私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた築後36年の一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
こうした中で、毎年この日の『春分の日』は、私たち夫婦は私の生家の実家である長兄宅に行き、
仏壇に安置されている位牌にお線香を捧げた後、
長兄夫婦と他愛ない話をした後、お墓参りに行っているのが、ここ9年の恒例となっている。
私はお墓参りは、生者の死者に対する慰めと思ったりしているが、
1944年(昭和19年)の秋に生を受け、もとより両親、そして祖父母、親族、祖先のお陰で、
私がこうして生きているので、感謝の意味から墓前にお線香、花をささげて手を合わしている・・。
このように、この日の『春分の日』、『お盆の日』、『秋分の日』、そして『母の命日』、
年にわずか4回ばかりであるが、私たち夫婦はお墓参りをしている。
昨日の朝、いつものように朝の9時半過ぎに、私の実家の長兄宅に行き、
長兄夫婦と1時間半ばかり談笑し、長兄宅を辞した。
そして我が家に向う途中で、何かしら欠けていたことに、改めて実感させられた・・。
過ぎし2月2日より私たち夫婦は、札幌市の郊外にある定山渓温泉に13泊14日間で、
観光ホテルに滞在した旅路の間、
私の曾祖父の妹の嫁ぎ先の家に於いて、私より10年齢上の叔父さんが死去された、
と知ったのは、帰宅後のまもない時であった。
遠い親戚の方に当る叔父さんであったが、特に私が定年退職後から、
『春分の日』、『お盆の日』、『秋分の日』に於いて、私たち夫婦は長兄宅に於いて、
長兄をまじえて幾たびも談笑したりしてきた・・。
私は叔父さん、長兄、私が地元の小学校に通学したので、
共通の話題として、遥か遠い昔の小学校の情景を教えて貰ったりした。
私は1951〈昭和26年〉の春、長兄は1946年〈昭和21年〉の春に地元の小学校に入学し、
叔父さんは1941年〈昭和16年〉の春であったので、
あの当時の頃の状況、そして周辺の情景を多々教示されたりした。
この叔父さんは、この地域で住んでいる代々農家のひとりであり、次兄であった。
長兄の方は小・中学校に学業が優秀で、この当時として稀(まれ)で大学を卒業した後、
ある大企業に勤められて、やがて栄進された人である。
そして次兄の叔父さんは農家の後継ぎとして育てられて、
中学校を卒業した後、ひたすら田畑を長年に耕しながら労苦を重ねた果てに、
やむなく植木業をしながら賃貸マンションなどを経営して生計している人であった。
この当時に旧家としても、長兄はエリートサラリーマンとして栄達され、
次兄は先祖伝来の田畑、雑木林を維持管理を懸命にされた稀なケースとなり、
私は幼年期の頃から両親がときおり話題することもあったりしたせいか、
私なりに何かと注視していたことも、心の片隅にあったりしていた。
私が40歳の頃、民間会社の中小業で情報畑で、ワイシャツを着て奮戦していたある日、
日中のひととき、突然にこの叔父さんを思い浮かべた時があった。
この数日前の私の休日、付近を私は独りで散策していた時、
この叔父さんが所有している畑の跡の植木の幼き樹、少し伸びた樹の拡がる中、
おひとりで黙々(もくもく)と草むしりをしていて、
泥まみれ汗まみれで孤軍奮闘していた。
私は声を欠けびそれて、少し眺めた後、立ち去ってしまった。
私は中小業でエリートコースとは無縁であったが、
スーツ、ワイシャツ、ネクタイを身に付けて、都心のビルの暖冷房完備の中で勤務していたので、
何かしら私の住む地域の近くで、時代の変貌している中、黙々(もくもく)と手入れされる叔父さんとは、
余りにも働く環境、農作業から得られるわずかな収益など差異があったので、後ろめかったのであった。
そしてこの叔父さんが中学校を卒業した後、汗水たらして田畑を耕していた時、
お兄さんは大企業で奮闘してエリートコースを歩まれた軌跡を、
どのように思考していたか、私は思いめぐらしたこともあったりした。
こうした叔父さんであるので、私は地元の情景の変貌などを、
敗戦後の1945年〈昭和20年〉から、私が地元の小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉の頃まで、
話題にしたりした。
