私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は、結婚して38年生となっている。
私は外見上は、妻とか連れ合いことは、外見上は家内としている。
奥方というのも、つなない私でも遥か高貴の家から降下され嫁いできたくれた方と思い、
女房、というのも、私はあえてさけている。
女房と称される語源は、平安時代に於いて、宮中で私的事務をつかさどった女官の名称、
と若き二十歳の頃に、井口樹生・文学博士から教示された。
そして、『房』は部屋を指し、奥ゆかしき独り専用の広い部屋のことらしく、
我が家としては、私の実力不足で無念ながら家内専用の広い部屋がないのである。
このような理由として、消却してみれば妻を、家内、と私は外見上は公言している。
☆本日、買物した後、独りで散策した時の情景であり、下記に掲載した写真も同様である☆
しかしながらこの世の中には、内輪の日常生活の中、
『XX』、と男性が愛しき連れ合いを名前で呼び捨てにしている方たちがいる。
もとより私の世代より齢上の方の男性に多く、私より少し若い団塊世代の人の一部に見受けられるが、
私は何となく女中さん、或いは愛人のような存在で、
粗末にしているように感じ受けしまい、名前で呼び捨てにするのは論外としている。
こうした私の根底には、私は幼年期の頃から、女性に対して憧憬する悪い癖があり、
齢ばかり重ねた昨今でも、50代から70代の女性の言葉、しぐさに魅せられている。
特に凛とした女性には、圧倒的に弱く、少しばかり眩暈(めまい)を感じたりする体験が
幾たびもあったりしている。
或いは、妻を『XXさん』というのも、寝食を共にしているので、他人行儀らしく感じてしまう。
このような幾つになっても可愛げのない独断と偏見のある私である。
私がこの広い世界の中で、家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
私のすぐ下の妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐ前に、私の生家の長兄宅に同居していたが、
結婚後は嫁ぎ先の義父母宅に同居することでなっていた。
、
こうした中で、私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
そして私は、義父と何かの時に、たまたま文学のことが話題となった。
この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文学を愛し、
余暇は自宅の一室の10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。
こうした縁で、やがてこの商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、私たちは交際をはじめた・・。
二度目に私たちは待ち合わした時、私はXXさん、と苗字を言っても何かしら他人のように思え、
いきなり相手の名前、XXちゃんと呼んだ。
相手の女性は、突然に名前を言われたので、少し驚いたような表情を浮かべた・・。
こうした私の発想の根源は、恥ずかしながら告白すれば、
私が二十歳過ぎた頃に愛読していた小説家・福永武彦さんのひとつの作品の『草の花』の中で、
主人公の男性が交遊し好感を重ねていた若き女性に対して、XXちゃん、と名前で呼んでいたので、
流用させて頂いたのである。
私はこれ以降、婚約、やがて結婚、そして子供も恵まれなかったこともあるが、
家内のことを、我が家ではもとより、親族の集いの冠婚葬祭などを含めて、
XXちゃん付けとして呼び、39年が過ぎている・・。
しかし世の中は、私の友人のひとりは子供が二人に恵まれて、
何かしら育児に奮闘していた時から、子供の手前、
夫婦間でお互いに、お父さん、お母さん、と呼び合っている情景を私は見たりしてきた。
私たち夫婦は、共通の趣味のひとつとして国内旅行であり、
子供に恵まれなかった為か、若い頃から国内の各地を旅行をしたりしている・・。
ときには団体観光ツアーで各地を周遊したこともある。
バス、新幹線の車内、休憩所の土産売り場、観光ホテルのロビーとかで、
ご一緒に旅をしている人達から、ときおり笑われたりすることもある。
たとえば、新幹線を下車する直前、旅行のバックを持つ前に、
『あなた・・まわりのお方に注意して・・持ってね・・』
と私は家内から言われたりしている。
こうした時、
『はい!』
と私は明るく大きな声で家内に返事をする。
私は日常生活でも家内から何か言われた時、
はぁ~ぃ、と少しだらけた返事は嫌いなので、短めで明るく大きな声で返事をしている。
こうした返事を、旅先でもすると、 なぜかご一緒から、笑われたりする・・。
そして私は家内を呼ぶ時には、
『XXちゃん・・さぁ・・』
と私はいつものように、家内の名前を口にしたりすると、
車内の付近から、くすくす笑われたりしている。
私は家内と婚約する前の交際期間から、ちゃん付けで呼んでいるので、
もとより私は平然としている。
家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』、『XXさん』と名前で呼ばれたりするが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。
こうした時、ご一緒の特に女性グループ方達から、
『あなた達・・いいわねぇ・・』
と笑いながら家内に言ったりしている。
こうしたことは、私はいつもの日常生活で使っているので、
私は戸惑いながら、ご一緒の方達に微笑返しをしたりしてきた。
しかしながら定年後の年金生活を始めてまもない頃、私は平素の買物の専任者となり、
スーパーなどで買物して、自宅に戻ると、この中のひとつが購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』と家内は笑いながら、私に言った。
この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりする時もある。
こうした中で、私は連れ合いをワイフとかパートナーと呼ぶのは、
何となく違和感を感じているひとりである。
こうした根底には幼年期に農家の児と育てられ、少なくとも日本男児のひとりであるので、
私としては、欧米文化の日常生活のふるまいに何かと苦手となっているのである。
