私は年金生活11年生の老ボーイの70歳の身であるが、
朝食後、霧雨舞い降るひととき、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っていた時、
【「昔はよかった」なんてとんでもない!
「いまのほうが、ずっといい」か「昔もいまもたいして変わらない」という事実】
と題された見出しを見て、
どういうことなの、と思いながらクリックし、精読してしまった。
何かしらパオロ・マッツァリーノ・著作の『「昔はよかった」病』(新潮新書)を
ネットで【ダ・ヴィンチニュース 】が9月2日に配信された記事と解った。
私は読みながら苦笑したり、微笑んだりした・・。
無断であるが、ルートつつみ氏が寄稿された文を転載させて頂く。

《・・たまの休みに東京の下町を散歩して、
「こういう古き良き昭和の香りがする家並みや風情を、いつまでも残してほしいなぁ」とつぶやいてみる。
「火の用心」の拍子木の音を聞いて、古き良き日本の風物詩にしみじみとする。
なにかと世知辛い現代だ。
昔は風情があって、人々は品性や善意に満ちていた。
もし、ひと昔前に生まれていたら、より豊かな人生が歩めたのかなぁ…なんて感傷に浸る日本人に、
「もういいかげん【古き良き】という枕詞を使うのをやめてもらえませんか」
と冷水をかけるのは、イタリア生まれの日本文化史研究家・パオロ・マッツァリーノ氏である。
日本通を自認する氏の著書『「昔はよかった」病』(新潮社)によると、
「世の中のほとんどのものは、女房と畳のように、新しいほうがいい」。
たまの不便なら楽しいけれど、毎日のこととなると、古いものは不快なだけ。
東京の下町で「風情を残してほしい」と口にする清潔好きな日本人は、
ミストサウナやウォークインクローゼットが完備された新築マンションに住んでいるくせに、
他人にはすきま風の入るボロ家に、いつまでも住み続けてほしいと願っている
“ひとでなし”だ、と手厳しい。
【古き良き】と対となる常套句は【昔はよかった】である。
「昔は義理人情に溢れていた」
「昔はいまのような凶悪犯罪なんてなかった」…
「だから昔はよかった」という口癖を、本書では「昔はよかった病」とバッサリ。

人間の記憶や思い出は都合よくできており、10、20年前のことですら、けっこうあやふや。
ましてや、50年以上前ともなれば、悪い話は記憶から抹消され、
良かったことだけが盛られているのが常。
そういった“歪んだフィルター”を通していまの世の中を見るから、
悪いことばかりが強調されると説明する。
「昔は義理人情に溢れていた」という言葉は、確かによく聞く。
例えば、前述の「火の用心」。
主に年末、火災予防のため、拍子木を打って歩く有志の夜回りだが、
近頃は「防犯パトロール」「防犯ボランティア」の名のもとに通年で見られる地域が増えてきている。
義理人情の火が消えていないことに頼もしさを感じるかもしれないが、
「拍子木の音で寝られない」と中止を求める声が各地で上がっているのをご存じだろうか。
「善意に対して、なんて義理人情に薄い人たちだ」…と憤る人があるかもしれないが、
著者いわく、間近で聞く拍子木の音は実際「オスプレイ並みの騒音」であり、
これを毎晩聞かせることに「火の用心」の良識のなさを問うている。
これに対して、火の用心を「絶対善」とする“信奉者”は、
「昔は拍子木がうるさいなんていう人はいなかったのに…」
「ああ、世知辛い世の中になった」と、日本人の劣化を嘆く
(ただし、「昔の日本人」にシンパシーを感じる自分は含まれない)。
昔の日本人にとって「火の用心」は、「ありがた迷惑」「善意の押し売り」ではなかったのだろうか。