私の育った世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
田畑、竹林、雑木林など圧倒的に緑の豊かな地帯であったが、
都心のベットタウンとして、私の小学生の高学年に急速に住宅街に変貌していたので、
私の幼年期のおぼろげな記憶をたどりながら、
叔父さんの確かな視線と思情を頼りに、話題の中核としたりした・・。
そして38年前に、私たち夫婦の結婚披露宴に参列して下さったり、
36年前には我が家を新築した時、作庭する経費が不足したので、
この叔父さんの宅を訪ねて、幾ばくかのお金を包み、塀際の周りの樹木を植えて頂いたりした。
こうした間、叔父さんは奥様と共に男の子、女の子を育てられて、
この子供ふたりが成人してまもない時、奥様に病死され、
その後に子供ふたりが結婚されて、それぞれ独立した家庭の中、叔父さんとしてはお孫さんに恵まれ、
初めてこの人生に於いて安堵の生活をここ10年過ごされた、と私は感じたりしてきた。
このような事情を含めて、ここ9年ぐらいは私は何かと10年齢上の叔父さんに、
70代になればあのように近い容姿になるのかしら、と思い重ね、
年金生活の身過ぎ世過ぎの生活をしている私でも、ひとつの目標としてきたことは事実であったので、
更に親近感を深めてきた・・。
突然の死を私は知り、既に葬儀も終わった後だったので、
お焼香をさせて下さい、とこの宅のご子息に電話連絡をした翌日に、私は訪れた。
そして遺影の穏やかな表情、安置されているお骨となってしまった真新しい箱に向って、
お線香を捧げた後、幾ばくかのご仏前を差しだしたりした。
この後、45歳前後のご子息夫婦に、生前の叔父さんから多々教示を受けたことなどを報告するように、
私は話したりした。
こうした中で、叔父さんは何事も謙虚でお心が清(す)んだ稀な人だった、と私は言ったりした。
そして突然の死は、叔父さんはご子息と樹木の剪定をしていた時、
叔父さんは怪我をされ、たいしたことはないよ、と言ったりしたが、
やがて破傷風か身体全体に毒素が廻り、入院されてまもなく亡くなわれた、
と私はご子息から教えて頂いた・・。
こうした過ぎし日のひとときを過ごしてきた私は、長兄宅でこの叔父さんとは、お逢いできなくなったことに、
改めて実感させられ、寂寞感につつまれたりした・・。
この後、私たち夫婦は、小田急線の『狛江駅』から徒歩5分ぐらいにあるお寺まで、
お互いに運動不足もあるので、20分ばかり徒歩の道を往復しょう、と歩きだした。
やがていつものように山門から私たち夫婦は入り、
寺院の境内は、大きな樹木が数多くあり程広く、ご家族連れが多く、にぎわう中、
私たち夫婦はお墓に向った。
この後、私たちは私を育ててくれた祖父、父、母、次兄などが永眠しているお墓の墓石を水で清め、
途中で買い求めた生前の母が好きだったお花を2束のお花を奉(ささげ)、お米を備えたり、
お線香を奉げた。
お線香の紫煙が立ち昇る中、祖先はもとより、祖父、父、母、次兄などから、改めて私は見守られて日々を過ごしている、
と私は感謝をしながら、手を合わしたりした。
こうした思いを重ねたりした後、毎年ながら母のおもかげがよぎっていった。
私の場合は、父が私の小学校の2年の時に病死され、、
その1年を過ぎた後、まもなく祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。
こうした確かな記憶の片隅から、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、言葉づかいが想いだされる・・。
そして生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は家内、母に秘かに今でも感謝している。
まもなく穏やかな陽射しの中、お線香の煙が芳香を残して、
澄み切った青き空の中にゆったりと、立ち昇りながら消えていった・・。
やがて寺を辞した後、帰宅に向かう道を私たち夫婦は歩いたりしている中、
私はどれほど敬愛している方でも、愛惜を秘めながら生きている者にしても、
やがて時折思いだすぐらいとなる現実・・胸が熱くなったりした。
