夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

女性のための老子の名言を知り、老ボーイの私でも、確かにそうですよねぇ、と微笑み・・。

2015-09-15 11:42:39 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの身であるが、
昨夜のひととき、私が愛読しているPHP研究所の基幹サイトのひとつの
【PHP Online 衆知 】を見たりしていた。

そしてこの中で、【女性のための老子<4>「素をあらわにし、樸を抱く」】と見出しを見て、
どういうことなのょ・・と幼年期から女性に何かと憧憬してきている私は、
恥ずかしながら好奇心が瞬時にあふれて、こっそりとクリックしてしまった・・。

やがて記事を読み終わった後、つたない半生を歩んできた私は、
確かにそうですよねぇ、と微笑んだりした。

この記事の原文は、『PHPスペシャル』2015年9月号に掲載された記事のひとつで、
連載されている『女性のための老子』を道家<道>学院の早島妙聴(​はやしま・みょうちょう)副学長が寄稿され、
ネットに2015年07月12日に公開して下さった文であり、無断ながら転載して頂く。
          

《・・素をあらわにし、樸〈ぼく〉を抱〈いだ〉く
     ===>ありのままに素朴なのがいい

☆あなたらしく生きる

さあ今回も、女子の柔軟さこそすばらしいと説いた人類の名著『老子』の言葉から、
人生が幸せに楽しくなる生き方の秘訣つをお話ししたいと思います。

今月は老子第19章、「素をあらわにし、樸を抱く」です。
本当に住みやすい世の中とは、簡単に言えば、
すべてのものが、その個性を大切にし、ありのままに暮らしているような世の中だと教えているのです。

私たち女子も、それぞれ気の強い人、優しい人、まじめな人など、個性はさまざまですが、
その個性を生かして自分らしい人生を生きるのが、幸せになる秘訣なのです。

同僚のK子さんは、頭も良く、美人でスポーツ万能、もうとても私なんか比較にならない、
なんてちょっと気弱になっているあなたは、ぜひいっしょに考えてみましょう。

他人との比較に、大切なあなたの人生の時を浪費しないで、自分らしく、ありのままに生きることです。


☆比較をやめよう

私たちは学校に入ってからずっと、容姿や、成績や、人気など、
人との比較によって、自分の価値を計ってきたのかもしれません。

ですが、老子はそんな考え方を否定し、自分らしくありのままが最も良いと言っているのです。

樸〈ぼく〉を抱く、の樸は原木のことで、それぞれの木の持つ本来の姿が大切なのです。

頭も良い、美人のKさんと同じになる必要はないばかりでなく、
あなたには、あなたらしいあなたにしかない魅力が必ずあるのです。
おしゃれも、仕事も、趣味も、本当に楽しいと思えるものを選ぶことです。

さあ、人との比較で落ち込んでいた時間を、今日から自分磨きに使いましょう。
そして、あなたがすなおに、自分を活かして頑張っている時、それが最もあなたの輝いている時だ
ということを忘れないでくださいね。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は読み終わった後、古代中国の哲学者であり道教創案の中心人物の老子(ろうし)は、
やはり男女問わず、若き人もシニアの方でも、この一節を見ても、共通される教訓と感じたりした。

人は誰しも、それぞれ生を受けた環境も違い、その後に育った状況、学歴、その後の社会人として職業、結婚生活・・、
やがてシニア世代となり、それぞれの生活をしていて、誰ひとり同じ人生航路を歩んできた人はいない。

その上、人それぞれ思考、信条、性格なども違うし、この広い世界で同じ人はいなく、
男性グループのSMAPの唄った『世界に一つだけの花』のような存在なのである。
                   

私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉の秋に大学を中退して、
アルバイト、契約社員をしたりして映画・文學青年の真似事を奮戦したりしたが、
やがてあえなく敗退した。

そして、やむなくサラリーマンに転身し、何とか大企業に中途入社する為に、
苦手な理工系のコンピュータの専門学校に一年ばかりソフトコースの学科を専攻して学び、
この後、知人のご尽力もあり、この当時としては、ある大手の音響・映像メーカーの会社に、
何とか中途入社できたのは1970年(昭和45年)の春であった。

そして音楽事業本部に配属されて数ヶ月した頃、
この中のひとつの大きなレーベルがレコード会社と新設され、
私も新たな外資系のレコード会社に転籍の辞令を受けたりした。

もとよりレコード会社の多くは中小業であり、時代の景気に翻弄されたりし、
幾たびの障害レースのようなリストラを何とかくぐり抜け、
情報畑、管理畑などに勤めたりした。

そして2004年(平成16年)秋に35年近く勤務し定年退職したが、
この最後の5年半は、リストラ烈風の中、はかなくも出向となったりした。

出向先は、各レコード会社がCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流会社で、
不馴れな職場で、自分の敵は自分です、と自身を叱咤激励したりした。

そしてリストラ烈風が加速される中、先輩、同僚、後輩の一部は、やむなく退職を余儀なくされ、
私は何とか定年退職を出向先で迎え、敗残者のようなサラリーマン航路を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、
一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などで、38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、
私は遥かに遠い存在である。
          

そして私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
第二の人生は身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。
          
                                            
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
        
2004年(平成16年)の秋、年金生活の当初は、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。

そして独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
                

そして私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
                                               
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。

定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すことは天敵と思いながら、
平素の買物専任者を自主宣言したのであった。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。

しかしながら実際は日常生活の中で、ときおり私が失敗事をしたりすると、
平素は『あなた・・』と呼ばれるのに、
『ボケチンねぇ・・』と家内から微笑みながら私に苦言される時もある。

こうした中で、私は66歳の時に糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
食事の改善とひたすら歩いて、何とか克服してきたので、
糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、ひたすら歩くことが多くなっている。
                                                          
     
この後の大半は、居間で過ごしたりすることが多く、
何かと随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。

新聞は『読売新聞』を40年近く購読しているが、気になり記事を更に深く知りたい時は、
総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】などに縋(すが)り、
多々教示されている。

ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。

或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚からCD、DVDなどを取りだして、聴いたりしている。
                     

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
                                      

こうした中で、ときおり我が家の小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。

私たち夫婦は、子供に恵まれなかった為か、新婚時代から幾たびか旅路を重ねてきた。
現役サラリーマン時代は、殆ど2泊3日ぐらいの日程であったが、
年金生活を始めると日程の制約から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなっている。

                          
年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
                                      

こうした60代の中で、多くの退職された方たちも同様と思われるが、
過ぎ去る年の会社時代の先輩、同僚、後輩たちの集いより、
家族の団欒はもとより、孫の世話で・・自身の病院の治療、或いは親族、親戚関係の冠婚葬祭が優先となっているのが、
私の周囲には多くなっている。
   
こうした中で、私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。

或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
何よりも思いがけないことは、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
                 

やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、昨年の9月に古稀と称せられる70歳になり、
家内も12月に高齢者入門の65歳となり、お互いに介護保険を支払う無職高齢世帯となった。
       

いつの日にか私たち夫婦は、片割れとなり、残された方は『おひとりさま』となるが、
果たして・・と年に数回は思案したりしている。

しかしながら私は何とか60代を大病もせず卒業できたが、
不幸にも知人の病死、大病で入退院している友人を思い重ねれば、涙を浮かべたりしてきた。
          

私はゴールデン・イヤーズと称される60代を昨年の9月に卒業して、
私としてのこれまでの10年は、我が人生として最も安楽な期間を享受できたりしてきた。

そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人と話し合ったりすることが多い。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

そして悲嘆の出来事に遭遇しても、やがて落胆してばかりでは解決にならないので、
プラス思考に転じて、これまで過ごしたりしてきた。
                               
    
私たち夫婦は、この先いつまでもささやかな生活が続くわけでなく、いずれ片割れになる・・。
このような思いを重ねたりして、歩く時もある。

そして今回の老子の名言、《あなたらしく生きる》、そして《比較をやめよう》は、
確かにそうですよねぇ、と人生の哀歓を少し知っている私は、微笑んだれしている。

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昨今、1代限りの「樹木葬」に人気が集中すると知り、私は深く共感を深めて・・。

2015-09-14 07:08:38 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、生家も近く、
結婚前後の5年を除き、私自身としては、この地域に65年ばかり住んでいる。

私の生家は長兄が実家として継いで、確か18代目となって、祖先代々からの位牌などのある仏壇を守り、
お墓は実家から徒歩で20分ばかり小田急線の『狛江』駅から
数分歩いた所の寺院の広い墓地の一角にある。

私たち夫婦も、母の命日、春のお彼岸、夏のお盆、秋のお彼岸に、
長兄宅に寄って仏壇にお線香を捧げた後、長兄夫婦、来宅している叔母、親戚の方たちと談笑したりした後、
お墓参りに行ったりしている。

私は農家の三男坊として生を受け、分家のような形で実家の近くに住んでいるが、
生家のお墓の近くに墓地を買い求めることは、私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなかったので、
一代限りとなるので、私たち夫婦が亡くなった後のことを配慮し、躊躇(ためら)ってきた・・。

何よりも長兄の子ども、私にとっては甥っ子となるが、後々も迷惑、負担をかけたくない、
と漠然と思ったりしていた・・。
                                                  

私が40歳を過ぎた頃の1985年(昭和60年)の2月、
亡き小説家・立原正秋の作品のひとつに描かれた信州の別所温泉に、私たち夫婦は1泊2日で訪ねた。

私がこの当時何かと愛用していた国鉄(現在・JR東日本)『L特急』で、上野駅から上田駅まで利用した後、
上田電鉄の別所線に乗り換え、かぼそい2両連結の電車で終点の別所温泉駅に行ったりした。

もとより別所温泉地域は、鎌倉時代には周辺の塩田平地域を本拠とした塩田北条氏が、
建立による国宝八角三重塔を有する安楽寺や北向観音が創建され、
やがて近代に至って北条氏とのゆかりや神社仏閣が点在する塩田平・別所界隈の様子を鎌倉になぞらえ、
「信州の鎌倉」と称せられるようになった地である。

私たち夫婦は、秘かに木造建築の美の結晶のひとつであると私が深く感じた旅館『花屋』に宿泊し、
周辺の名所を散策したりした。

あるお寺を散策していた時、お寺の隣あわせに里山を切り開いたように、
緩やかな傾斜のある広大な墓地があり、お花が数多く飾られ、お線香の煙がたなびいていた・・。

その外れに松林のゆったりした丘があり、ここに数多くの墓石が転がっていた。
人が訪ずれた形跡もなく、墓石に松葉が音もなく舞い降り、
苔に覆われた墓石が横たわっていたり、松の葉で埋もれかけた墓石もあった。

こうした無縁の墓地に、木漏れ陽が地上を彩(いろど)っていた。

私は、人が土に還える、とはこのような事だろう、と思案したりした。

こうした思いから、通常のお墓でなく、無縁仏に近いことを考え始めた・・。
                  

その後、10年過ぎた頃、岩手県のあるお寺で樹木葬を知り、
これだったら土に還える、と納得しながら、家内に言った。

『俺が先に死んだら・・花巻温泉で静養し、気が向いた時でいいから
・・・お墓には寄ってくれればよい』

お墓といっても、里山に墓石もなく、私たちの好きな樹木のひとつがあるだけである。
          

このように私たち夫婦は、お墓は樹木葬と決め、
確か7年前の頃に伊豆大島にも樹木園ができた、とか学んだりしてきた。

或いは我が家からバスと電車を利用して、一時間ぐらいの地域に、広大な墓地の一角に、
畳一畳より少し小さ目の墓地で、たった一本の樹木が植えられ墓地の販売区画で永代供養墓と知った。

