夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

月を愛(め)でれば、満月の十五夜(じゅうごや)も良いが、十六夜(いざよい)に圧倒的に魅了され・・。

2015-09-28 14:00:57 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳になった身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭の中、築後38年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日の昼下がり、家内は独り住まいの家内の母宅で3泊4日で介護、料理、掃除、洗濯など孤軍奮闘し、
こうした時は帰路の途中で、デパートの地下街の食品売り場で、
私好み食べ物を買い求めて帰宅した。

こうしたことは、ここ3か月の習(なら)わしとなっているが、
たまたま私は70歳を卒業し71歳に昇格した誕生日だったので、
夜のひとときに、私たち夫婦はささやかな酒宴の真似事をしたりした。

この少し前、お互いに雨戸を閉めようとした時、
『お月さま・・綺麗だわ・・』
と家内は私に話しかけた。

私は我が家の主庭に隣接した隣家の屋根とマンションの大きな建物の間に、
満月のように輝いている月を眺め、
『確かに・・『中秋の名月』の『十五夜』は綺麗だよねぇ・・』
と私は誉(ほ)めながら応(おう)じた。

やがて10時過ぎに、私は独りで玄関の軒下に下り立ち、
澄み切った夜空にぽっかりと月が煌々と光をおびているのを眺めながら、
お月さま・・私に向って微笑んでいるみたい、と私は感じ深めたりした・・。

こうした単細胞のような思いの心の奥底には、
私は定年退職するまでの半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしているが、
このような心情を察した天上の神々から、人生の後半の贈り物のひとつ、と私は解釈しているからである。
          

この後、ぼんやりと私の幼年期の頃、生家でささやかな月見の祝いをしていたことが、
思いだされた・・。

私が地元の小学校に入学したのは、1951年(昭和26年)の春であった。

この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方のお力を借りながらも田畑を耕していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた三男坊であるが、
祖父、父は2人男の子が続いたので、跡継ぎの男子は万全と思ったので、今度は女の子を期待していたらしく、
やがて妹が誕生して、祖父、父は何かと溺愛していた。

そして三男坊の私は期待されない児と思い、幼児心に何となくいじけた可愛らしくない児であった。

この当時、この時節の満月を迎える中秋の名月の時は、
母屋の主庭に面した縁側で、月が観える位置に飾りを供(そな)えていた。

三方(さんぽう)と称された檜(ヒノキ)の白木で作った方形の折敷(おしき)に三方に穴が開いた台に、
半紙を敷いて、お米の粉で作った団子を15個ばかり供えられていた。

薄(すすき)が活(い)けられ、その脇には収穫された農作物の里芋(さといも)、
サツマイモ、蓮(の根)などが置かれていた。

私は祖父から不憫に感じられたせいか、ときには可愛いがわられて、
祖父の冷酒を呑む横に座って、満月を眺めたりしていた。

今、こうして想いだすのは、農家であったので、
春から育てられた農作物が何とか夏の日照り、台風などの被害を受けることなく、
無事に秋の収穫を迎えることができ、感謝をささげる意味から、
このように形式がとられたと解釈している。

こうしたささやかな『月見』も数年後、父が死去し、祖父にも死別され、
大黒柱を失った生家は衰退の一途となり、このような儀式には余裕がなく、消滅した。
                    
定年後の年金生活をし、齢を重ねるたびに圧倒的に深く魅了されるのは、
なぜかしら『十六夜(いざよい)』である。

もとより『いざよい』は、「いざよう」の語源からであり、
ためらい、ためらう、ことなど意味しているが、
『十五夜』よりしばらく遅れて昇ることから『 いざよい』と称されてきた。

私は月を眺め、自分のその時の思いを託〈たく〉したりしているが、
この時節になると、『十三夜(じゅうさんや)』を誉めたり、
その後の中秋の名月と称されている満月の『十五夜(じゅうごや)』を見惚〈みと〉れたり、
やがて、 待ちわびた『十六夜(いざよい)』に圧倒的に魅了されたりしている。

古人の時代から、満月よりやや遅れてためらうように昇って来る、と伝承されてきているが、
つたない私の人生の歩みは、読書に目覚めた時、社会人になった時、結婚した時など、
何事も遅く微苦笑を重ねて、何かしら共感を深めている。

そして何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだった為か、
50代の頃から、『十六夜(いざよい)』を愛(め)でれば、
ためらうように月が昇り、ほのかに少し欠けた形に、
少しいびつな形をした壺(つぼ)と同様に、確かに美を感じ深めたりしている。

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