今朝、配達された読売新聞の朝刊を読んだりした中で、
精読したひとつの記事があった。
11面にある『くらし』欄に掲載されている『人生100年の歩き方』の連載に於いて、
《介護施設の質 情報少ない》と見出しされた記事であった。
私はこうした中、私たち夫婦にとって難題は、
やはり晩秋期の不安は、いつの日にか、介護・要となり、
介護施設にお世話になる時と思われる。
そして介護施設に関しては、色々と本で読んだりしているが、
もとより未知の世界なので、今回のような記事は、学びたく精読した・・。
無断ながら記事の殆どを転載させて頂く。
《・・小説家の篠田節子さん(68歳)と、ノンフィクション作家の久田 恵さん(76歳)の、
これからの生き方を考える対談の3回目。
ともに20年にわたって親の介護をしてきた2人が、
介護の現場や家族が置かれている現状について語り合います。
篠田節子さん
私は子どもも、きょうだいもいないので、
体が動かなくなったら、介護施設に入ることになると思います。
でも、3食付きで外出も届け出制となると、ちょっときついかな。
篠田節子さん
そういう情報が、今あまりにも少ないですね。
労働環境の悪さや低賃金など、業界全体の問題もある。
それが入所者への対応に反映されるでしょうから。
久田 恵さん
私の両親が入所した施設は、入所者の状況に合わせて、丁寧に対応してくれました。
良い施設はオープンで、働いている方たちがニコニコしている気がします。
篠田節子さん
そういう施設のスタッフは、ひどい状況に置かれていないのかも。
久田 恵さん
介護する家族に少しでも給付金などがあって、
年金とそのお金で、無理して働かなくても食べていけるようなら、
介護現場の人手不足も、少しは解消されるかもしれませんね。
篠田節子さん
母は最後の数年は施設や病院にいて、洗濯物は私が持ち帰っていたのですが、
認知症が進むと、排せつ物の汚れが増えてきて。
そうした衣類も全部一つのポリ袋に入れて、渡されるようになり、
うちの風呂場の床に広げて洗っていました。
スタッフの方は忙しくて、洗濯物を分ける余裕なんてないんです。
久田 恵さん
施設で洗濯はしてもらえなかったの?
篠田節子さん
頼むと1日で千数百円、1か月あたりで数万円のお金がかかります。
コロナ禍になり、自宅で洗濯した衣類を持ち込めなくなったので、
結局お願いすることにして楽になりましたが、そういうことにもお金が必要です。
久田 恵さん
昔はなんで、介護が問題にならなかったのかしら。
みんな老いていくのは、今も昔も変わらないのにね。
篠田節子さん
倒れてから亡くなるまでの期間が、短かったからでは。
私が聞いた話では、戦前の農村では高齢者が倒れても、
家族が枕元におにぎりと水を置いて、野良仕事に出ていたそうです。
介護の余裕などないほど貧しかった。
そのうち衰弱して2~3か月で亡くなるのが普通だったと。
今は脳 梗塞 で倒れても、普通に10年とか生きますから。
介護地獄が始まったのは、豊かになってからではないかと思います。
久田 恵さん
小説家として、介護生活は得るものがあったのではないですか。
篠田節子さん
介護そのものというより、ご近所とか親類とか、その辺りの交流ができたのはよかったと思っています。
(月曜掲載。1回目は10月23日、2回目は同30日に掲載した)・・ 》
注)記事の原文に、あえて改行など多くした。
特に学んだのは、
《・・
久田 恵さん
昔はなんで、介護が問題にならなかったのかしら。
みんな老いていくのは、今も昔も変わらないのにね。
篠田節子さん
倒れてから亡くなるまでの期間が、短かったからでは。
私が聞いた話では、戦前の農村では高齢者が倒れても、
家族が枕元におにぎりと水を置いて、野良仕事に出ていたそうです。
介護の余裕などないほど貧しかった。
そのうち衰弱して2~3か月で亡くなるのが普通だったと。
今は脳 梗塞 で倒れても、普通に10年とか生きますから。
介護地獄が始まったのは、豊かになってからではないかと思います。
私は昭和19年9月に農家の三男坊として生を受けた身であるが、
母は、私が幼児の頃に父の弟、或いは戦前に祖父の弟、
それぞれの晩年期の介護をしたと、
私は25歳の頃に、母から聞いたりした。
もとより農家の嫁として、家事、野良仕事もさせられて、
その上に、親族の介護をしたのだから・・大変な労苦だった、
と25歳の当時の私は思い馳せたりした・・。
このような出来事を想い重ねて、あの当時の介護の実態を今回、教えられて、
私は瞼(まぶた)が熱くなったりした。
そして現代、《・・今は脳 梗塞 で倒れても、普通に10年とか生きますから。
介護地獄が始まったのは、豊かになってからではないかと思います・・》、
私は複雑な思いで、繰り返して読んだりした・・。