本書では、それを否定している。
昭和の新聞の投書欄には、「寝られず迷惑」「静かに夜回りをしてほしい」、
過激なものになると「夜回りを廃せ」などの声がしばしば掲載されていたらしいのだ。
昔から非難されつつ、夜回りをする側本位の“義理人情”で続けられてきた「火の用心」。
効果があれば、騒音やむなしの感もあるが、
本書によると火災発生件数が減ったと証明する研究結果はない。
そればかりか、犯罪抑止効果も期待できないという。
空き巣が拍子木の音を聞くと、姿を隠し、
火の用心が行ってしまうと行動を再開するのは、当然のことである。
確かに、防犯ボランティアの8割以上が活動を開始した2005年以降、
空き巣などの犯罪は急激に減少し続けているが、
これはすでに2002年から見られていたことで、因果関係とはいいにくい。
ところで、こういった科学的統計を持ち出すと、
“夜回り信奉者”は「日本の風物詩なんだ」と激昂するというが、
それこそ「昔はよかった病」に罹患していると辛辣だ。

近年よくいわれる子どもの凶悪化・凶暴化や、
“過去最悪”(「過去最高」ではない)を更新し続ける犯罪件数についても、
日本人は情報による印象操作を受けているだけで、日本の治安は悪化しているどころか、
「歴史上類を見ないほどによくなっている」とキッパリ。
安全が高まるほど、たった1本しかない貧乏くじにあたる恐怖と不安が増大しているだけであり、
これ以上どんなに見守りなどを強化しても、わずかな犯罪発生率をゼロにすることは不可能。
「これ以上はオトナたちの力でもどうにもならないから、
あとは自分で判断して生き残れるようになりなさい」
と教えるのがホンモノの教育である、と持論を展開している。
【昔はよかった】というフィルターを通さず、
客観的に見渡せば「いまのほうが、ずっといい」か
「昔もいまもたいして変わらない」というのが事実であると著者。
「昔はよかった」「昔の人は立派だった」といまを否定する悲観論者にならず、
「いつの時代も人間はずっとダメな生き物なんだ」
と真実に目を向けるほうが気楽に生きられると提言している。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

寄稿文を読み終わった後、社会的なことは疎(うと)いが、
個人的には、私自身つたない人生航路を歩んできたので、セカンドライフと称される年金生活は、
我が人生は最良の日々と感じ深めている・・。
こうした思いから、「昔はよかった」という思いから遠いひとりである。
私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉の秋に大学を中退して、
映画・文學青年の真似事を奮戦したりしたが、あえなく敗退した。
そして、やむなくサラリーマンに転身し、何とか大企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年ばかりソフトコースの学科を専攻して学び、
この後、知人のご尽力もあり、この当時としては、ある大手の音響・映像メーカーの会社に、
何とか中途入社できたのは1970年(昭和45年)の春であった。
そして音楽事業本部に配属されて数ヶ月した頃、
この中のひとつの大きなレーベルがレコード会社と新設され、
私も新たな外資系のレコード会社に転籍の辞令を受けたりした。
もとよりレコード会社の各社は中小業であり、苦楽の大波、小波をまともに受けたし、
音楽業界に35年近く勤めて、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となった。
そして最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品を扱う物流センターに勤めて、
敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。
このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
第二の人生は身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。
そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
2004年(平成16年)の秋、年金生活の当初は、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。
そして独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
そして私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。
その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなく、平素の買物専任者を自主宣言したのであった。
そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。
しかしながら実際は日常生活の中で、ときおり私が失敗事をしたりすると、
平素は『あなた・・』と呼ばれるのに、
『ボケチンねぇ・・』と家内から微笑みながら私に苦言される時もある。
こうした中で、私は66歳の時に糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
食事の改善とひたすら歩いて、何とか克服してきたので、
糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、ひたすら歩くことが多くなっている。
この後の大半は居間で過ごしたりすることが多く、何かと随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。
定年後の年金生活の単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。
雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は買い求めたりしている。
新聞は『読売新聞』を40年近く購読しているが、気になり記事を更に深く知りたい時は、
総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】などに縋(すが)り、
多々教示されている。
ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。
或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚からCD、DVDなどを取りだして、聴いたりしている。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
こうした中で、ときおり我が家の小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。
私たち夫婦は、子供に恵まれなかった為か、新婚時代から幾たびか旅路を重ねてきた。
現役サラリーマン時代は、殆ど2泊3日ぐらいの日程であったが、
年金生活を始めると日程の制約から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなっている。
年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。
こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
こうした60代の中で、多くの退職された方たちも同様と思われるが、
過ぎ去る年の会社時代の先輩、同僚、後輩たちの集いより、
家族の団欒はもとより、孫の世話で・・自身の病院の治療、或いは親族、親戚関係の冠婚葬祭が優先となっているのが、
私の周囲には多くなっている。
こうした中で、私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。
或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
何よりも思いがけないことは、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。
こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。
そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。
このように学んできた私は、昨年の9月に古稀と称せられる70歳になり、
家内も12月に高齢者入門の65歳となり、お互いに介護保険を支払う無職高齢世帯となった。
いつの日にか私たち夫婦は、片割れとなり、残された方は『おひとりさま』となるが、
果たして・・と年に数回は思案したりしている。
しかしながら私は何とか60代を大病もせず卒業できたが、
不幸にも知人の病死、大病で入退院している友人を思い重ねれば、涙を浮かべたりしてきた。
そして現役サラリーマン時代でも、幾たびのリストラ烈風の中、
何とか障害レースを乗り越えて、定年退職を迎えることが出来、敗残者のようなつたない私でも、
五体満足で生かされているのは、選ばれたひとりかしら、と錯覚しながらも微苦笑したりしている。