そして永代使用権、永代供養料、永代管理料などを一括納入すれば、
いつの年か片割れの残された方が、体力の衰えた身であっても、お墓参りが出来る、と思ったりしてきた。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、一代限りの身の為か、
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花を中核に洋花も配し音楽に包まれて、
出来うる限り質素にして貰いたい、とここ10数年言ったりしている。

そしてお墓は要らず、死者は土に還る、という強い思いがあるので、
樹木葬のある墓地の里山に埋めて頂きたい、と私は独断と偏見である。
その後、四十九日の納骨が終われば、
何らかの雑木の下で永久に安らかに眠る、という考えの持ち主である。

そして残された人は、旅行か何かの機会に時、気が向いたとき、お墓参りをしてくれれば良い。
数年に一回でも良いし、或いはそのままお墓参りなどしなくて、
ご自分の余生を楽しんだ方が良い、と私たちは話し合ったりしてきた。
          

こうした心情を秘めた私たち夫婦は、樹木葬の墓地を漠然と思案してきたが、
私はまもなく71歳、家内は65歳となっている今、お互いにボケないうちに、
今年こそ墓地を確定しておこう、と決意したりした。

そして現在も、墓地を探し求めて検討しているのが、家内の母の病状が悪化し、
少し延期になっているが、私たち夫婦の昨今の実情となっている。
          

昨夜のひととき、週に2回ぐらい愛読しているビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』の基幹サイトで、
【なぜ、1代限りの「自然葬」に人気が集中するのか】と見出しされた記事を偶然に見て、
改めて謙虚に学ぼうと思い、クリックして読んだりした。

この記事の原文は、『PRESIDENT 』の2014年10月13日号に掲載された記事のひとつで、
『PRESIDENT 』の基幹サイトに2015年9月13日に配信され、
葬儀相談員の市川 愛さんの助言を受けて、久保田正志さんが寄稿文され、無断てあるが転載させて頂く。

《・・亡くなる人は増えるが、後継ぎは減る。
社会の急速な変化にあわせて、介護、葬式、墓の常識は今、ここまで激変した! 

【QUESTION】
1代限りの「自然葬」になぜ人気が集中するか? 

墓石の代わりに樹木を墓碑として遺骨を埋葬するのが「樹木葬」。
岩手県一関市の祥雲寺が1999年(平成11年)に始めた樹木葬墓地が、日本で最初とされている。
その樹木葬が、このところブームといえるほどの人気を博している。

同じ自然葬の一種に、粉末化した遺骨を海上や山林に撒く「散骨」がある。
散骨は1990年代からぽつぽつと行われるようになったが、こちらは一般化しているとは言い難い。
樹木葬との違いは、「手を合わせて拝む対象がない」(葬儀相談員 市川さん)ということだ。

また、墓地以外の区域に遺骨を埋めてはいけないとする「墓埋法(墓地、埋葬等に関する法律)」に照らせば、
散骨という行為はグレーゾーンにある。

一方、樹木葬の場合は、自然の山林に散骨するのではなく、
法律上の許可を得た墓地に遺骨を埋葬する形である。
          

樹木葬のやり方はいくつかのパターンに分かれる。
大別すると、
(1)遺骨を埋葬するたびに1本の苗木を植えるスタイル、
(2)墓地の中央に樹木を植え、その周辺に多くの遺骨を埋葬するスタイル、
の2つである。

(2)に関しては、樹下のプレートに名前を刻む「個が残る」形の埋葬のほか、
散骨と同様に遺骨を粉末化したうえで、一人ひとりの名前は出さずに
木の下の地面に埋める「個が残らない」形の埋葬がある。

場所もさまざまだ。
地方のお寺などが、自寺で所有する山林を墓地として登録し、そこを樹木葬の場とするのが里山型。
都市近郊の墓地で、敷地の一部または全部を樹木葬の区画にあてるのが都市型である。

最近開発された墓地には、必ずと言っていいほど、樹木葬のための区域が設定されている。
公営墓地も例外ではない。
          

2012年(平成24年)、東京都立小平霊園の樹林墓地が埋葬希望者を募ったところ、
第1回募集の倍率が平均で16倍を上回った。
人気が高いと言われる都立霊園だが、一般墓地の倍率は7~5倍ほど。
それと比べても樹木葬の人気は破格である。

また、小平霊園の一般の墓地は、1区画145万~484万円とかなり高額なのに対し、
樹木葬では、遺骨を粉末化した場合で4万3000円、粉末化していない場合で13万1000円。
この低価格も魅力である。

市川さんによると「散骨や樹木葬に関心が強いのは、主に後継ぎがいないシニア層。
お墓を建てても自分の死後に管理してくれる人がいないので、
1代限りでなくなってしまう埋葬のやり方に関心が向くのでは」という。

それだけではない。
「夫や姑と同じ墓に入るのはイヤ」と言い切る女性は少なくない。
「家」単位で葬られる伝統的な墓ではなく、樹木葬や散骨によって、
安らぎを得たいという人は今後ますます増えるのではないか。

【ANSWER】
熱望する奥様族の本音は「一緒のお墓に入りたくない!」・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くし、和暦を付加した。
          

今回の記事を読ませて頂きながら、
やはり《・・散骨や樹木葬に関心が強いのは、主に後継ぎがいないシニア層。
お墓を建てても自分の死後に管理してくれる人がいないので、
1代限りでなくなってしまう埋葬のやり方に関心が向くのでは・・》
瞬時に、そうですよねぇ、と私は深く同意されられたりした。

しかしながら、《・・熱望する奥様族の本音は「一緒のお墓に入りたくない!」・・》
ご夫婦で幾歳月に及び寝食を共にされた奥様と思われるが、とうしてなょ、と私は苦笑したりした。

そして夫婦だけが語り合える、信頼できる会話が少なかったかしら、と余計なことを思い、
微苦笑させられたりした。


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老ボーイの私、『星にお願い』の今週の運勢を見て、私は幸運かしら、と微笑み・・。

2015-09-13 09:35:44 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活のまもなく71歳になる老ボーイの身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後36年が過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、私はいつものように配達された読売新聞の朝刊を読んだりした後、
やがて付録のような『よみほっと』と称された日曜版を見たりしていた。

この後、6面にある『星にお願い』と題された今週の運勢(9月13日~9月19日)が掲載され、
齢ばかり重ねた私でも、こっそりと読んでしまった・・。

私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
恥ずかしながら私は『てんびん座』の固定長であることを、生れて初めて家内から学んだ。

これ以前は、もとより地球は回転し、天空の『いて座』、『おとめ座』、『かに座』などの星座も動くので、
私は9月27日生まれであるので、その時により今月は『いて座』になったり、来月は『おとめ座』に変わると、
漠然と思ったりしてきたりした。

このような思ったりしていたので、定年後まもない時、
『XXちゃんさぁ・・今回も僕の場合は、『てんびん座』になっている・・』
と私は家内に言ったりした。

『あなたぁ・・よくも35年も会社に勤められたわねぇ・・
あなたの場合は『てんびん座』で、一生変わりませんわょ・・』
と家内は、驚きながらあきれた表情で、珍しく私に断言した。

『そぉなの・・』
と私は生まれて60歳で恥ずかしながら初めて知り、これ以来私は星座に関しては公言をためらってきた・・。
                    

このように何かと無知なことの多い私は、宇月田麻裕(うつきた・まひろ)氏が心身込めた今週の運勢で、
『てんびん座』の欄を読んでしまった。

《 過去のトラウマよりも未来が大事。
過去の体験を役立てていけるならOK 》と明記されていた。
       

私は微苦笑しながら、私は定年退職するまでの半生は何かと劣等感があり、屈折の多い人生だったので、
八百万(やおよろず)の神は、哀れな男ょと感じて、
60代の年金生活を安楽に過ごせるように采配して下さり、私なりに享受してきた。

定年後の年金生活は、何かしらプラス思考が増して、
亡き母の遺伝を素直に受け継いだ為か、男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人と話し合ったりすることが多い。

そして私はゴールデン・イヤーズと称される60代を昨年の9月に卒業して、
私としてのこれまでの10年は、我が人生として最も安楽な期間を享受できたりしてきた。
          

そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

このような老ボーイの私は、今週の運勢を見て、明るい未来が待っているよなぁ、
とプラス思考の私は、微笑んだりしている。

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東京の調布市に住む私、今朝は震度5弱の地震で目覚めて、やがて微苦笑して・・。

2015-09-12 08:16:30 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活のまもなく71歳になる身であるが、
二階の寝室で布団の中で、まどろんでいた・・。
まもなく地震のような揺れを感じ、何かと鈍(に)ぶ児の私でも、地震だ、強く揺れるよなぁ、
と思いながら、はっきりと目覚めて、しまった。

数分足らずで揺れは収(おさ)まったので、布団から抜け出して、
やがて一階に降り立ち、洗面して雨戸を開けた後、NHK総合テレビニュースを視聴していたら、

《・・東京都で震度5弱
12日午前5時49分ごろ、東京都で震度5弱の強い揺れを観測する地震がありました。
この地震による津波の心配はありません。

震度5弱の揺れを観測したのは東京・調布市です。

震度4の揺れを、さいたま市北区、千葉県木更津市、東京・千代田区、横浜市中区など、
埼玉県、東京都、千葉県、神奈川県の各地で観測しました。

気象庁の観測によりますと、震源地は東京湾で、
震源の深さは70キロ、地震の規模を示すマグニチュードは5.3と推定されています。・・》
このように報じられていた。
                              

そして私は、老朽化した我が家の部屋の中を点検すると、
押し入れの中に積んでいたトイレットペーパー12入っているロール状を4つ保管しているが、
これが崩れ落ちていたので、微苦笑したりした。

これ以外、震度5弱でも被害はなく、安堵したりした。

まもなく我が家の上空付近で、何機か解らないけれどヘリコプターが飛行する音が、
盛んに響いてきた・・。
そして私は、ぼんやりと警察、消防の関係の方が、被害状況を確認して下さる為に、
上空から視察している、と思ったりした。

この後、NHK総合テレビニュースに於いて、
トップニュースとして、東京都で震度5弱 、報じていて、
調布市の中核である京王線の調布駅の状況が映し出されたりした・・。

そしてNHKヘリコプターから、市街地、そして中央高速道路のロータリ状況を映し出されていた。

やがて私は、全国放送であるNHK総合テレビのトップニュースに於いて、
私が65年ばかり住んでいる調布市は、
今年は7月26日に調布飛行場で小型飛行機墜落事故以来で、二度目かょ、と微苦笑した。

もとより地震は天災であり、小型飛行機墜落事故は人災であるが、
こうしたことで、我が調布市は有名にならないでねぇ、と無力な私は微苦笑している。


尚、我が家は電気は東京電力、電話はNTT東日本であり、異常はなかったが、
カスは東京ガスより供給を受けているので、震度5強相当以上の揺れを感知した時は、
ガスメーターが自動的にガスを止まるので、私は簡単なガスメーター復帰を行ったぐらいである。


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台風の長雨の後、ときおり『おひとりさま』の私は、青空の中を遊学すれば・・。

2015-09-11 16:23:23 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後36年が過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

家内は昨日より3泊4日で家内の宅に行っているで、私は『おひとりさま』の生活となっている。
過ぎし5日より、秋雨前線と台風18号がもたらした長雨が続いていたが、
今朝は久々の快晴となり、太陽の恵みに感謝だよねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら微笑んだりした。
          

