私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
この数週間前の頃から、7月14日の『パリ祭』に向けて、テレビ、ラジオ、新聞などで、
数多くのシャンソンの歌が流れたり、掲載されてきたので、私は微笑んだりしてきたひとりである。
もとよりパリ祭に関しては、フランスで7月14日に設けられている国民の休日(Fête Nationale)であり、
1789年同日に発生しフランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃および、
この事件の一周年を記念して翌年1790年に行われた建国記念日(Fête de la Fédération)が起源となっている。
そして、フランスでは単に「Quatorze Juillet(7月14日)」と呼ばれ、
「パリ祭」は日本だけの独自な名称である。
私は東京オリンピックが開催されていた1964〈昭和39〉年に映画青年の真似事をしていた時、
たまたま名画座でルネ・クレール・監督の『QUATORZE JUILLET』(1933年)を鑑賞し、
邦題として『巴里祭』と命題されていたが、
日本では、この名画の影響で7月14日のフランスの国民の休日(バスティーユの日)を「パリ祭」とも呼ぶようになっている、
と伝えられている。
私は無念ながらフランスの歴史にも疎(うと)く、パリ祭も無知であり、
せめて私の若き頃にシャンソンに魅了された時代もあったので、ささやかなシャンソンの想いを綴る。
私は映画・文學青年の真似事をして、あえなく挫折した後、
やむなくサラリーマンに転身して、民間会社に中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
そして入社した会社の一部門が、まもなく外資元の要請で、レコード会社として新設されて、
私も移籍の辞令を受けて、音楽を直接に制作する部門でない管理畑で奮闘していた。
そして26歳を迎えた頃、それまでのシャンソンの知識としては、
越路吹雪、岸洋子さんぐらいは知っていた。
本場のシャンソンとしては、ダミアの『暗い日曜日』は、私の先代の人たちが夢中になったり、
ジュリエット・グレコとか、やはりエディット・ピアフに尽きる、
とかはあくまで知識としての範囲であった。
この当時、たまたまバルバラの『私自身のためのシャンソン』アルバムのレコードで、
この中の『ナントに雨が降る』の歌を知り、
私の屈折の多い青春と私の父親を小学2生に死去された想いが加味され、
瞬時に魅了されたのである。
そして、私はバルバラの魔力にとりつかれて、
アルバムを買い求めたりし、この当時12枚のアルバムから、盛んに聴いたりした。
この間、銀座の外れにシャンソンの殿堂として名高い『銀巴里』に通ったりし、
日本のそれぞれシャンソン歌手が唄われるのを、聴き惚れたりした。
そして、この行き帰りに、ヤマハの銀座店に寄ったりして、
数多くのシャンソンを唄われる方たちのレコードを購入したり、
数年過ぎると、私の自宅のレコード棚は、シャンソンのアルバムだけでも、
少なくとも100枚は超えていた。
やがて、バルバラ自身が『黒いワシ』の異色作品を携え、日本に来日した。
そして日生ホールで公演され、私は駆けつれて、観たのである。
いずれにしても、このバルバラの『ナントに雨が降る』が
シャンソンに傾倒する10年の始まりで、熱愛した時期もあったりした・・。
この間、私は銀座の一角にある『銀巴里』に定期便のように行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。
そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃いめ水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。
このした中で、フランスはもとより、日本の方の唄ったシャンソンのアルバムを購入し、
シャンソンに無我夢中の時期であった。
アルバムの中で、日本人の中では、特に金子由香里さんに熱中していた。
『時は過ぎていく』、『ミラボー橋』、『スカーフ』、『愛の砂漠』等の50数曲に、
まぎれなく時を忘れたくらいに熱愛したのである。
こうした時に、東芝レコードから、戸川昌子の『失くした愛』と題されたアルバムを知り、
購入して聴いたのであるが、仰天したのである。
私は戸川昌子さんに関しては、推理分野を書く小説家であり、数作品は読んでいたぐらいであり、
以前に『銀巴里』で唄っていた、この程度しか知らない私であったが、
桁外れに上手いのである。
『失くした愛』と題されたアルバムの中に、B面の一曲目に『リリー・マルレーン』があるが、
この曲はもとより、『私はひとり片隅で』、『金曜日の晩に』、『暗い日曜日』、
『人の気も知らないで』、『ボンボヤージュ』等12曲であるが、
深く魅了されて、人生の姉貴である、と敬意したのである。
こうして、『失くした愛』と題されたアルバムを少なくとも100回前後、
レコード・プレイヤーで聴いたりしている間に、
私はレコード会社の本社でコンピュータの専任者で管理畑の身であったが、
洋楽の編成者、責任者に、
『東芝(レコード)で・・発売された戸川昌子さんのアルバム・・凄いですよ・・
私はシャンソンが好きなので良く聴きますが・・
桁外れに上手いです・・』
と他社のアーティストであったが絶賛し、友人にも話したりしていた。
私は35歳を過ぎた頃、他の分野の音楽に夢中になったが、
ほぼ10年間にシャンソンに熱中し、アルバムとして150枚ばかり残った時、
