、次兄に続いて生を受けた三男坊で、妹の2人がいる。
こうした中で私は兄2人、妹が2人でサンドイッチのように育てられた。

そして私たち兄妹は、お互いに名前の『・・ちゃん』付で呼び合うことが多く、
たとえば私が次兄を呼ぶ場合は、・・ちゃん・・ねぇ、と呼んだり、
或いは妹のひとりが私を呼ぶ場合も、・・ちゃん、と私は呼ばれたりしていた。
          

こうした中で、家内となる実家に私は結納後もしばしば訪ねた。
家内は両親の元で長女であり、妹の次女、弟の長男のいる5人家族であった。

家内の両親は、私をXXさん、と名前で呼ばれていた。
次女の方は、あらぁ、いらしゃませ、と挨拶をされる程度であった。

やがて私たちは結婚し、新婚旅行からの新居となる賃貸マションに帰宅した時、
家内の母と次女が待っていてくれて、
それなりの懇親会とした・・。

私が和室に居る時、
台所にいる家内の母が、
『これから、お義兄(にい)さん・・と呼ぶのよ・・』
と次女に小声で云っているが聴こえた。

そして和室に私たち4人がビールを呑みながら、
私は新婚旅行の失敗談などを話しかけていた時、
『お義兄(にい)さん・・それは大変でしたね・・』
と次女から突然に云われ、私は戸惑ったりした。

私は考えれば長女と結婚したのであるから、
三男坊の私さえ、義長兄となったので、当然の結果であるが、
何かしらくすぐったいような心持となったのである。
          
これ以来、私は家内の実家で逢ったり、冠婚葬祭、外で逢ったりした時など義長兄として、
少し責務を感じながら、ささやかに遠慮、配慮などの気配りで、
言葉を交わしたりしてふるまってきたので、
お互いに38年近く、今でも良好な関係が続いている。

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