やがて朝食はいつも通りスライスしたタマネギと生ワカメを和えた前菜を
ミッカンぽん酢とお醤油をかけて、大きな皿に盛大に食べたりした。

そしてご飯は前日に一合ばかりのお米を洗い、
五穀米を加えて電気炊飯器で炊き上げた半分ほどを、
ラップに包んで冷蔵庫に保管してあったのを電子レンジで温めたりした。

そして味噌汁は、この世で最も手軽なインスタントのワカメの味噌汁とした後、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、焼きノリ、シャケの瓶づめを友として、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の代表とされる『一汁三菜』の真似事をした。

こうして頂いている中、私は幼年期に農家の児として育ったので、
これが飽(あ)きたら日本人はやめるょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。


やがて10時過ぎに、スーパーで買物と本屋に寄る為に、駅前に向かおうと思ったが、
青空の中、少し遠回りの川沿い遊歩道を歩いたりした・・。
          

やがて30分ばかり歩き、駅前の近くに出て、最優先として本屋に向かった。
          

私は昨日発売の総合月刊雑誌の『文藝春秋』(10月号)、『中央公論』(10月号)を
本降りの雨だった為に、遅ればせながら本日買い求めたりした。

この後、店内をうろつき廻り、二冊ばかり購読することにした。

一冊目は、藤田孝典(ふじた・たかのり)さん・著作の
『下流老人~一億老後崩壊の衝撃』(朝日新書)の新書版であり、
昨今の話題作であり、やはり年金生活の私としては、切実な今後の難題となるので、
読んでみたかったのである。
             

あとの一冊目は、敬愛している佐々淳行(さっさ・あつゆき)さん・著作の
『私を通りすぎたマドンナたち』(文藝春秋)の単行本であった。

この本に関しては、過ぎしり『文藝春秋』(7月号)に於いて、
『2025年「老人大国」への警告』を課題として、石原慎太郎さんと対談された中で、
本書を知ったりした。

そして怜悧な視線もある佐々淳行さんが、人生の中でお逢いした塩野七生、櫻井よしこ、
曽野綾子、緒方貞子、阿川佐和子、各女史をどのような思いで描かれるか、
私としては興味があり、買いそびれた一冊であった。
            

この後、私は4冊入った袋を提げて、スーパーに向かった。

この時間帯は、私と同様な高齢者が多く、或いは幼児を連れた若きママで、
賑わっていた。

そして私はバナナ、セロリ、キュウリ、焼き豚、パンなどを買い求めて、
やがてレジ後方にある処のテーブルで、購入した品を頂いたレジ袋に入れている時、
前にいた幼児の3歳ぐらいの女の児が、私を見つめて微笑んだりしていた。

私は日頃は明るく公明正大に大きな声で近所の奥様たちと談笑していると、
貴方は演歌歌手の吉幾三(よし・いくぞう)さんに似ているわ、と言われたりしているが、
私は何かしら、うら若き中学生から20代までの女性は苦手である。

こうした思いを秘めているので、今回の女の児も可愛らしいしぐさをするので、
私はにっこりと微笑返しをすると、女の児は微笑んだりしていた。
そして、そばにいた若きママが、御免なさいねぇ、と私に会釈した。

まもなく私は立ち去ろうとすると、女の児は私に手を振り、
私も少し手を挙げて去ったりした。

やがて私は手荷物が重く感じながらも、雨上がり快晴なので、部屋を開け放して風を通さねばと思い、
異例であるが路線バスに乗車した。

そして自宅の近くの情景を記念ねぇ、と思いながら撮ったりした。
          

やがて帰宅し、部屋に風を通した後、高校生より文愛人の私は、
買い求めた4冊の本、どれから読もうかしら、と微笑んだりしている。

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私たち夫婦、そして家内の母、終末期を思案して、溜息を重ねて・・。

2015-09-10 13:15:01 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後36年が過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は9月下旬の誕生日を迎えると71歳となり、
家内も12月下旬の誕生日を迎えると66歳となる。

私たち夫婦と同様な夫65歳以上で妻60歳以上の2人暮らしで共に無職と称される『高齢夫婦無職世帯』は、
総務省の2013年(平成25年)に於いて、ひと月当たりの収入は、公的年金を入れて21万4863円、
支出は27万2455円、そして赤字は5万7592円、と公報されている。
          

こうした中で、60歳以上の家庭は、89%が持ち家と報じられ、
昨今は自宅を担保を高齢者家庭は融資を受けられる『リバースモーゲージ』が活用されている、
と最寄の銀行の担当者から、ここ7年前頃から私たち夫婦は聞いたりしてきた・・。

『リバースモーゲージ』は高齢者が戸建て(一部地域はマンションも適用)の自宅を担保にした年金制度の一種でありた、
自宅を所有しているが現金収入が少ないという高齢者世帯が、
住居を手放すことなく収入を確保するための手段として用いられる。

自宅を担保にして銀行などの金融機関(一部の都道府県の社会福祉協議会)から生活資金を借金をし、
その借金を年金という形で受け取る。
受け取る金額は年月と共に増える借金が死亡時に、自宅の評価額と同じになるように調整され、
死亡時に金融機関が契約者の自宅を引き取る。

もとより貯金などで返済できれば、自宅を売却せずに済む。

リスクとしては年金が満額になる時点を越えて長生きする、と説明を受けたりしてきた。
          

我が家の両親は、私の父は私が小学2年の時に病死され、母は私が54歳の時に病死し、
家内の父は私が定年退職時の2004年〈平成16年〉の秋の少し前に、病死されたので、
家内の母だけとなっている。

独り住まいとなった家内の母は、千葉県の八千代市に一戸建てに住み続けて、
年金を頼りに程ほどの貯金を崩しながら、おひとりさまの生活をしている。

確か6年前の頃だったと記憶しているが、
年金は月平均14万円前後で貯金を少しづつ崩しているが、長生きを考えると心ぼそいわ、
とこのような意味合いの言葉を、長女の私の家内に言った。

そして私は家内から聞いて、毎月少し融資を受けられる『リバースモーゲージ』を本格的に調べて、
やがて家内は孤軍奮戦して、家内の母の住む八千代市の社会福祉協議会より、
家内の母は、毎月3万円の融資を受けている。

この間、社会福祉協議会より一戸建ての査定をして、相場の70%前後の融資総額となり、
家内の母の相続人の長女の家内、そして次女などの承諾書を提出したりしてきた。

家内の母は、家内に、お父さんの遺(のこ)された一戸建て・・私の老後で喰いつぶしてしまうけれど、
とこのような意味合いの言葉を家内に言った、と後日に私は家内から聞いた。

私は家内に結婚してまもない時に、
お義父(とう)さんとお義母(かあ)さんが築きあげてきた財産に関して、
どのようにお使いになっても、僕は関係ないょ・・と私は家内に言ってきた。

こうした私の根底には、私が結婚する時、私の母から、
男子(だんし)たる者は、奥さんの実家の財産をあてにするのは、最低の男だからねぇ、
と私は叱咤激励されたので、もとより家内の母のいつの日にかの遺産は、あてにしてこなかった。


やがて家内の母は、年金に毎月3万円頂くので助かるわ、と家内に言ったと、
と私は家内から聞いたりして、悦んだりした。

そして家内の母は、自身の葬儀代にと家内に程ほどの金額を振り込んだ、
と私は家内から聞いたりして、私は微苦笑しながら、
お義母(かあ)さんらしいねぇ、と家内に言ったりした。
                   

家内は、家内の母が独り住まいとなった当初から、
安否を含めて、殆ど毎晩30分前後ぐらい電話連絡をしたりしている。

そして私たち夫婦は年に数回は国内旅行に誘い、
やがて、家内の母の『母の日』には、やはり温泉ね、と要望され温泉滞在旅行が多かった。

家内の母は、平素は女友達のグループで小旅行をしたり、街歩きをしたり、
或いは独りで実家の上越市に訪れたりすることが多い。

この間、やはり後期高齢者の身であるので、内科、眼科、整形外科などに通院してきた。

しかしながら、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で年に4回ぐらい母宅に泊りがけで行っている。

この間、私は『おひとりさま』の生活となっているが、
いずれは私たち夫婦は片割れとなり『おひとりさま』となるので、 特別演習かしら、
と思いながら私は過ごしている。

こうした中、家内の母は4年前の81歳を過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、
杖(つえ)を突いて歩く身となった。

やがて市の福祉課を通して、『要支援2』と認定されて、
市の福祉課からのアドバイスにより、住まいの一部を補修したりしたが、
介護の助成金のお蔭で、たった一割負担で済んだりした。

そして私たち夫婦は、やむなく温泉滞在旅行の代わりと思いながら、
お醤油、ソースなどの調味料、洗剤、雑貨品などの重い品物と感じられる品の数々を、
積極的に宅配便を活用して送付したりしている。
                    

こうして家内の母は、独り住まいとなって早や10年が過ぎているが、
私は家内の母に対して、たったひとつだけ困惑することがある。

年末年始の時節になると、独り住まいの家内の母に年末に我が家に来宅してもらい、
私たち夫婦と共に新年を我が家で過ごした・・。

こうした過ぎし6年前のある日、居間の炬燵に入り、食事をしたり、談笑したりすることが多かったが、
ある時、家内の母が、
『あたし・・やっぱり・・百まで生きたいわ・・』
と呟(つぶや)くように家内に言ったりした。

私は家内の母が100歳になる事は、私は86歳、家内も81歳の高齢者となるので、
これを聞いた私は困り果てて、勘弁してょ、と心の中で思いながら、笑ってごまかしたりした。
          

過ぎし70日前の頃から、家内の母は膝(ひざ)と腰(こし)に悪化を増し、
少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査、そして通院が加わり、
家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなっている。

このような結果として、飛び石のように家内は家内の母宅で料理、洗濯、掃除などで孤軍奮闘し、
この間、私は我が家で『おひとりさま』の生活をしている。


私たち夫婦は、築後36年が過ぎた老朽化した一軒屋に住んでいるが、
このまま住んでいたら、大切な老後資金が減る度合いが少なく済むので、
当面この状態で過ごしたいよねぇ、と私たち夫婦は幾たびか話し合ってきた。

そして、いつ日にかどちらかが足か腰が衰えてきた時、
やむなく自宅を売却して、やはり駅の近にあるマンションのコンパクトサイズを買い求めて、
晩年期を過ごしたい、と思ったりしている。

この後、どちらかが介護を要する身となった時、老人ホームで終末期を過ごした、
と漠然としながらも、私たち夫婦は話し合ってきた。
          

そして問題は、家内の母がこれ以上悪化した場合は、
我が家を大幅に介護に相応しい補修することは、やはり私たちの大切な老後資金を確保したいので、
やむなく家内の母に老人ホームに入居してもらうしかない、と私は思っている。

更に難題なのは、ここ数年に於いて、老人ホームの一部では倒産していることを学び、
私は動顛したりしてきた。

たまたま昨夜のひととき、私が愛読している講談社の基幹サイトのひとつの【現代ビジネス 】を見たりしていたが、
【入居してからでは遅い! 経営が危ない「老人ホーム」の見分け方】と見出しを見て、
精読して、多々教示させられた・・。

この原文は『週刊現代』の2015年9月5日号に掲載された記事であり、
無断ながら記事を転載させて頂く。
          

《・・老人ホームの倒産が増え、私たちの老後の不安が膨らんでいる。
それでは、経営が危ない施設、サービスが充分ではない施設をどう見分ければいいのか。
「ここを見れば分かる」というポイントを見ていこう。