私はゴールデン・イヤーズと称される60代を昨年の9月に卒業して、
私としてのこれまでの10年は、我が人生として最も安楽な期間を享受できたりしてきた。
そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
こうした中で、私は母の遺伝を受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人さまと話し合ったりすることが多い。
或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
そして悲嘆の出来事に遭遇しても、やがて落胆してばかりでは解決にならないので、
プラス思考に転じて、これまで過ごしたりしてきた。
私は、散策したりする時、ときおり心の中で唄ったり、人影の少ない道などで、今の時節は、
♪君と好きな人が 百年続きますように・・
一青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌を、かぼそい声で唄ったりする時もある。
私たち夫婦は、この先いつまでもささやかな生活が続くわけでなく、いずれ片割れになる・・。
このような思いを重ねたりして、歩く時もある。
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朝食後、霧雨舞い降るひととき、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っていた時、
【「昔はよかった」なんてとんでもない!
「いまのほうが、ずっといい」か「昔もいまもたいして変わらない」という事実】
と題された見出しを見て、
どういうことなの、と思いながらクリックし、精読してしまった。
何かしらパオロ・マッツァリーノ・著作の『「昔はよかった」病』(新潮新書)を
ネットで【ダ・ヴィンチニュース 】が9月2日に配信された記事と解った。
私は読みながら苦笑したり、微笑んだりした・・。
無断であるが、ルートつつみ氏が寄稿された文を転載させて頂く。

《・・たまの休みに東京の下町を散歩して、
「こういう古き良き昭和の香りがする家並みや風情を、いつまでも残してほしいなぁ」とつぶやいてみる。
「火の用心」の拍子木の音を聞いて、古き良き日本の風物詩にしみじみとする。
なにかと世知辛い現代だ。
昔は風情があって、人々は品性や善意に満ちていた。
もし、ひと昔前に生まれていたら、より豊かな人生が歩めたのかなぁ…なんて感傷に浸る日本人に、
「もういいかげん【古き良き】という枕詞を使うのをやめてもらえませんか」
と冷水をかけるのは、イタリア生まれの日本文化史研究家・パオロ・マッツァリーノ氏である。
日本通を自認する氏の著書『「昔はよかった」病』(新潮社)によると、
「世の中のほとんどのものは、女房と畳のように、新しいほうがいい」。
たまの不便なら楽しいけれど、毎日のこととなると、古いものは不快なだけ。
東京の下町で「風情を残してほしい」と口にする清潔好きな日本人は、
ミストサウナやウォークインクローゼットが完備された新築マンションに住んでいるくせに、
他人にはすきま風の入るボロ家に、いつまでも住み続けてほしいと願っている
“ひとでなし”だ、と手厳しい。
【古き良き】と対となる常套句は【昔はよかった】である。
「昔は義理人情に溢れていた」
「昔はいまのような凶悪犯罪なんてなかった」…
「だから昔はよかった」という口癖を、本書では「昔はよかった病」とバッサリ。