私にとってはピアフ、バルバラはもとより最上の神であるが、
日本語で唄われたシャンソンは、戸川昌子さんの『失くした愛』が傑作であり、
私はつたない観賞歴であるが、これ以上のアルバムは知らない。
齢を重ねた今、改めて振り返れば、これまでの私の人生に於いては、
シャンソンの限りなく深い百数十曲が
確かに心の片隅に残って折、心の宝物かしら、と微苦笑している。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
にほんブログ村
この数週間前の頃から、7月14日の『パリ祭』に向けて、テレビ、ラジオ、新聞などで、
数多くのシャンソンの歌が流れたり、掲載されてきたので、私は微笑んだりしてきたひとりである。
もとよりパリ祭に関しては、フランスで7月14日に設けられている国民の休日(Fête Nationale)であり、
1789年同日に発生しフランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃および、
この事件の一周年を記念して翌年1790年に行われた建国記念日(Fête de la Fédération)が起源となっている。
そして、フランスでは単に「Quatorze Juillet(7月14日)」と呼ばれ、
「パリ祭」は日本だけの独自な名称である。
私は東京オリンピックが開催されていた1964〈昭和39〉年に映画青年の真似事をしていた時、
たまたま名画座でルネ・クレール・監督の『QUATORZE JUILLET』(1933年)を鑑賞し、
邦題として『巴里祭』と命題されていたが、
日本では、この名画の影響で7月14日のフランスの国民の休日(バスティーユの日)を「パリ祭」とも呼ぶようになっている、
と伝えられている。
私は無念ながらフランスの歴史にも疎(うと)く、パリ祭も無知であり、
せめて私の若き頃にシャンソンに魅了された時代もあったので、ささやかなシャンソンの想いを綴る。
私は映画・文學青年の真似事をして、あえなく挫折した後、
やむなくサラリーマンに転身して、民間会社に中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
そして入社した会社の一部門が、まもなく外資元の要請で、レコード会社として新設されて、
私も移籍の辞令を受けて、音楽を直接に制作する部門でない管理畑で奮闘していた。
そして26歳を迎えた頃、それまでのシャンソンの知識としては、
越路吹雪、岸洋子さんぐらいは知っていた。
本場のシャンソンとしては、ダミアの『暗い日曜日』は、私の先代の人たちが夢中になったり、
ジュリエット・グレコとか、やはりエディット・ピアフに尽きる、
とかはあくまで知識としての範囲であった。
この当時、たまたまバルバラの『私自身のためのシャンソン』アルバムのレコードで、
この中の『ナントに雨が降る』の歌を知り、
私の屈折の多い青春と私の父親を小学2生に死去された想いが加味され、
瞬時に魅了されたのである。
そして、私はバルバラの魔力にとりつかれて、
アルバムを買い求めたりし、この当時12枚のアルバムから、盛んに聴いたりした。
この間、銀座の外れにシャンソンの殿堂として名高い『銀巴里』に通ったりし、
日本のそれぞれシャンソン歌手が唄われるのを、聴き惚れたりした。
そして、この行き帰りに、ヤマハの銀座店に寄ったりして、
数多くのシャンソンを唄われる方たちのレコードを購入したり、
数年過ぎると、私の自宅のレコード棚は、シャンソンのアルバムだけでも、
少なくとも100枚は超えていた。
やがて、バルバラ自身が『黒いワシ』の異色作品を携え、日本に来日した。
そして日生ホールで公演され、私は駆けつれて、観たのである。
いずれにしても、このバルバラの『ナントに雨が降る』が
シャンソンに傾倒する10年の始まりで、熱愛した時期もあったりした・・。
この間、私は銀座の一角にある『銀巴里』に定期便のように行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。
そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃いめ水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。
このした中で、フランスはもとより、日本の方の唄ったシャンソンのアルバムを購入し、
シャンソンに無我夢中の時期であった。
アルバムの中で、日本人の中では、特に金子由香里さんに熱中していた。
『時は過ぎていく』、『ミラボー橋』、『スカーフ』、『愛の砂漠』等の50数曲に、
まぎれなく時を忘れたくらいに熱愛したのである。
こうした時に、東芝レコードから、戸川昌子の『失くした愛』と題されたアルバムを知り、
購入して聴いたのであるが、仰天したのである。
私は戸川昌子さんに関しては、推理分野を書く小説家であり、数作品は読んでいたぐらいであり、
以前に『銀巴里』で唄っていた、この程度しか知らない私であったが、
桁外れに上手いのである。
『失くした愛』と題されたアルバムの中に、B面の一曲目に『リリー・マルレーン』があるが、
この曲はもとより、『私はひとり片隅で』、『金曜日の晩に』、『暗い日曜日』、
『人の気も知らないで』、『ボンボヤージュ』等12曲であるが、
深く魅了されて、人生の姉貴である、と敬意したのである。
こうして、『失くした愛』と題されたアルバムを少なくとも100回前後、
レコード・プレイヤーで聴いたりしている間に、
私はレコード会社の本社でコンピュータの専任者で管理畑の身であったが、