☆運営母体はどこか

介護・福祉系法律事務所「おかげさま」代表で、ホームヘルパー2級の資格も持つ弁護士の外岡潤氏が語る。

「まずチェックしたいのは、介護施設のパンフレットや、ホームページに掲載されている『経営者の理念』です。

たとえば、『たくさんの幸せを集める』といったフワフワしたキャッチコピーを並べているところは、
介護の現実が分かっていない。

逆に『要介護度5でも受け入れる』など具体的だが非現実的な目標を掲げている事業者も、
課題にぶち当たったときに対応できない。

経営者が施設の運営に失敗したり、事業を切り捨てやすいと言えます」

特に気をつけたいのが、施設を運営している母体がどこかということだ。
もともと介護を本業としていない企業は経営に行き詰まったり、サービスが行き届かなかったりすることが多い。

実際に、帝国データバンクが今年3月に発表した資料によれば、
'05年から'14年の間に休廃業・解散した老人福祉事業者の、およそ4割が株式会社で、
もっとも大きな割合を占めている。

それに対して、医療法人・医療法人社団は0・9%とごく僅か。
他にも、社団法人・一般社団法人で1・9%、財団法人が2・1%、
社会福祉法人で2・6%ほどだ。外岡氏が解説する。

「建設会社や葬儀会社、飲食店など、さまざまな業界の企業が介護分野に進出しています。
そのような新規の企業は介護が分かっていない素人集団で、経営も危ない。

一方、たとえば老舗で何店舗も運営する法人であっても、
利用者が日中通うだけのデイサービスを行っていたところが、
新たにはじめた有料老人ホームなどはうまくいかないケースもあります」


福祉問題に詳しいNPO法人「二十四の瞳」代表の山崎宏氏もこう言う。

「不動産系・建設系の会社がオーナーで、介護企業に委託している施設には、
あまり良い印象は持っていません。

その地域で評判のいい医療法人が、自ら運営している施設が一番リスクが低い」

ただ、「同族経営だったり、大病院だと殿様商売になりがち。
クレームが通じづらいというデメリットもある」(外岡氏)ことには注意したい。
          

☆職員の定着率

経営母体の情報を見る時に確認したいのが、あまりに急激に介護事業を拡大していないか。
一時は華やかでも、職員が育たないまま手を広げすぎて、
結局経営に行き詰まるというケースは一般の企業でもよくあることだ。

だが、介護業界ではより一層、常態化している。

職員の定着率は、施設の良し悪しの大きな判断材料だ。
ヘルパーがころころ変わるような施設は避けたいところである。

そこで、念入りに確認すべきなのが、
介護施設に作成が義務付けられている重要事項説明書、通称「重説」だ。

都道府県が各施設に提出させており、誰でもウェブサイトなどで見ることができる。
室数と定員はもちろん、介護職員をはじめとした職員の雇用状況、
職員一人あたりの入居者数などの情報が記されている。

この「重説」のチェックポイントについて、前出の山崎氏が解説する。

「職員の定着率、なかでも有資格の責任者である介護支援専門員(ケアマネジャー)の勤続年数が短くないかを見ます。
ケアマネが長く働いていないということは、
低賃金で、さらに無昇給、有給を取得できないなど、職場環境が芳しくない証拠だと考えていい。

もう一つ確認したいのが入居率。
開設から1年以上経つのに、入居率が50%に満たない場合は避けたほうがいいでしょう」

入居率が低いと採算が合わなくなり、人件費が削られ職員が減り、サービスの質が下がる。
そんな悪循環に陥っている施設は少なくない。

「過剰な宣伝をしたり、紹介業者にカネを払って推薦させている業者も、
その分サービスにカネをかけておらず、入居率が低いことが多い」(山崎氏)

介護施設の採算がとれるのは、入居率8割がメドだと言われている。
「今ならあの施設が空いているから」と飛び込むのではなく、
できれば、8割の入居率を保っている施設を選ぶようにしたい。


また、人材の定着率を判断するための、こんな裏ワザも紹介しよう。

「施設の求人情報を見てください。
ハローワークや就職情報サイトで、時給1200~1500円といった求人が出ている場合、
そんな好条件でないと、人が集まらないということです」(外岡氏)
          

☆退去条件があやふや

契約書でとくに気をつけたいのが「退去条件」だ。
「退去するか否かは、利用者の介護度に応じて、協議の上決める」
といった記載がある場合には要注意。

大まかな条件のまま契約してしまうと、後々のトラブルの元になるからだ。
認知症で徘徊が始まったり、病気で重篤な状態になった場合のことなど、細かく確認したい。

他にも、施設内での転倒やケガへの対処について、
その施設に問い合わせてみるのも一つの手。

事故対応をどうシミュレートしているか。
損害保険はどう設定されているか。
その説明がキチンとされるかで施設の健全さが分かる。

逆に、これらのネガティブな質問に動揺するような施設は、
経営にしてもサービスにしても、「終の棲家」として信頼できない。

もちろん、体験入居を利用しない手はない。
たった1日やそこらで何が分かるのか、と思うかもしれないが、
職員と入居者との会話の様子や、食事、雰囲気、清潔さは、行ってみないとわからないものだ。

できればいくつかの施設を回って比較し、見る目を養いたい。

「施設選びは、目先の入居時だけでなく、
10年後、また最期をどう迎えたいかを考えて行うこと。

日常生活の場なのですから、幻想を捨て、妥協できるところは妥協しつつ、
納得いくまで質問して判断してください」(外岡氏)

人生の大きな決断。後悔のない選択をしたい。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は介護については、遅ればせながら注視してきたので、軽いうちは『在宅』。
少し重くなったら、『サービス付き高齢者住宅』や『有料老人ホーム』。

ただ、月に最低20万円はかかるから、ここにいる間に、
『特別養護老人ホーム(特養)』や『介護老人保健施設(老健)』に移れるよう押さえておくが、
懸命であると学んだりしてきた。

しかしながら『特別養護老人ホーム(特養)』は、介護に要する負担金は少なく済むので、
少なくとも52万人の待機者いて、
原則的として要介護2以下の人は、入居しにくくなっている、と学んだりしてきた。

『サービス付き高齢者住宅』は、入居条件は60歳以上であることだけで、
要介護度に関係なく誰でも入れる上に、要介護・要支援認定を受けていれば、60歳未満でも入居が可能。

館内および部屋はバリアフリーで、日中は館内にケアの専門家の職員が常駐して、
安否確認と生活相談のサービスを提供する。

ただし、サービス付き高齢者住宅は、介護や食事、健康管理などのサポートはセットではなく、
あくまで高齢者向けの賃貸住宅である、と知ったりした。

そして介護や食事、健康管理などのサポートはセットではなく、
必要に応じて介護事業者を自分で選んで契約する形になる。

そして『有料老人ホーム』であるが、月に最低20万円は要すると学んできたので、
更に手厚い介護を受ければ高額となり、私は溜息を重ねたりしている。
          
そして私は何とか自立して生活できる『要支援』の範疇で、
この世に別れを告げたいと念願しているが、
もとより自助努力も肝要であるが、こればかりは天上の神々の采配に寄ることであり、
漠然としながら私たち夫婦、そして家内の母、終末期を思案したりしている。

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ブログ11年生の私、やむなく書くことを避けてきた事項は・・。

2015-09-09 12:18:39 | ささやかな古稀からの思い
私はある民間会社に35年近く勤めて2004年(平成16年)の秋に定年退職後となり、
多々の理由で年金生活を始め、早や11年目となり、まもなく71歳となる身である。

私は年金生活をしていると、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどが、心の叫び、思いがあふれ、
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして私は、ブログの世界を知って丸10年が過ぎて、早や11年生となっている。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
          
                                                                   
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

そして人誰しも、この人生航路を歩み中で、光と影を有しているが、
つたない私でも光と影があり、特に暗く影のことも、私自身、家庭、或いは生家の事柄に関しも、
このサイトにためらいながら、マイナスと称される影も私は描写してきた。
          

しかしながら私は、どうしても表現できないこともあったりした。
このことは私の人格さえも問題視されることであり、感情と理性の間を往還しながら、
ためらいながらも結果としては綴れなかったことがある。

たとえば、皇室の問題であり、天皇陛下、皇后陛下には限りなく敬愛を深めているが、
肝要の皇太子殿下、妃殿下のご夫妻の言動に、ときおり憂(うれ)いを感じたりしている。

或いは私の勤めた音楽業界のあるレコード会社に35年近くの中で、秘めたる事柄は数多くあるが、
守秘義務もないが、退職後の11年を過ぎた今でも、心の礼節として綴れない。

やはり社会人として、遅ればせながら25歳で中途入社できた時から、
何かと上司、先輩、同僚、後輩、知人のたゆまぬ激励と支援の中で、定年退職時まで、
奮闘できたことであり、今でも感謝している。

このような思いで、もとより社員と経営者、株主の結晶である会社にも感謝しているので、
秘めたる悪しきことは、心の礼節としてできない。

そして格差の問題は歴然として、この世の中に各分野に露呈している現実があるが、
特に生活保護の難題は、綴れないのである。

或いは社会を震撼させる卑劣な悪質な犯行する方は、もとより非国民の言動あり、
たとえ日本は法治国家であっても、性善説を捨てて性悪説の基で、
法務大臣の特例で、絞首刑が妥当と思っている。
          

このようなことを思いを秘めているが、こうしたことを綿密に投稿文で綴れば、
もとより私の人格さえも問題視されることであり、小心者の私は書けないでいる。


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「普通のサラリーマン」だった人でも、老後は破産した人を学び、私は涙を浮かべて・・。

2015-09-08 14:11:10 | ささやかな古稀からの思い
私は2004年(平成16年)の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職後、
多々の理由で年金生活を始め、早や11年目となりまもなく71歳の身であり、
家内は私より5歳若く65歳となっている。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、 程ほど貯金を取り崩しながら、ささやかに過ごしている。

昨日の深夜、私が愛読している講談社の基幹サイトのひとつの【現代ビジネス 】を見たりしていたが、
【「老後破産」200万人の衝撃第1部
 「普通のサラリーマン」だった私は、定年からたった10年で破産した】と見出しを見て、
サラリーマンだった身であり、切実な思いで読み、やがて読み終わった後、涙を浮かべた・・。

この原文は『週刊現代』の2015年10月11日号に掲載された記事であり、
無断ながら記事を転載させて頂く。
          

《・・——長生きなんか、するんじゃなかった

人生の最期を悲惨な状態で迎える人がいま急増している。
なぜ、どのようにして人は破産してしまうのか。
厳しい老後破産の現実はあなたも無関係ではない。


★妻の病をきっかけに

「なんでこんなつらい思いをしてまで、長生きしなきゃいけないんでしょうか」

着古したジャージに身を包んだ香川庄治さん(仮名/71歳)は、嗄れた声を絞り出し、こうつぶやく。
6年前に妻を亡くしてから、神奈川県の自宅でひとり「亡骸」のような日々を送っているという。

「家事は妻に任せきりにしていましたから、彼女が亡くなってからも自分で炊事することはありません。
食事は日に一食。夜にスーパーで半額になる弁当を買うか、チェーン店の牛丼を食べに行くのが日課です。