人間の記憶や思い出は都合よくできており、10、20年前のことですら、けっこうあやふや。
ましてや、50年以上前ともなれば、悪い話は記憶から抹消され、
良かったことだけが盛られているのが常。
そういった“歪んだフィルター”を通していまの世の中を見るから、
悪いことばかりが強調されると説明する。
「昔は義理人情に溢れていた」という言葉は、確かによく聞く。
例えば、前述の「火の用心」。
主に年末、火災予防のため、拍子木を打って歩く有志の夜回りだが、
近頃は「防犯パトロール」「防犯ボランティア」の名のもとに通年で見られる地域が増えてきている。
義理人情の火が消えていないことに頼もしさを感じるかもしれないが、
「拍子木の音で寝られない」と中止を求める声が各地で上がっているのをご存じだろうか。
「善意に対して、なんて義理人情に薄い人たちだ」…と憤る人があるかもしれないが、
著者いわく、間近で聞く拍子木の音は実際「オスプレイ並みの騒音」であり、
これを毎晩聞かせることに「火の用心」の良識のなさを問うている。
これに対して、火の用心を「絶対善」とする“信奉者”は、
「昔は拍子木がうるさいなんていう人はいなかったのに…」
「ああ、世知辛い世の中になった」と、日本人の劣化を嘆く
(ただし、「昔の日本人」にシンパシーを感じる自分は含まれない)。
昔の日本人にとって「火の用心」は、「ありがた迷惑」「善意の押し売り」ではなかったのだろうか。

本書では、それを否定している。
昭和の新聞の投書欄には、「寝られず迷惑」「静かに夜回りをしてほしい」、
過激なものになると「夜回りを廃せ」などの声がしばしば掲載されていたらしいのだ。
昔から非難されつつ、夜回りをする側本位の“義理人情”で続けられてきた「火の用心」。
効果があれば、騒音やむなしの感もあるが、
本書によると火災発生件数が減ったと証明する研究結果はない。
そればかりか、犯罪抑止効果も期待できないという。
空き巣が拍子木の音を聞くと、姿を隠し、
火の用心が行ってしまうと行動を再開するのは、当然のことである。
確かに、防犯ボランティアの8割以上が活動を開始した2005年以降、
空き巣などの犯罪は急激に減少し続けているが、
これはすでに2002年から見られていたことで、因果関係とはいいにくい。
ところで、こういった科学的統計を持ち出すと、
“夜回り信奉者”は「日本の風物詩なんだ」と激昂するというが、
それこそ「昔はよかった病」に罹患していると辛辣だ。

近年よくいわれる子どもの凶悪化・凶暴化や、
“過去最悪”(「過去最高」ではない)を更新し続ける犯罪件数についても、
日本人は情報による印象操作を受けているだけで、日本の治安は悪化しているどころか、
「歴史上類を見ないほどによくなっている」とキッパリ。
安全が高まるほど、たった1本しかない貧乏くじにあたる恐怖と不安が増大しているだけであり、
これ以上どんなに見守りなどを強化しても、わずかな犯罪発生率をゼロにすることは不可能。
「これ以上はオトナたちの力でもどうにもならないから、
あとは自分で判断して生き残れるようになりなさい」
と教えるのがホンモノの教育である、と持論を展開している。
【昔はよかった】というフィルターを通さず、
客観的に見渡せば「いまのほうが、ずっといい」か
「昔もいまもたいして変わらない」というのが事実であると著者。
「昔はよかった」「昔の人は立派だった」といまを否定する悲観論者にならず、
「いつの時代も人間はずっとダメな生き物なんだ」
と真実に目を向けるほうが気楽に生きられると提言している。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