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私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた築後36年の一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
こうした中で、毎年この日の『春分の日』は、私たち夫婦は私の生家の実家である長兄宅に行き、
仏壇に安置されている位牌にお線香を捧げた後、
長兄夫婦と他愛ない話をした後、お墓参りに行っているのが、ここ9年の恒例となっている。
私はお墓参りは、生者の死者に対する慰めと思ったりしているが、
1944年(昭和19年)の秋に生を受け、もとより両親、そして祖父母、親族、祖先のお陰で、
私がこうして生きているので、感謝の意味から墓前にお線香、花をささげて手を合わしている・・。
このように、この日の『春分の日』、『お盆の日』、『秋分の日』、そして『母の命日』、
年にわずか4回ばかりであるが、私たち夫婦はお墓参りをしている。
昨日の朝、いつものように朝の9時半過ぎに、私の実家の長兄宅に行き、
長兄夫婦と1時間半ばかり談笑し、長兄宅を辞した。
そして我が家に向う途中で、何かしら欠けていたことに、改めて実感させられた・・。
過ぎし2月2日より私たち夫婦は、札幌市の郊外にある定山渓温泉に13泊14日間で、
観光ホテルに滞在した旅路の間、
私の曾祖父の妹の嫁ぎ先の家に於いて、私より10年齢上の叔父さんが死去された、
と知ったのは、帰宅後のまもない時であった。
遠い親戚の方に当る叔父さんであったが、特に私が定年退職後から、
『春分の日』、『お盆の日』、『秋分の日』に於いて、私たち夫婦は長兄宅に於いて、
長兄をまじえて幾たびも談笑したりしてきた・・。
私は叔父さん、長兄、私が地元の小学校に通学したので、
共通の話題として、遥か遠い昔の小学校の情景を教えて貰ったりした。
私は1951〈昭和26年〉の春、長兄は1946年〈昭和21年〉の春に地元の小学校に入学し、
叔父さんは1941年〈昭和16年〉の春であったので、
あの当時の頃の状況、そして周辺の情景を多々教示されたりした。
この叔父さんは、この地域で住んでいる代々農家のひとりであり、次兄であった。
長兄の方は小・中学校に学業が優秀で、この当時として稀(まれ)で大学を卒業した後、
ある大企業に勤められて、やがて栄進された人である。
そして次兄の叔父さんは農家の後継ぎとして育てられて、
中学校を卒業した後、ひたすら田畑を長年に耕しながら労苦を重ねた果てに、
やむなく植木業をしながら賃貸マンションなどを経営して生計している人であった。
この当時に旧家としても、長兄はエリートサラリーマンとして栄達され、
次兄は先祖伝来の田畑、雑木林を維持管理を懸命にされた稀なケースとなり、
私は幼年期の頃から両親がときおり話題することもあったりしたせいか、
私なりに何かと注視していたことも、心の片隅にあったりしていた。
私が40歳の頃、民間会社の中小業で情報畑で、ワイシャツを着て奮戦していたある日、
日中のひととき、突然にこの叔父さんを思い浮かべた時があった。
この数日前の私の休日、付近を私は独りで散策していた時、
この叔父さんが所有している畑の跡の植木の幼き樹、少し伸びた樹の拡がる中、
おひとりで黙々(もくもく)と草むしりをしていて、
泥まみれ汗まみれで孤軍奮闘していた。
私は声を欠けびそれて、少し眺めた後、立ち去ってしまった。
私は中小業でエリートコースとは無縁であったが、
スーツ、ワイシャツ、ネクタイを身に付けて、都心のビルの暖冷房完備の中で勤務していたので、
何かしら私の住む地域の近くで、時代の変貌している中、黙々(もくもく)と手入れされる叔父さんとは、
余りにも働く環境、農作業から得られるわずかな収益など差異があったので、後ろめかったのであった。
そしてこの叔父さんが中学校を卒業した後、汗水たらして田畑を耕していた時、
お兄さんは大企業で奮闘してエリートコースを歩まれた軌跡を、
どのように思考していたか、私は思いめぐらしたこともあったりした。
こうした叔父さんであるので、私は地元の情景の変貌などを、
敗戦後の1945年〈昭和20年〉から、私が地元の小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉の頃まで、
話題にしたりした。