近所付き合いもないですし、毎日することは何もない。
家に閉じこもり、テレビを眺めて一日が過ぎていきます。
こんな惨めな生活をしているなんて、誰にも言えません。
親戚にだって、無用な心配をかけたくないので、連絡を取らなくなりました」

大学を出て、食品メーカーに38年間勤務し、60歳で退職。
一人息子は同居している。
定年後は、妻と穏やかな老後を送ろう—そう思っていた。
当時の貯金は、退職金もあわせて約3200万円。だが現在、貯金は底をついている。

「定年してから半年後、妻にがんが見つかったんです。進行した乳がんでした。
手術しましたが、すでに全身に転移してしまっていた。

現役時代、私は家庭を顧みず、すべて妻に任せて働いていました。

これからは楽をさせてあげようと思っていたんです。
だからこそ、何をしてでも元気になってほしかった。
病院を転々とし、最新の放射線治療も受けました。
それに漢方や健康食品など、身体にいいと聞いたものは何でも試した。

彼女が自力で歩けなくなってからは、300万円出して車椅子を乗せられるワゴン車を買い、
がんに効くと言われる温泉にも連れて行った。
けれど結局、闘病の末に亡くなったんです」

妻の命のために、カネを惜しむという選択肢はなかった。
がん保険には入っていなかったため、3000万円という貯金額は、
6年間でみるみるうちに目減りしていた。

気づいたときには、もう「手遅れ」。現在は月14万円の年金だけで生活している。

「実はウチには、40代になる息子がいて、うつ病を患って会社を辞めてから、
家に引きこもっているんです。
私の年金だけでは暮らしていけない。

少々具合が悪くても、病院にも行けません。
検査なんかしたら、絶対悪い病気が見つかるに決まっていますから。
毎日、目が覚めるたびに気が重くなります。

何度も死のうと考えましたが、息子がいますし、
天国の妻がそれを知ったら悲しむだろうと思って、必死で生きている状態です」
          

悠々自適な老後を送れるはずだったのに、
気がつけば、想像だにしない厳しい現実と向き合わざるを得ない。

香川さんのように、破産状態に陥る高齢者がいま急増している。

9月28日に放映されたNHKスペシャル『老人漂流社会〝老後破産〟の現実』では、
「生活保護水準以下の収入しかないにもかかわらず、保護を受けていない」
破産状態にある高齢者の現状を「老後破産」と呼び、特集を組んだ。
番組を制作した板垣淑子プロデューサーが語る。

「少子高齢化が進み、年金の給付水準を引き下げざるを得ない一方、
医療や介護の負担は重くなっています。

自分の年金だけを頼りに暮らしている独り暮らしの高齢者の中には、
崖っぷちでとどまっていた人たちが、崖から転げ落ちてしまう、
いわば『老後破産』ともいえる深刻な状況が拡がっています」


いったい破産世帯はどれくらい存在するのか。河合克義明治学院大教授が語る。

「私たちが実施した東京都港区と山形県における調査では、
生活保護基準よりも低年収である高齢世帯の割合がどちらも56%と、
高齢世帯のほぼ半数にのぼることがわかっています。

現在、一人暮らしの高齢世帯はおよそ600万人。推定で300万人が低年収世帯と言ってよいでしょう」

そこから、生活保護を受給している高齢世帯を差し引いた、
200万以上もの人々が老後破産の状態にあると推定される。

日本全国で65歳以上の高齢者の数は3200万人。
およそ16人にⅠ人が老後破産の状態にあり、独居高齢者に限れば3人にⅠ人にも上る。
          

★友達もいなくなり

前出の番組で紹介された破産の当事者の姿は衝撃的だった。

番組の冒頭、カメラは東京都港区のアパートに住む田中樹さん(仮名/83歳)のもとを
区の相談員とともに訪れる。
全国的に見て高齢世帯のうち単身世帯の割合が高い港区では、孤立対策として聞き取り調査を行っている。

カメラに映し出されたのは、ゴミ屋敷になる一歩寸前までモノが散乱し、足の踏み場もない一室。
そこで田中さんは、小さく縮こまっている。
痩せていて、顔に覇気がない。心配した相談員が尋ねる。

—暮らしぶりはいかがですか?

「ぜいたくはできないねえ」

—もしかして電気止められていませんか?

「そのままにしています。夕飯の仕度をするときはガスの炎を頼りにすれば、なんとか調理できるよ」

—ちゃんと食べれていますか?

「こういう時が来るんじゃないかと思って、ひやむぎを買い置きしておいたんだ。
それでなんとか助かっているよ……」

田中さんの頼みの綱は、会社員時代に払った厚生年金を含めた月10万円の年金収入だ。
家賃6万円を引けば、4万円しか残らないため、一日500円以下の切り詰めた生活を送っている。

田中さんは、特に変わった経歴の持ち主というわけではない。
ビール会社で正社員として23年間働いたのち、40代半ばで独立し、飲食店の経営をはじめた。
だが、赤字が続いて倒産し、退職金も使い果たした。

田中さんは番組スタッフに一枚の絵を見せた。
黒い背広を着て、口ひげを生やした男性の肖像画。
絵が趣味だった田中さんが「社長となった自分の老後」を想像して描いたものだ。

「まさか(現実が)こんなことになるとは夢にも思っていなかったね」

絵を見つめ、こうつぶやく田中さんにいまの生活で何が一番辛いか、と番組のスタッフが尋ねる。

「友達がいなくなったことだね。
貧しさを知られたくないから、付き合いを避けてしまった」

年金支給日の前日、食べ物を買うカネも尽きた田中さんは、部屋で横たわったまま動かない。

「やることはすべてやったんだから、早く死にたいというのが正直なところです。
でも自殺するわけにもいかないしね。
いま抱えている不安をなくすためには、死んじゃったほうがマシだ……」
          

彼らは決して特異なケースではない。

普通のサラリーマンであっても、老後破産状態に陥る可能性はある。
そう警鐘を鳴らすのは山田知子放送大教授だ。

「たとえ大企業の部長職まで出世した人であっても、老後破産と無縁というわけにはいきません。
住宅ローンを退職金で払い終えたら、残りの金額は心もとないという方は多いのではないでしょうか。

当然、中小企業のサラリーマンはもっと危険で、
年金収入のみに頼る状態では、いわば薄氷の上を歩いているようなものです。
親の介護や子どもの就職失敗など想定外の出来事で、当初の予定が容易に崩壊するからです」

多くの人は、何をきっかけに破産に追い込まれるのか。
まず直面するのが、自身の健康問題だ。
西垣千春神戸学院大教授が解説する。

「高齢者にとって、健康問題は避けることはできません。
それまで元気でも急にひとりで動けなくなる人もいますし、
90歳を超えるとおよそ半数が認知症になると言われています。

家族と離れて暮らしていれば、健康の変化がなかなかわからない。
そのため、周りの人が気づいたときには、破産に至っていたというケースは決して少なくありません」
          

★子や孫には言えない…

実際、本誌が取材した中で次のような事例があった。

愛知県に住む浅田隆さん(仮名/73歳)は、大学卒業後、警備会社に就職し、
定年後も再雇用制度を利用し、働き続けていた。

しかし、腰痛が悪化して欠勤の日が増え、会社にいづらくなって、2年で自主退職。
以来、退職金と年金収入のみで暮らすようになる。

そんな浅田さんが破産にいたるまで、10年もかからなかった。
浅田さんを保護したNPOの担当者が語る。

「浅田さんの場合、腰痛の治療費に加え、退職後しばらくしてから、
軽度でしたが、認知症を発症したのが、破産にいたった大きな要因でした」

浅田さんは妻を60歳のときに亡くし、子どもも離れて暮らしていたため、
誰も苦境に気づかなかった。

「息子さんも盆や正月に帰省したときに
『少しカネ遣いが荒くなった』とは感じていたそうですが、
『やっと退職したんだから自由にさせてあげよう』
と放っておいたそうです。

しかし、判断力の低下による無駄遣いや保険の使えない鍼治療などで、
あっという間に退職金は底をついてしまった。

食うや食わずの生活をしていた浅田さんが万引きで捕まったときに、
私たちの団体に引き渡されて、破産がやっと発覚したんです。

捕まったときも『子どもや孫には恥ずかしいから言わないでくれ』と懇願されましたが、
連絡を取りました。

面会に来た息子さんに対して、
『たった10年でどうしてこんなことに』と嘆いていました」

破産に至るきっかけは、病気だけではない。
          

頼りになるはずの子どももリスクになりうる。

神奈川県に住む小野雅俊さん(仮名/69歳)は、都内の建築設計事務所の正社員として定年まで勤め上げた。
現役時代は、よく働きながらも、同僚と飲んだりと、サラリーマン生活を謳歌。

退職時には、退職金を含めて2500万円ほどの貯金と、
株券や保険などを合わせて総額4000万円程度の資産があった。小野さんが語る。

「家は持ち家だし、庭の畑で野菜を作っているし、
生活費は光熱費とガソリン代、そして趣味のゴルフや付き合いの飲み代くらいなものでした。

二人の子どもたちも独立しており、何年も前にローンは完済。
いままで懸命に働いてきた分、『さあ、これから老後を楽しもう』と暢気に考えていました」

そんな小野さんが「いまほど苦しい時期はない」と語るようになるまでに、何が起こったのか。

小野さんが続ける。
「きっかけは、すでに独立し家庭をもっていた息子が起こした交通事故でした。
100%こちらに責任のある事故で、相手は障害を負ってしまいました。

しかも、運の悪いことに、息子は1ヵ月前に保険が切れていたんです。
慰謝料に1000万円、相手に治療代や入院費、障害が残ったことで必要になった家の改築費など、
総額で5000万円も相手から請求されました。

これをすべて払わないといけない。
裁判をしても仕方ない、息子の過失責任は逃れられないと覚悟し、そのまま払うことにしました」

毎月30万円の賠償金を払うため、息子の給料は、ほぼ天引きされている。
子どものいる息子家族は、住んでいたアパートを出て、小野さんの一軒家に同居することになった。
小野さん自身も、貯金や保険をすべて解約したが、5000万円には到底足りなかった。

「大事にしていたゴルフクラブもまとめて売りに行きました。
何十万円もしたパターが、2000円という悲しくなるほど安いカネにしかならず呆然としましたよ。

会社時代の人間関係も、カネがかかるので畳みました。
正直なところ、当初は『こんなことがあっていいのか』と、相手を随分と怨みました。

ですが、責任を重く感じた息子が、休みの日もトラック運転手のアルバイトをしている姿を見て、
私も生きているうちに出来る限り助けてやりたいと思うようになり、
早朝のチラシ配りのバイトをはじめました」

現在、小野さんはチラシ配りに加えて、隣町にあるコインパーキングの管理人のバイトもしている。
孫を含めた一家5人にとって、小野さんの年金は、大きな収入源のひとつだ。

「孫に『おじいちゃん!ファミレスに連れて行って』とせがまれても、
『いいよ』とはなかなか言えない。
貴重な生活費が何日分か飛んでしまいますからね。
『外食は身体によくないからね』と適当な言い訳をして、なるべく断っています。
本当に情けなくなります。

これで持ち家でなかったら、さらに悲惨な状況になっていたと考えると、本当に恐ろしい……」
          

★息子の会社が倒産して

小野さんのように持ち家が命綱になる場合もあれば、逆に持ち家が大きな足かせになる場合もある。

都内に土地と家をもっていた大木ハルさん(仮名/85歳)は、
介護が必要な上、持病の心臓病の不安もあり、40代の息子夫婦と同居することに決めて、
千葉の高級住宅地に2世帯住宅を購入した。