寄稿文を読み終わった後、社会的なことは疎(うと)いが、
個人的には、私自身つたない人生航路を歩んできたので、セカンドライフと称される年金生活は、
我が人生は最良の日々と感じ深めている・・。
こうした思いから、「昔はよかった」という思いから遠いひとりである。
私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉の秋に大学を中退して、
映画・文學青年の真似事を奮戦したりしたが、あえなく敗退した。
そして、やむなくサラリーマンに転身し、何とか大企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年ばかりソフトコースの学科を専攻して学び、
この後、知人のご尽力もあり、この当時としては、ある大手の音響・映像メーカーの会社に、
何とか中途入社できたのは1970年(昭和45年)の春であった。
そして音楽事業本部に配属されて数ヶ月した頃、
この中のひとつの大きなレーベルがレコード会社と新設され、
私も新たな外資系のレコード会社に転籍の辞令を受けたりした。
もとよりレコード会社の各社は中小業であり、苦楽の大波、小波をまともに受けたし、
音楽業界に35年近く勤めて、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となった。
そして最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品を扱う物流センターに勤めて、
敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。
このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
第二の人生は身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。
そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
2004年(平成16年)の秋、年金生活の当初は、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。
そして独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
そして私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。
その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。

定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなく、平素の買物専任者を自主宣言したのであった。
そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。
しかしながら実際は日常生活の中で、ときおり私が失敗事をしたりすると、
平素は『あなた・・』と呼ばれるのに、
『ボケチンねぇ・・』と家内から微笑みながら私に苦言される時もある。
こうした中で、私は66歳の時に糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
食事の改善とひたすら歩いて、何とか克服してきたので、
糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、ひたすら歩くことが多くなっている。

この後の大半は居間で過ごしたりすることが多く、何かと随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。
定年後の年金生活の単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。
雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は買い求めたりしている。
新聞は『読売新聞』を40年近く購読しているが、気になり記事を更に深く知りたい時は、
総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】などに縋(すが)り、
多々教示されている。
ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。
或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚からCD、DVDなどを取りだして、聴いたりしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
こうした中で、ときおり我が家の小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。
私たち夫婦は、子供に恵まれなかった為か、新婚時代から幾たびか旅路を重ねてきた。
現役サラリーマン時代は、殆ど2泊3日ぐらいの日程であったが、
年金生活を始めると日程の制約から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなっている。
年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。
こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。

こうした60代の中で、多くの退職された方たちも同様と思われるが、
過ぎ去る年の会社時代の先輩、同僚、後輩たちの集いより、
家族の団欒はもとより、孫の世話で・・自身の病院の治療、或いは親族、親戚関係の冠婚葬祭が優先となっているのが、
私の周囲には多くなっている。
こうした中で、私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。
或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
何よりも思いがけないことは、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。
こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。
そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。
このように学んできた私は、昨年の9月に古稀と称せられる70歳になり、
家内も12月に高齢者入門の65歳となり、お互いに介護保険を支払う無職高齢世帯となった。
いつの日にか私たち夫婦は、片割れとなり、残された方は『おひとりさま』となるが、
果たして・・と年に数回は思案したりしている。
しかしながら私は何とか60代を大病もせず卒業できたが、
不幸にも知人の病死、大病で入退院している友人を思い重ねれば、涙を浮かべたりしてきた。
そして現役サラリーマン時代でも、幾たびのリストラ烈風の中、
何とか障害レースを乗り越えて、定年退職を迎えることが出来、敗残者のようなつたない私でも、
五体満足で生かされているのは、選ばれたひとりかしら、と錯覚しながらも微苦笑したりしている。

私はゴールデン・イヤーズと称される60代を昨年の9月に卒業して、
私としてのこれまでの10年は、我が人生として最も安楽な期間を享受できたりしてきた。
そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
こうした中で、私は母の遺伝を受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人さまと話し合ったりすることが多い。
或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
そして悲嘆の出来事に遭遇しても、やがて落胆してばかりでは解決にならないので、
プラス思考に転じて、これまで過ごしたりしてきた。

私は、散策したりする時、ときおり心の中で唄ったり、人影の少ない道などで、今の時節は、
♪君と好きな人が 百年続きますように・・
一青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌を、かぼそい声で唄ったりする時もある。
私たち夫婦は、この先いつまでもささやかな生活が続くわけでなく、いずれ片割れになる・・。
このような思いを重ねたりして、歩く時もある。
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