私の育った世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
田畑、竹林、雑木林など圧倒的に緑の豊かな地帯であったが、
都心のベットタウンとして、私の小学生の高学年に急速に住宅街に変貌していたので、
私の幼年期のおぼろげな記憶をたどりながら、
叔父さんの確かな視線と思情を頼りに、話題の中核としたりした・・。
そして38年前に、私たち夫婦の結婚披露宴に参列して下さったり、
36年前には我が家を新築した時、作庭する経費が不足したので、
この叔父さんの宅を訪ねて、幾ばくかのお金を包み、塀際の周りの樹木を植えて頂いたりした。
こうした間、叔父さんは奥様と共に男の子、女の子を育てられて、
この子供ふたりが成人してまもない時、奥様に病死され、
その後に子供ふたりが結婚されて、それぞれ独立した家庭の中、叔父さんとしてはお孫さんに恵まれ、
初めてこの人生に於いて安堵の生活をここ10年過ごされた、と私は感じたりしてきた。
このような事情を含めて、ここ9年ぐらいは私は何かと10年齢上の叔父さんに、
70代になればあのように近い容姿になるのかしら、と思い重ね、
年金生活の身過ぎ世過ぎの生活をしている私でも、ひとつの目標としてきたことは事実であったので、
更に親近感を深めてきた・・。
突然の死を私は知り、既に葬儀も終わった後だったので、
お焼香をさせて下さい、とこの宅のご子息に電話連絡をした翌日に、私は訪れた。
そして遺影の穏やかな表情、安置されているお骨となってしまった真新しい箱に向って、
お線香を捧げた後、幾ばくかのご仏前を差しだしたりした。
この後、45歳前後のご子息夫婦に、生前の叔父さんから多々教示を受けたことなどを報告するように、
私は話したりした。
こうした中で、叔父さんは何事も謙虚でお心が清(す)んだ稀な人だった、と私は言ったりした。
そして突然の死は、叔父さんはご子息と樹木の剪定をしていた時、
叔父さんは怪我をされ、たいしたことはないよ、と言ったりしたが、
やがて破傷風か身体全体に毒素が廻り、入院されてまもなく亡くなわれた、
と私はご子息から教えて頂いた・・。
こうした過ぎし日のひとときを過ごしてきた私は、長兄宅でこの叔父さんとは、お逢いできなくなったことに、
改めて実感させられ、寂寞感につつまれたりした・・。
この後、私たち夫婦は、小田急線の『狛江駅』から徒歩5分ぐらいにあるお寺まで、
お互いに運動不足もあるので、20分ばかり徒歩の道を往復しょう、と歩きだした。
やがていつものように山門から私たち夫婦は入り、
寺院の境内は、大きな樹木が数多くあり程広く、ご家族連れが多く、にぎわう中、
私たち夫婦はお墓に向った。
この後、私たちは私を育ててくれた祖父、父、母、次兄などが永眠しているお墓の墓石を水で清め、
途中で買い求めた生前の母が好きだったお花を2束のお花を奉(ささげ)、お米を備えたり、
お線香を奉げた。
お線香の紫煙が立ち昇る中、祖先はもとより、祖父、父、母、次兄などから、改めて私は見守られて日々を過ごしている、
と私は感謝をしながら、手を合わしたりした。
こうした思いを重ねたりした後、毎年ながら母のおもかげがよぎっていった。
私の場合は、父が私の小学校の2年の時に病死され、、
その1年を過ぎた後、まもなく祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。
こうした確かな記憶の片隅から、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、言葉づかいが想いだされる・・。
そして生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は家内、母に秘かに今でも感謝している。
まもなく穏やかな陽射しの中、お線香の煙が芳香を残して、
澄み切った青き空の中にゆったりと、立ち昇りながら消えていった・・。
やがて寺を辞した後、帰宅に向かう道を私たち夫婦は歩いたりしている中、
私はどれほど敬愛している方でも、愛惜を秘めながら生きている者にしても、
やがて時折思いだすぐらいとなる現実・・胸が熱くなったりした。
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