息子と大木さんの二人の名義で住宅ローンを組み、子どもに見守られながら老後を過ごすはずだった。
だが、これが破産への引き金となった。

大木さん一家の相談を受けた、ケアマネージャーオフィス「ぽけっと」代表の上田浩美氏が語る。

「毎月20万円のローンを組んだのですが、
息子さんの勤めている会社が不況のあおりを受け倒産するという不運に見舞われたんです。

大木さんの預貯金をローンの返済に充てたのですが、
おかげで老後のために取っておいたおカネはゼロに。
それでも足りずに、お嫁さんも働きに出ています。

大木さんはひと月10万円近くかかる介護サービスを受けています。
心臓病だけでなく、認知症もあるので、もっとサービスも必要なのですが、
家計の都合もあって、満足に受けられない。
生活保護を受けてもいいくらいの水準です」

意外に知られていないことだが、住宅ローンがあると生活保護を受けることができない。
というのも、その状態で生活保護を受けると税金で、個人の資産を形成していることになってしまうからだ。上田氏が続ける。

「生活保護を受けるために世帯分離という方法もあるのですが、
この歳で家族と離れて暮らすのも厳しいでしょうし、
ご本人も『お上の世話にはならない』と言っています。

大木さんのようにプライドがあって『施しは受けない』
『世間様に申し訳が立たない』という人は多いですね」

前述の香川さんたちのように、誰にも頼れず、
自らカネに困っていることを声に出せない人だけではない。

大木さんのように、家族と同居していてさえ、破産の危険と無縁というわけにはいかないのだ。

大木さんは別れ際、大きなため息をつきながら次のように答えた。

「こんなに長生きするなんて思ってもみなかった。
もっと早くコロリと逝くはずだったのに。85歳にもなって、こんなに苦労する目に遭うなんて……」

これが、老後破産に陥った多くの人の本音だろう。
超高齢社会が生んだ厳しい現実は、あなたのすぐそばにまで迫っている。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私たち夫婦は38年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えてきたが、
ここ10年の年金生活は安楽の日々を過ごしている。

しかしながら、いつの日にか私たちのいずれかが難病に遭遇したり、或いは認知症になり、
晩年期は大きく人生航路を変更を余儀なくされる・・。
或いは私か家内が死去し、残された方がどのような難題に遭遇するかもしれない。

今回の記事を読み終わった後、数多くの人がサラリーマン生活を卒業された後、
ささやかな第二の人生期、不意にアクシデントに遭遇され、悲惨な生活実態に、
私は悲嘆を重ね、涙があふれ、頬をぬらしたのである。

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アクティブシニアは定年後には、マンションも最適と学び、私は微苦笑させられて・・。

2015-09-07 13:22:56 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活11年生のまもなく71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、
程ほど貯金を取り崩しながら、ささやかに過ごしている。

私たちは東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後37年ばかりの一軒屋に住んでいる。

そして私の生家も近くにあるので、私自身としてはこの地域に住んで、早や65年が過ぎている。
       

最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。
或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれの最寄駅までの路線バスの利便性は良い所で、たとえば都心の新宿のデパートに買物に行っても、
電車を利用すれば、我が家よりデパートの店内に45分ぐらい、
或いは東京駅でも我が家から一時間前後となっている。


こうした中、 日常の殆どは私が年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、買物メール老ボーイとなっている。

そして最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、私が何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。
          
そして昨年より70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、
ときおり願いながら歩いたりしている。
          
          
今朝、いつもように配達された読売新聞の朝刊を読んでいる中で、
12面の【くらし、家庭】のひとつと記事として、
《定年後はマンション》という見出しがあり、サブタイトルとして《コンパクトサイズ・・駅に近く便利》
と記載された記事を読んだりした。

無断であるが、転記させて頂く。

《・・定年後の60代から70代前半の間で、一戸建ての持ち家からマンションへの住み替えが目立っている。
子どもの独立後は家の広さをコンパクトにし、街中など便利な場所で暮らしたいと考えるようだ。

浜松市の中村洋二さん(67歳)は、定年退職後の2008年、
一戸建ての持ち家からJR浜松駅前のタワーマンションに、妻と移った。
以前の自宅は駅から車で15分以上離れた郊外の傾斜地にあり、
「坂が多くて買い物も大変。庭の手入れもつらかった」と話す。

今の生活は充実しているという。
「病院も近くて安心。夫婦で音楽を聴きに行ったり、映画に行ったりしています」
          

不動産コンサルティング会社、スタイルアクト(東京)社長の沖有人さんは、
「丘の上の閑静な住宅街はかつて人気でしたが、周囲が住宅ばかりで意外に不便です。
年をとると坂の勾配もつらくなります」と話す。

住宅情報誌「SUUMO(スーモ)」編集長の池本洋一さんによると、
戸建てに住むシニア世代で住み替えを検討しているのは2割程度。
最近の傾向として、狭めのマンションを選ぶ人が多いという。

「庭の手入れなど、戸建ての煩わしさから解放され、
趣味を持って元気に活動しようという人が増えています」

マンションは維持管理が楽で繁華街に近いと生活も便利だ。
ただし、管理費や修繕積立金など月々の出費が生じることになる。
固定資産税額なども含め、住み替えによって住宅にかかるお金がどう変化するか、長い目で比較検討することも肝心だ。

最近の65歳から70歳前半の「アクティブシニア」と呼ばれる世代が重視するのは、
〈1〉駅に近い
〈2〉眺望が良い
〈3〉大規模物件――だという。

「特に男性は、退職後の人間関係が希薄になりがち。
駅に近くて眺望が良いと友人を呼びやすく、
大規模ならパーティールームなど交流のための設備やイベント企画が充実しています」と池本さん。
          

そんな志向を狙ったアクティブシニア向けマンションも登場している。
さいたま市に来年完成予定の「グランコスモ武蔵浦和」は駅から徒歩4分。
13階建ての1階おきに談話室と多目的室を交互に配置するなど、交流スペースを充実させた。

棟内には大浴場やレストラン、診療所、24時間見守りシステムもある。
物件価格は44平方メートルで3000万円から。
管理費など月々の出費は5万~8万円という。

「これまでの契約者の平均年齢は69歳。
80代も含め、元気なシニア層に広く購入されています」と販売担当者。


一方、同じ棟の別の住戸に親世帯と子世帯が住む「マンション内2世帯」という住み方も選択肢の一つだ。
子世帯は幼児を親に預けられ、親夫婦も孫を介して近所付き合いが広がる。

いずれも老後の住み替えを考えているなら、50代のうちなど早めに検討した方がいい。
沖さんは「住宅ローンは80歳まで組めるので、60代でも間に合いますが、年を取るほど難しくなります」と話す。

もちろん、ローンを利用する場合は、無理なく返済できるよう身の丈に合った組み方にしたい。
また、年を取ると認知症や病気のリスクが高まることも考慮しておこう。
          

■定年後世代のマンション選びのポイント

・趣味などで活発に活動したいなら、駅の近くに。老後も買い物や通院が楽

・部屋が多いと掃除も大変という人には、夫婦1部屋ずつぐらいのコンパクトな物件を

・他の住民との交流には、大規模物件がお薦め。設備などが充実している

・友人などを自宅に招きたいなら、眺望の良さや利便性を重視

・子世帯の近くに住みたいなら、「マンション内2世帯」も親子で話し合う価値あり

(池本さんの話から作成)・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

若き私の40代の頃、ひとつの夢を漠然とし考えたりしたことがあった。
私たち夫婦が住んでいる住宅街のそれぞれ住宅が密集し、何かしら息苦しい住宅街より、
解放感のある地方の山里に、と想いを馳せたりした。
       

たとえば八ヶ岳の別荘地の分譲地などで、のんびりと生活することを夢想したりした。
しかしながらこの当時の私は、都心に通いサラリーマンの身であるし、
住んでいる一戸建ての住宅ローンも多額に残っていたので、
もとより収入を別途に挙(あ)げる自信はなく、夢だよねぇ、断念した。

やがて50代の後半になると、山里に300坪前後の土地を求め、
落葉樹のクヌギ、コナラなどの中、平屋建ての30坪ほどに住むことも考えたりした。

この当時は住宅ローン等の返済を終えていたので、
定年退職する60歳になった時は、自宅を売却して買い求めて、
老後の生活資金を配慮した場合でも、何とか出来ると思ったりした。
          

こうした私の根底には、私の住んでいる近くに私の生家もあり、
私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けた。

そして私が小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、程ほど広い田畑などを耕していた。

或いは祖父の所有していた広い田んぼの中には、小さな川が流れたり、
湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに土蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
はずれに小さな稲荷を保有して、この地域の旧家は、このような情景が多かった・・。

このような生家は、周辺は平坦な田畑、竹林、雑木林などが拡がり、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。

その後、私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

そして1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になると都心に勤める方のベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。
                 
私は消えてしまった故郷、失われてしまった時を求めてか、時代の変貌に戸惑いながらも愛惜感を秘め、
このような私の思い、漠然とした山里に平屋建ての生活を家内に相談したら、
日常生活の買物、交通・病院などの利便性から、反対された。

『貴方の好きな本屋さんだって、今は歩いて行ける範囲ょ・・まして、スーパーなどの買物だって・・』
と私は家内に言われたりした。

やがて具体的に指摘されれば、私は確かに好きな音楽CDとか、映画のDVDを購入する店、
もとより本屋も該当するが、店内を見て周り、興味を持ったのに手を取ったり、買い求めたりしている。
そして、こうした空気が好きである。
或いは、ときおり洒落(しゃれ)た居酒屋も欠かせない・・。

『貴方、60代の心身元気なうちは良いけれど、70代頃からの体が弱ってきた時の事も考えて・・』
と私は家内に言われたりした。

確かに山里に住めば、自動車は必須事項だし、買物も一週間まとめて購入し・・
と思ってきたが、
体の弱った時の通院、そして都心の外れの文化と利便性には勝てない、と断念した。

こうして私の淡き夢も消え、定年退職後の年金生活の中、住宅街の密集地から抜け出して、
我が家より3キロ範囲の遊歩道、小公園、公園などをひたすら歩き、
季節のうつろいを享受したりしてきた・・。

或いは家内との共通趣味のひとつの国内旅行で、各地域の観光ホテルに滞在して、
周辺の山里、街はずれ、街中を歩き廻り風土、文化を学び、
その地の景観に心身共にゆだねて、遊学したりしている。
          

昨今、我が家の固定資産税は土地が毎月3万円ぐらい、老朽化した家は毎月5千円ぐらいと評価され、
四半期毎に納入しているが、
このまま住んでいたら、大切な老後資金が減る度合いが少なく済むので、
当面この状態ですごしたいよねぇ、と私たち夫婦は話し合いながら、微苦笑したりしている。

しかしながら私たち夫婦は、いつ日にかどちらかが足か腰が衰えてきた時、
自宅を売却して、やはり駅の近にあるマンションのコンパクトサイズを買い求めて、
晩年期を過ごしたい、と思ったりしている。


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小庭の手入れ、老兵のような私は孤軍奮戦しても、あえなく敗退し、・・。

2015-09-06 14:02:13 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の身であり、
まもなく下旬の誕生日を迎えると、恥ずかしながら71歳となるが、
65歳の高齢者入門が許された頃から、体力の衰えを実感し、老兵のように感じてきた。

こうした中で、我が家の小庭の手入れは、現役サラリーマン時代から私の責務であるが、
何よりも暑さに苦手な私は、夏の間は涼しい時に・・と何かと順延しサボり果ててきた・・。

