私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。
日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。
そして年金生活は、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
たまたま定年後にブログの世界を知り、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
このような年金生活をしているが、日常の大半は、
随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
私は若き20代の前半に映画・文学青年の真似事をした為か、
退職した直後には、小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後、
映画作品としてビデオ・DVDが1000本前後あったりした。
しかしその後の昨年の2011年の3月11日の東日本大震災後、
老後のことも配慮して、やむなく自宅の本棚、押し入れを整理し、大幅に処分をし、
石川達三、丹羽文雄、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎、福永武彦などの小説、随筆に、
さよならを告げ、2000冊ぐらい処分し、3000冊前後が愛着を秘めて保存している。
そして現役時代に音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
製作畑ではなく、管理畑の片隅に勤めていたが、
少しづつ買い求めた結果として、レコード、カセット、CD、DVDの総数として
3000枚前後となった。
私は小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。
定年後の年金生活を始めて、予期せぬ出来事があった。
あれほど熱愛してきた映画の作品のDVD、そして音楽の作品のCD、DVDは、
私の感性が衰えてきたのか、或いは作品自体が劣化した為か解らないが、
映画作品は3作品、音楽のアルバムは6作品ぐらい買い求めてきた程度である。
やむなく居間にある映画棚から、映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴く程度となった。
しかし本だけは相変わらず本屋に寄ったりして、単行本、新書本、文庫本などを買い求めたりし、
魅了された本に出逢えなかった時、ときおり古本屋まで行ったりしている。
私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住んでいるが、
小田急線であったならば、自宅から数分のバス停から『成城学園前』駅の駅前まで、
長年、通学・通勤に利用してきたので、定年後の今でも都心に買物、旅行に行く時は利用し、
帰路に本屋に寄ったりしている。
或いは散策、スーパーに買物に行く時は、『喜多見』駅、『狛江』駅まで歩いたりし、
本屋、古本屋に寄ったりしてしまう。
京王線の場合は、『仙川』駅、『つつじが丘』駅などの場合も、
やはり散策を兼ねたり、スーパーに買物に行った時は、殆ど本屋に寄ったりしている。
定年後は、特に愛読しているのは塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、三浦朱門、
高峰秀子などの作品に深く魅了され、この著作された人たちを主軸に購読し、
多々教示されたり、或いは、そうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。
或いはここ10数年、世界の主要国は、
『デフレスパイラル』のもとで進められた国家によるサービスの縮小、
そして大幅な規制緩和による市場経済重視する新自由主義と命名された『ネオリベ(ネオリベラリズム)改革』により、
混迷している時代になっている。
こうした中で、日本は政治は混迷、経済は低迷、そして社会は劣化するばかりで、
私は専門知識にも疎(うと)く、齢ばかり重ねた無力な身ながら、憂いたりした。
やむなく書庫の本棚に行き、高坂正堯の著作の『文明が衰亡するとき』(新潮選書, 1981年)、
中西輝政の著作の『なぜ国家は衰亡するのか』(PHP新書、1998年)を再読したりしてきた。
そして私は恥ずかしながら専門知識もなく、こうした確かな賢人より、
国家の歴史認識はもとより、命運、興亡など多々学び、つたないなりに思索させられるのである。
このような読書好きな私が、何よりも困窮するのは、
旅行先で持参した数冊の本を読み終えてしまった時である。
過ぎし2008〈平成20〉年の2月に、私たち夫婦は独り住まいの家内の母を誘い、
箱根・姥子温泉の観光ホテルに7泊8日で滞在した時である。
日中は家内たちの婦人の名所の観たい所と違い、
私は姥子温泉の付近の芦ノ湖周辺を散策したりし、夕方から深夜まで読書をしたりしていたが、
周辺には本屋がなく、コンビニは雑誌しかなく困惑したのである。
私は活字中毒のひとりなので、薬が切れた、と家内に溢(こぼ)したりしていた。
そして帰路の箱根湯本の駅の近くの本屋で寄り、
佐野眞一・著の『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社)を買い求め、
活字文化に飢(う)えた私の心を充たしたりした。
或いは読書を何よりの友とされた経団連の会長まで栄達された平岩外四さんは、
お亡くなるまで、本を読まれていた、
と風の噂で聞いたりすると、もとより経団連などに縁遠かった私でも、
思わず平岩外四さんに好感させられてしまう不思議な作用がある。
もとより読書は貧富の差にかかわらず、この世の知力の求愛と確信しているので、
活字に親しむ方に何かと親近感を覚えてしまう。
このような私なので、心の友と信愛を深めながら、この世に別れを告げるまで、
本を読んでいたと思ったりしている。
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中小業の民間会社に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。
日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。
そして年金生活は、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
たまたま定年後にブログの世界を知り、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