洋楽の編成者、責任者に、
『東芝(レコード)で・・発売された戸川昌子さんのアルバム・・凄いですよ・・
私はシャンソンが好きなので良く聴きますが・・
桁外れに上手いです・・』
と他社のアーティストであったが絶賛し、友人にも話したりしていた。
私は35歳を過ぎた頃、他の分野の音楽に夢中になったが、
ほぼ10年間にシャンソンに熱中し、アルバムとして150枚ばかり残った時、
私にとってはピアフ、バルバラはもとより最上の神であるが、
日本語で唄われたシャンソンは、戸川昌子さんの『失くした愛』が傑作であり、
私はつたない観賞歴であるが、これ以上のアルバムは知らない。
齢を重ねた今、改めて振り返れば、これまでの私の人生に於いては、
シャンソンの限りなく深い百数十曲が
確かに心の片隅に残って折、心の宝物かしら、と微苦笑している。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
にほんブログ村
家業として、仙川で手芸品を家族郎党でやらせて頂いております。
齢二十と七になりました。
この年の男でシャンソンを好きだと言うと、怪訝な顔をされたり、理解される事は同世代にもともがらにもほとんどありません。
好きなものを好きと、シャンソンに限らず言い放ち続け辞めるつもりもありませんが、
なんとも生きづらい世の中です。
シャンソンを聴ける店も知らず、銀巴里を知った頃には過去の店
意思を共にする友も居らず
熱く気持ちを持つ事さえも否定され
幸せを幸せだと言うと、キチガイと言われます。
私は主義を持ちません。
一つあるのは、優主義。
生きたい、その中でやりたい事をやりたい。
愛してくれる全ての為に
愛おしい人と、母と、私の庇護者の女性達の為に
歴史という悪の性別が、女性を虐げた罪を僕はシャンソンにも乗せたいのです。
貴女の言葉も僕は有難く戴きました。
同じ調布市民として、こんな素敵な女性に愛を讃えて歌を歌います。
私の古い投稿文に、コメントを頂き、驚きながら感謝する次第です。
>家業として、仙川で手芸品を家族郎党でやらせて頂いております。
>齢二十と七になりました。
>この年の男でシャンソンを好きだと言うと、怪訝な顔をされたり、理解される事は同世代にもともがらにもほとんどありません。
>好きなものを好きと、シャンソンに限らず言い放ち続け辞めるつもりもありませんが、
>なんとも生きづらい世の中です。
私はこの投稿文に記載した通り、調布市に住んでいますが、
正確に記載すれば世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に、
結婚前後の5年を除き、63年近く住んでいます。
こうした関係で、小学生から仙川の商店街には、何かと行っていますので、
このような事情で、貴兄の家業店の手芸品『なかや』は、もとより存じています。
私は小学生の後半から映画に圧倒的に魅せられて、
この後の中学時代を含めて、相変わらず独りで映画館に通ったした映画少年となり、
高校生になると、下校後にたびたび都心の映画館に寄ったりし帰宅していたこともありました。
そして東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしました。
こうした中で、当時の映画界は衰退期でして、
養成所の講師の紹介で新劇界の長老から、同じ創作すめなら小説を書きなさい、
と教示されまして、
その後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていました。
こうした明日も見えない落胆していた時、
30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折しました。
結果として、やむなく安定した人生航路に軌道修正し、企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に1年ほど学んだりした後、
幸いご近所に住まわれている大企業の経営陣のお方の助力もあり、
ある大企業に中途入社できたのは、1970(昭和45)年の春であり、25歳の時でした。
その後、入社した大企業の音楽部門のひとつがレコード会社として独立され、
私も異籍させられて、これ以降は定年までの35年近く音楽分野に勤めることになりました。
この間、私は情報畑、管理畑などの職務でしたが、
若き26歳の頃は、営業本部の中で、コンピュータ専任者と奮闘していた時、
シャンソンに熱中し始めて、やがて洋楽の編成部に異動させて欲しい、
と上司の営業本部長に依頼したことがありました。
洋楽の編成部に於いて、シャンソンの編成の職務を希望していましたが、
この当時さえもシャンソンの編成業務だけでは、給料が頂くことがままならず、
カンツォーネ、ポピューラー分野までして、はじめてヨーロッパ系の編成業務として職責内容でした。
こうした事情から、私の願いを上司の営業本部長は、
レコード会社で長く務める意志があったら、管理畑で精勤された方が良い、
と反対されたこともありました。
このような私のつたない体験があり、私は安全策を選定しました。
年金生活の9年生の今、
映画の脚本家、小説家、或いは洋楽の編成から評論家は見果てぬ夢となっている次第です。
しかし多くの方の一部には、こうした熱望した中で、夢を捨てきれず、
若き日に邁進されて、人生の日々をかけて、この中の一部の方が、念願した分野で到達され、
職業とされる方が、現実にあります。
貴兄は若き27歳のお方ですので、くまなく貴兄の心情を発露されたことに対し、
こうした多くの事情で、私は断言をためらっている次第です。