我が家の敷地は変形の為、家屋を建てる当時から玄関庭と主庭に別れているが、
雑木が多い中、枝葉は伸び放題、草も茂って純白のタマスダレの花、淡紅色の秋海棠(シュウカイドエ)の花、
紫式部(ムラサキシキブ)は数多く桃色の花を咲かせる中で、薄紫色に染めはじめた数多く実も、
雑草の中で何とか生育しているような状態となっている。

こうした状況の中で、一番喜ぶのは鈴虫(スズムシ)、蟋蟀(コオロギ)かしら、
と私は微苦笑を重ねたりしてきた・・。
                    

昨日の夕方、明日は久々に小庭の手入れをしょうと決意したが、
何かしら明日は午後より小雨が予測されていたので゛
本日は朝5時に起床し、異例の早め朝食を頂いたりした。

やがて7時少し前に庭に下り立ち、ストレッチパンズの長ズボン、着古したワイシャツ、ウォーキング・シューズで、
帽子を深く被り、滑り止めの軍手をして、そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしたりした。

そして玄関庭の雑草が草ぼうぼうとなっているので、最優先として引き抜いたりしたが、
樹木のある地面も草が生えているので、
樹の下にもぐるように、はいつくばって草を取ったりすると、泥まみれとなったりした。

この後、草むしりを丁重にしていると、汗も流れ、
泥まみれ汗まみれかょ、と私は微苦笑したが、
夏の燦々と照らす30数度の熱さと違い、この20数度の気温だったら、快適なハイキングと同じようだ、
と独り微笑んだりした・・。

たまたま汗がしたたり落ちてきたのは、小雨降る前の湿度が高い為で、
冷や汗より健康的、と思いながら草むしりに専念した・・。
そして体力の衰えた私でも、今しなくて何日(いつ)するのよ、と叱咤激励しながら孤軍奮闘した・・。
          

こうした中で、ときたま玄関の軒下に置いた簡易椅子に腰かけて、
少し休憩ねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
こうした私の情況を見た家内は、料理と掃除の手を休めて、ときおり冷茶を運んでくれたりした。

私は何かとプラス思考の上、母の遺伝を純粋に受けたらしく、男の癖におしゃべりとなり、
血液型はB型となっている。

家内はA型の性格を忠実に受けたらしく、洗濯、掃除、料理など徹底的にしてくれるので、
死語となってしまった昭和妻の役割をして、専業主婦の鑑(かがみ)のような人となっている。

私たち夫婦で欠けていることは、無念ながら子供に恵まれなかったことぐらいかしら、と私は思ったりしている。
          
こうした風変わりなカップルの夫婦であり、
過ぎし日に、私はおとぎ話の桃太郎の一部を思いを重ねることもあったりした。

《・・山里にお爺さんとお婆さんが仲よく住んでおりました。
まことに情ぶかい正直ものでありましたから、村人からも慕われておりましたが
淋しい事に子供がありませんので、お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行って一生懸命働きながら・・》

たまたま私は小庭の手入れに奮闘し、家内は家の中の掃除をしていると思え、
何かと単細胞の私は《・・お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行って・・》を想い重ねで、
独り微苦笑したりした。
          
          
この後、草むしりをしていたが、ブロック塀際の雑草は少しだけ残したりした。
私はここ4週間ぐらい鈴虫(スズムシ)、蟋蟀(コオロギ)二部合唱の音色を享受してきたので、
雑草の安息処をすべて取ってしまえば、困苦すると思い取り残したりした。

やがて私は樹木の枝葉を高枝鋏(たかえだばさみ)で切り落としたりした後、
切り落とした枝葉を整理したりしていると、疲れを感じ始めた。

こうした中、家内が冷茶を持ってきてくれた時、
今日は玄関側だけで終わりにしたら、と家内は私に言ったりした。
          

やがて私は本日は、玄関庭だけで終わりにして、テラスのある主庭は次回にしょう、
と決意したのは、11時過ぎであった。

そしてたった四時間ばかり奮闘し、何とか玄関庭は終えたが、
主庭の手入れを残してしまい、体力の衰えを実感したりした。
そして着古したワイシャツ、長ズボン、軍手も泥まみれ汗まみれになってしまったが、
あえなく敗退かょ、と微苦笑したりした。

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飛び石のような『おひとりさま』の生活、何かと愚図の私でも、落ち着かなく・・。

2015-09-05 13:01:28 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の老ボーイのまもなく71歳となる身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
年に4回ぐらい家内は、独り住まいの家内の母宅に行っている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に病死され、
我が家より2時間は要する千葉県のある市で独り住まいの生活をされて、早や11年目となっている・・。
       
こうした中で、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、
ここ10年の恒例となっている。

そして家内は殆ど毎夜、家内の母の本日の出来事と安否状況を確認する為、
電話連絡をしている。
                     
                                        
家内の母は、80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、
『要支援2』となっている。

こうした中、整形外科、内科、眼科に通院している中、
ここ70日前後は少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査が加わり、
家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなっている。

このような結果として、4泊5日、11泊12日、或いは泊4日とか、
幾たびか飛び石ように行っている。

この間、私は我が家で『おひとりさま』の生活をしている。

お茶の世界では、茶庭には飛び石があり、お客様に庭をゆっくりと鑑賞して頂くために、
遠回りさせたり、飛び石の配置も狭くしたり、或いは適度にしたりして優雅な世界であるが、
何かと愚図の私としては、『おひとりさま』の生活は、落ち着かなく慌ただしく過ごしている・・。

私は家内より先に、あの世に行くことは99%確信を深めているが、
この世の中は予測ができないことが多く、私を残して家内が先き立たつことも考えられるので、
『おひとりさま』の特別演習だ、と自身を叱咤激励して過ごしている。
                     
         
平素の私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行っている。

朝、最優先の実施事項は、台所にある調布市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『ベットボトル』、『古紙・新聞』などの指定日を確認して、
これに対応して、調布市から指定された道路に面した門扉に置いたりした。

そして、台所で一合ばかりのお米を洗い、五穀米を加えて電気炊飯器に10分後にセットし、
この後は読売新聞の朝刊を読みながら、冷茶とアイスコーヒーを飲んだりする。

やがて前菜は、新タマネギを野菜調理器の新兵器のサラダセットでスライスし、生ワカメとあえたり、
或いはミッカンぽん酢とお醤油をかけて、大きな皿に盛大に食べたりした。

この後は、十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、焼きノリ、サバの味噌煮の缶詰か
シャケの瓶づめとしてきた。

私は幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の代表とされる『一汁三菜』の真似事をし、
これが飽(あ)きたら日本人はやめるょ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。

この間、ご飯の一合は多すぎるので、半分はラップに包んで、
こっそりと冷蔵庫の片隅に保存し、翌朝に電子レンジで温めて、頂いているので、
二日に一回だけ、お米を洗いのが実態となっている。
          
やがて朝食後、台所で皿洗いなどをして、水遊びをした。
          

昼食はフランスパンを三分の一、ときにはアンパンを頂いたりしている。

そして夕食は、私の場合は、朝食と同様な前菜を盛大に食べた後、
2日に1回、スーパーで買い物をし、野菜コーナー、肉類コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、
適度に選定し、冷茶を飲みながら食べたりしてきた。

しかしながら独りだと話し相手がいなく寂しいので、缶ビール500mlを2本だけ呑んだり、
ときにはウィスキーをオンザロックして数杯を呑みながら、テレビのニュース、
或いは映画棚から観たい作品のDVDを取り出して視聴したりした。
                            

日中のひととき、乾燥の機能がある洗濯機で、洗いから乾燥までしてくれるオール自動セットに頼り、
パジャマ、肌着、タオルなど2日に1回として、
あとはお願いねぇ、と洗濯機に向って呟(つぶや)いたりした。

そして3日1回ぐらいの部屋の掃除日として、孤軍奮闘したりした。


このような家事の真似事をしている中、平素の私たち夫婦の日常ペースが狂い、
戸惑っている。
                     
         
平素の私の午前中は、家内から依頼された買物で、買物専任メール老ボーイとなり、
独りで最寄りのスーパー、或いは駅前にあるスーパー、専門店に行ったりしている。

この後は、独りで自宅付近の3キロ範囲の小公園、遊歩道を散策して、
季節のうつろいを享受しているが、
『おひとりさま』の生活をしていると、何かと散策が落ち着かなく、
中止することもあったりした。

そしてブログの投稿文は、年金生活を過ごしてきた中で、
パソコンの故障、国内旅行をしていない限り、日々貫徹ょ、と毎日投稿して11年生となっているが、
何かしら家事の真似事をしていると、慌ただしく綴ったりし、投稿時もまばらとなり、戸惑ったりしてきた。

こうした中で、専業主婦のような女性は、どのような家事の合間に、投稿文を綴っているの、
と私は思いながら、微苦笑したりしている。
          

このように私は『おひとりさま』の生活をしているが、
本日、家内が4日ぶりに我が家に帰宅となれば、
今朝は5時半過ぎに目覚めて、部屋の掃除、台所、洗面所などを、
家内と38年ばかり寝食を共にした結婚生活の暗黙の信頼関係により、少し丁寧にしたりした。
                    
やがて私は、居間でぼんやりと過ごしながら、何かと深夜族の老ボーイの私は、
疲れを感じたか、眠くなり独り微苦笑したりしている。

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睡眠時間を十分にとれば、疲れはとれるという誤解 、遅ればせながら多々教示され・・。

2015-09-04 15:57:46 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活11年生の70歳の身であるが、
昼食後のひととき、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っていた時、
【ただ眠れば疲れがとれるというのは誤解! 】と題された見出しを見て、
どういうことなのょ、と思いながらクリックしてしまった。

何かしら医療・ヘルスケア分野での、新たな生活インフラサービスを構築し、社会に貢献することを目指す
Mocosukuという会社が、
公式サイト【もこすく】で、あなたの健康をサポートして下さり、
もっと幸福にもっと健やかに暮らす為に必要情報を提供するサービス、と私は初めて知った。

そして今回は、睡眠をテーマに、『睡眠時間を十分にとれば疲れはとれるという誤解』
と題して、2014年11月21日に公開して下さり、無断であるが転載させて頂く。
          

《・・季節の変わり目でもあり、体調を崩しやすいこの時期。
普段の生活をしていて疲れが溜まりやすい、なかなか疲労が回復しない・・
そんな慢性的な疲れで悩んでいる人は多いのではないでしょうか。

これといった病気でもないのに日々の疲れがとれないという人は、
睡眠に問題があるのかもしれません。

実は睡眠は、ただ長く眠ればいいというわけではないのです。
ここでは、疲労回復における睡眠の重要性について考えてみます。
          

☆長時間寝ているのに疲れがとれない理由

それなりに睡眠時間をとっていても、なかなか疲れがとれない場合があります。
実際に、長く眠ったからといって、それだけ疲労が回復するわけではないのです。

睡眠の「質」が悪ければ、疲労回復の効果は低下するのです。
では、質の高い睡眠とはどんなものでしょうか? 
それは、目覚めたときに気分がスッキリとしていて、かつぐっすり眠れたという実感を伴う眠りです。
          