このような年金生活をしているが、日常の大半は、
随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
私は若き20代の前半に映画・文学青年の真似事をした為か、
退職した直後には、小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後、
映画作品としてビデオ・DVDが1000本前後あったりした。
しかしその後の昨年の2011年の3月11日の東日本大震災後、
老後のことも配慮して、やむなく自宅の本棚、押し入れを整理し、大幅に処分をし、
石川達三、丹羽文雄、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎、福永武彦などの小説、随筆に、
さよならを告げ、2000冊ぐらい処分し、3000冊前後が愛着を秘めて保存している。
そして現役時代に音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
製作畑ではなく、管理畑の片隅に勤めていたが、
少しづつ買い求めた結果として、レコード、カセット、CD、DVDの総数として
3000枚前後となった。
私は小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。
定年後の年金生活を始めて、予期せぬ出来事があった。
あれほど熱愛してきた映画の作品のDVD、そして音楽の作品のCD、DVDは、
私の感性が衰えてきたのか、或いは作品自体が劣化した為か解らないが、
映画作品は3作品、音楽のアルバムは6作品ぐらい買い求めてきた程度である。
やむなく居間にある映画棚から、映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴く程度となった。
しかし本だけは相変わらず本屋に寄ったりして、単行本、新書本、文庫本などを買い求めたりし、
魅了された本に出逢えなかった時、ときおり古本屋まで行ったりしている。
私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住んでいるが、
小田急線であったならば、自宅から数分のバス停から『成城学園前』駅の駅前まで、
長年、通学・通勤に利用してきたので、定年後の今でも都心に買物、旅行に行く時は利用し、
帰路に本屋に寄ったりしている。
或いは散策、スーパーに買物に行く時は、『喜多見』駅、『狛江』駅まで歩いたりし、
本屋、古本屋に寄ったりしてしまう。
京王線の場合は、『仙川』駅、『つつじが丘』駅などの場合も、
やはり散策を兼ねたり、スーパーに買物に行った時は、殆ど本屋に寄ったりしている。
定年後は、特に愛読しているのは塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、三浦朱門、
高峰秀子などの作品に深く魅了され、この著作された人たちを主軸に購読し、
多々教示されたり、或いは、そうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。
或いはここ10数年、世界の主要国は、
『デフレスパイラル』のもとで進められた国家によるサービスの縮小、
そして大幅な規制緩和による市場経済重視する新自由主義と命名された『ネオリベ(ネオリベラリズム)改革』により、
混迷している時代になっている。
こうした中で、日本は政治は混迷、経済は低迷、そして社会は劣化するばかりで、
私は専門知識にも疎(うと)く、齢ばかり重ねた無力な身ながら、憂いたりした。
やむなく書庫の本棚に行き、高坂正堯の著作の『文明が衰亡するとき』(新潮選書, 1981年)、
中西輝政の著作の『なぜ国家は衰亡するのか』(PHP新書、1998年)を再読したりしてきた。
そして私は恥ずかしながら専門知識もなく、こうした確かな賢人より、
国家の歴史認識はもとより、命運、興亡など多々学び、つたないなりに思索させられるのである。
このような読書好きな私が、何よりも困窮するのは、
旅行先で持参した数冊の本を読み終えてしまった時である。
過ぎし2008〈平成20〉年の2月に、私たち夫婦は独り住まいの家内の母を誘い、
箱根・姥子温泉の観光ホテルに7泊8日で滞在した時である。
日中は家内たちの婦人の名所の観たい所と違い、
私は姥子温泉の付近の芦ノ湖周辺を散策したりし、夕方から深夜まで読書をしたりしていたが、
周辺には本屋がなく、コンビニは雑誌しかなく困惑したのである。
私は活字中毒のひとりなので、薬が切れた、と家内に溢(こぼ)したりしていた。
そして帰路の箱根湯本の駅の近くの本屋で寄り、
佐野眞一・著の『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社)を買い求め、
活字文化に飢(う)えた私の心を充たしたりした。
或いは読書を何よりの友とされた経団連の会長まで栄達された平岩外四さんは、
お亡くなるまで、本を読まれていた、
と風の噂で聞いたりすると、もとより経団連などに縁遠かった私でも、
思わず平岩外四さんに好感させられてしまう不思議な作用がある。
もとより読書は貧富の差にかかわらず、この世の知力の求愛と確信しているので、
活字に親しむ方に何かと親近感を覚えてしまう。
このような私なので、心の友と信愛を深めながら、この世に別れを告げるまで、
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今小説読んでいます。
山崎豊子さん
大地の子から
沈まぬ太陽と
自分の世界に閉じこみ
時間を一瞬忘れ
又馬を見る。
そして寝酒へと
これで今日もまた深けていく
お元気ですか
暑い日々が続きますが
水分補給には気をつけてください。
ではまた。
貴兄よりのお便り、嬉しく読ませて頂きました♪
競馬の世界に、日々奮戦に無知な私でも、貴兄の熱き思いを感じている次第です。
『持続こそ・・第一歩であり・・まさるものなし』と貴兄より励まされて、
私も奮闘して、日々ブログの投稿文している次第です。
山崎豊子さんの『大地の子』、『沈まぬ太陽』・・
山崎豊子さんの作品は、人は誰しも功罪を秘めていますが、
それぞれの世界の問題を徹底的に掘り下げて骨格ある登場人物に魅了される、
と私は感じたりしてきました。
何よりも山崎豊子さんのいずれの作品からは、
創作者として作品に対する執念に圧倒され、敬服します。
渾身の競馬を思いめぐらす洞察されている中、
読書、お酒のひととき・・健全な時を過ごされています。
世の中は節電の風潮ですが、これからも猛暑の日々が続きますので、
体力に自信のある貴兄でも、程ほどにお身体をご自愛下さい。
そして奥様、お嬢様と共に、いつものように楽しくお過ごし下さい。