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私たち夫婦は、結婚して38年生となっている。
私は外見上は、妻とか連れ合いことは、外見上は家内としている。
奥方というのも、つなない私でも遥か高貴の家から降下され嫁いできたくれた方と思い、
女房、というのも、私はあえてさけている。
女房と称される語源は、平安時代に於いて、宮中で私的事務をつかさどった女官の名称、
と若き二十歳の頃に、井口樹生・文学博士から教示された。
そして、『房』は部屋を指し、奥ゆかしき独り専用の広い部屋のことらしく、
我が家としては、私の実力不足で無念ながら家内専用の広い部屋がないのである。
このような理由として、消却してみれば妻を、家内、と私は外見上は公言している。
☆本日、買物した後、独りで散策した時の情景であり、下記に掲載した写真も同様である☆
しかしながらこの世の中には、内輪の日常生活の中、
『XX』、と男性が愛しき連れ合いを名前で呼び捨てにしている方たちがいる。
もとより私の世代より齢上の方の男性に多く、私より少し若い団塊世代の人の一部に見受けられるが、
私は何となく女中さん、或いは愛人のような存在で、
粗末にしているように感じ受けしまい、名前で呼び捨てにするのは論外としている。
こうした私の根底には、私は幼年期の頃から、女性に対して憧憬する悪い癖があり、
齢ばかり重ねた昨今でも、50代から70代の女性の言葉、しぐさに魅せられている。
特に凛とした女性には、圧倒的に弱く、少しばかり眩暈(めまい)を感じたりする体験が
幾たびもあったりしている。
或いは、妻を『XXさん』というのも、寝食を共にしているので、他人行儀らしく感じてしまう。
このような幾つになっても可愛げのない独断と偏見のある私である。
私がこの広い世界の中で、家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
私のすぐ下の妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐ前に、私の生家の長兄宅に同居していたが、
結婚後は嫁ぎ先の義父母宅に同居することでなっていた。
、
こうした中で、私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
そして私は、義父と何かの時に、たまたま文学のことが話題となった。
この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文学を愛し、
余暇は自宅の一室の10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。
こうした縁で、やがてこの商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、私たちは交際をはじめた・・。
二度目に私たちは待ち合わした時、私はXXさん、と苗字を言っても何かしら他人のように思え、
いきなり相手の名前、XXちゃんと呼んだ。
相手の女性は、突然に名前を言われたので、少し驚いたような表情を浮かべた・・。
こうした私の発想の根源は、恥ずかしながら告白すれば、
私が二十歳過ぎた頃に愛読していた小説家・福永武彦さんのひとつの作品の『草の花』の中で、
主人公の男性が交遊し好感を重ねていた若き女性に対して、XXちゃん、と名前で呼んでいたので、
流用させて頂いたのである。
私はこれ以降、婚約、やがて結婚、そして子供も恵まれなかったこともあるが、
家内のことを、我が家ではもとより、親族の集いの冠婚葬祭などを含めて、
XXちゃん付けとして呼び、39年が過ぎている・・。
しかし世の中は、私の友人のひとりは子供が二人に恵まれて、
何かしら育児に奮闘していた時から、子供の手前、
夫婦間でお互いに、お父さん、お母さん、と呼び合っている情景を私は見たりしてきた。
私たち夫婦は、共通の趣味のひとつとして国内旅行であり、
子供に恵まれなかった為か、若い頃から国内の各地を旅行をしたりしている・・。
ときには団体観光ツアーで各地を周遊したこともある。
バス、新幹線の車内、休憩所の土産売り場、観光ホテルのロビーとかで、
ご一緒に旅をしている人達から、ときおり笑われたりすることもある。
たとえば、新幹線を下車する直前、旅行のバックを持つ前に、
『あなた・・まわりのお方に注意して・・持ってね・・』
と私は家内から言われたりしている。
こうした時、
『はい!』
と私は明るく大きな声で家内に返事をする。
私は日常生活でも家内から何か言われた時、
はぁ~ぃ、と少しだらけた返事は嫌いなので、短めで明るく大きな声で返事をしている。
こうした返事を、旅先でもすると、 なぜかご一緒から、笑われたりする・・。
そして私は家内を呼ぶ時には、
『XXちゃん・・さぁ・・』
と私はいつものように、家内の名前を口にしたりすると、
車内の付近から、くすくす笑われたりしている。
私は家内と婚約する前の交際期間から、ちゃん付けで呼んでいるので、
もとより私は平然としている。
家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』、『XXさん』と名前で呼ばれたりするが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。
こうした時、ご一緒の特に女性グループ方達から、
『あなた達・・いいわねぇ・・』
と笑いながら家内に言ったりしている。
こうしたことは、私はいつもの日常生活で使っているので、
私は戸惑いながら、ご一緒の方達に微笑返しをしたりしてきた。
しかしながら定年後の年金生活を始めてまもない頃、私は平素の買物の専任者となり、
スーパーなどで買物して、自宅に戻ると、この中のひとつが購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』と家内は笑いながら、私に言った。
この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりする時もある。
こうした中で、私は連れ合いをワイフとかパートナーと呼ぶのは、
何となく違和感を感じているひとりである。
こうした根底には幼年期に農家の児と育てられ、少なくとも日本男児のひとりであるので、
私としては、欧米文化の日常生活のふるまいに何かと苦手となっているのである。
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