☆睡眠の質を決めるのはノンレム睡眠

一般に睡眠は、深い眠りである「ノンレム睡眠」と、
浅い眠りである「レム睡眠」に分けられます。

ノンレム睡眠とレム睡眠はセットになっており、60~120分程度の間隔でこれが繰り返されます。
これが「睡眠周期」と呼ばれるものです。

さらに、ノンレム睡眠の中には「徐波睡眠」と呼ばれる特に深い眠りがあり、
脳を休める効果が高いと言われています。

つまり、この徐波睡眠がしっかり現れているものが質の高い睡眠というわけです。
そして、徐波睡眠が現れるのは入眠後3時間だけ。
つまり、眠りの質を決めるのは序盤なのです。
          

☆概日リズムと睡眠周期を合わせる

一方、睡眠周期とは別に、私たちのカラダには
概日リズム(サーカディアンリズム)と呼ばれる1日単位の周期があります。

概日リズムよって体温の変化やホルモン分泌などの生理現象が起こるのです。
眠りに関連する生理現象としては、
(1)メラトニンの分泌、
(2)コルチゾールの分泌、
(3)深部体温の変化…などが挙げられます。
以下、各項目と眠りの関係について見ていきましょう。
          

☆メラトニン

眠りを促すホルモンで、「睡眠ホルモン」とも呼ばれます。
朝日を浴びてから14~16時間後に分泌が始まるため、
朝7時に目覚めたら夜の9~11時に出始めることになります。
それが就寝のタイミングの目安になります。

光を浴びていると分泌量が低下するので、
例えば午前0時に就寝するとしたら、その1~2時間前くらいからは部屋を暗くして、
パソコンやスマートフォンなどの画面を見るのも避けたほうがいいでしょう。
          

☆コルチゾール

自律神経系を刺激し日中のカラダを活動的にするホルモンで、
「ストレスホルモン」とも呼ばれます。

起床時に最も多く分泌され、その後次第に分泌量が減っていきます。
ストレスが多いとコルチゾール分泌量が増えるため、
カラダがリラックスできずに睡眠を妨げることになります。

ストレスの多い生活を送っていると不眠になりがちなのはこのためです。
          

☆深部体温

文字どおり、カラダの中心部の体温のこと。
朝から日中にかけて上昇し、夜から深夜にかけて徐々に低下、早朝にかけて急速に下がっていきます。

この深部体温の変化の落差が大きいほどぐっすり眠れると言われています。
つまり、就寝前にはお風呂でしっかり温まってから、カラダが冷えないうちに布団に入るのが理想的です。
          

☆早寝早起きが理に適っているワケ

一方、レム睡眠は、睡眠周期に関係なく、
明け方近くになると出現頻度が上がり、また時間も長くなります。

例えば、夜更かしをして朝方眠りにつくとします。
睡眠周期的には、深い眠りである徐波睡眠が現れるのは入眠後3時間ですが、
概日リズム的には朝方はレム睡眠が現れやすい時間帯です。

睡眠周期と概日リズムがバッティングするわけですから、
あまり質のいい眠りにならないことが予想できますね。

実際に朝方床に就くと、眠りが浅く、
やたらと短い間隔で夢を見ては目が覚めるということを繰り返すことがあるのは、
そういう理由があるからなのです。
          

☆質の高い睡眠で免疫力を向上させる

上概日リズムと睡眠周期をマッチさせること。
これは質の高い眠りを手に入れるための原則です。

眠りの質が悪く、疲れがとれない状態でいると、
自律神経の乱れや免疫力の低下につながり、風邪やほかの感染症にかかりやすくなってしまいます。

疲れやすい人は、自分の睡眠を見つめ直して、
ぐっすり眠れるように工夫してみてはいかがでしょうか。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
                       

私は民間の中小業のある会社に35年近く奮闘し、何とか定年退職をできた身である。
この間、コンピュータを活用した情報畑を20数年従事したりした。

こうした部署にいると、社内の幾たびかのシステム開発をしていると、
ビークを迎えると深夜2時過ぎに退社したり、或いは徹夜をしたりして、
日曜日以外は殆ど出勤し、奮闘する時もあったりした。

そして運営に安定すれば、数年後にはシステム部分改定をしたりしてきたで、
睡眠不足で奮戦し、過重労働などは死語だょねぇ、と互いに苦笑したりしてきた。
             

定年する5年前には、リストラ烈風の中、遠方の勤務地に勤めたりした。
朝の4時45分に起床して、帰宅できるは夜の9時過ぎが多かった。

こうした時、帰宅後の最優先として風呂に入った後、10時過ぎに遅い夕食を頂きながら、
家内と一日の出来事などを談笑したりした。
やがて12時になると、やむなく布団にもぐったりした。

そして平日は睡眠不足であり、日曜日に昼寝で補(おぎな)ったりしていた。
          

2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、多々の理由で年金生活を始めた・・。
こうした中で、午後からの大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして深夜まで読書に夢中になったりした時は、昼寝をしたりして、
年金生活の何より特権だねぇ、と微笑んだりしている。

今回の睡眠に関して、恥ずかしながら初めて知ることが多かった。
メラトニン、コルチゾール、深部体温などは全く無知で、多々教示された。

そしてセカンドライフを健康で過ごすは、適度の運動、睡眠、食事が肝要と思っているので、
本日は睡眠に関して、遅ればせながら多々学び、微笑んだりしている。

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たかがブログされどブログ、年金生活の中で、心の友のひとり、と確信を深めて・・。

2015-09-03 14:13:22 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた。

そしてネットの世界は殆ど無知な癖に、この当時にIBMなどからホームページ作成素材のソフトを買い求めて、
漠然としながら『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風の散文を綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢えた。

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであり、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。
          
     
ブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれのお方が自由に私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済などの分野まで表現でき、
日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、
誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している。

この少し前の時代は、それぞれの専門知識のある有識者が、
雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
もとより掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。

こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、政治、社会などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露でき、何よりブログはホームページより手軽に開設、運営できると感じ、
ブログに加入しょうと決意した。
          
        
そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入した。

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり【gooブログ】を中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
       
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸10年が過ぎて、早や11年生に進級した。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
                                                                   
私は年金生活をしていると、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどが心の叫び、思いがあふれ、
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは3年近く前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
                                  
       
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省することがある。
          

人誰しも、この人生航路を歩み中で、光と影を有しているが、
つたない私でも光と影があり、特に暗く影のことも、私自身、家庭、或いは生家の事柄に関しも、
このサイトにためらいながら、マイナスと称される影も私は描写してきた。

たとえば、私の小学生の前半に、父や祖父が病死し、残された母や私たち兄妹は、貧乏な生活を一時期を体験したこと。
或いは、亡き母が40代の時代は、私たち兄妹の五人が何とか世間並みの生活にする為に、
ラブホテルのような連れ込み旅館を経営し、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、私たち五人の子供は成人したこと。

又は三男坊の私が若き34歳の時、自営業をしていた次兄は資金繰りが破綻して、
毒物を飲み自殺と称せられる自裁して、自室で亡くなったこと。

そして私自身の場合は、大学を中退して映画・文學青年の真似事をして、やがて敗退したことや、
定年の5年半前にリストラ烈風の中、無念ながら出向となり、定年時を出向先で迎えたこと。

このように私はこれまでの人生の歩みの中、心のわだかまりを吐露(とろ)しなければ、
この先の人生を生きて行くことはできない、と思いで発露したりしてきた。

こうした私なりに屈折した出来事を余すことなく投稿してきたが、
小心者の私としては匿名であることで、初めて発露できたことである。
                             
このような心のうめきごとは、リアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、目の前の人は受け止めることに困り果てることもある、と感じたりしてきた。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションとして読者は受け止めることができるので、
ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いに於いては同じかしら、と思ったりする時もある。

このような理由も重ねて、私はここ8年、発信名は『風と光』から『夢逢人』と改称したりした。

私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
文字通り、夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら命名したりした。
          
         
このように私は自身の投稿文も大切であるが、ここ10年数多くの方の投稿文を読ませて頂いたりした。

そして日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を感じながら、年金生活を過ごしたりしている。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
                                                                             
こうして過ごしてきた間、私の投稿文にコメントを頂いたり、
或いはあるお方の投稿文を読ませて頂き、瞬時に圧倒的に魅せられて、
そのお方にコメントをしたりしている。

しかしながら数多くのサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
隠れキリシタンのように秘かに私は、愛読者のひとりとなっている。

こうした理由の一つとして、私は気楽にコメントを書くことはできない身で、
コメントを書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプのひとりである。

こうした事情により時間が要するので、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響し、
原則としてコメントの交信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌した時代もあったりした。

ここ5年前の頃からは、来訪しコメントを残して下さった方には、原則として返信を認(したた)めている。
そして数多くの方の投稿文を読ませて頂き、
感極まって私は、そのお方にコメントをしたりしている。
          
或いはそれぞれのお方よりコメントを頂き、
私は思いかけずに喜んだり、私の投稿文をこのように解釈されたのかしら微苦笑したりし、
返信を認(したた)めたりしている。

こうした中で望外の喜びとして、ブログサイトを開設していない数名の方より、
幾たびかコメントを頂き、もとより私は本心を発露して、返信を認(したた)めてきたりした。
          

このように私は定年後の年金生活の中で、ブログの世界は生きがいのひとつとなり、
心の友のひとり、と確信を深めている・・。

そして私は俳句にも素養がないが、恥ずかしながら心情を発露すれば、
  ブログには 心なごます ちからあり
と私は詠(よ)んだりしている。


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「昔はよかった」病を知り、私は微苦笑しながら、今わが人生最良の時・・。

2015-09-02 14:55:16 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活11年生の老ボーイの70歳の身であるが、
朝食後、霧雨舞い降るひととき、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っていた時、
【「昔はよかった」なんてとんでもない!
「いまのほうが、ずっといい」か「昔もいまもたいして変わらない」という事実】
と題された見出しを見て、
どういうことなの、と思いながらクリックし、精読してしまった。

何かしらパオロ・マッツァリーノ・著作の『「昔はよかった」病』(新潮新書)を
ネットで【ダ・ヴィンチニュース 】が9月2日に配信された記事と解った。

私は読みながら苦笑したり、微笑んだりした・・。
無断であるが、ルートつつみ氏が寄稿された文を転載させて頂く。
          

《・・たまの休みに東京の下町を散歩して、
「こういう古き良き昭和の香りがする家並みや風情を、いつまでも残してほしいなぁ」とつぶやいてみる。

「火の用心」の拍子木の音を聞いて、古き良き日本の風物詩にしみじみとする。
なにかと世知辛い現代だ。
昔は風情があって、人々は品性や善意に満ちていた。

もし、ひと昔前に生まれていたら、より豊かな人生が歩めたのかなぁ…なんて感傷に浸る日本人に、
「もういいかげん【古き良き】という枕詞を使うのをやめてもらえませんか」
と冷水をかけるのは、イタリア生まれの日本文化史研究家・パオロ・マッツァリーノ氏である。


日本通を自認する氏の著書『「昔はよかった」病』(新潮社)によると、
「世の中のほとんどのものは、女房と畳のように、新しいほうがいい」。

たまの不便なら楽しいけれど、毎日のこととなると、古いものは不快なだけ。
東京の下町で「風情を残してほしい」と口にする清潔好きな日本人は、
ミストサウナやウォークインクローゼットが完備された新築マンションに住んでいるくせに、
他人にはすきま風の入るボロ家に、いつまでも住み続けてほしいと願っている
“ひとでなし”だ、と手厳しい。

【古き良き】と対となる常套句は【昔はよかった】である。
「昔は義理人情に溢れていた」
「昔はいまのような凶悪犯罪なんてなかった」…
「だから昔はよかった」という口癖を、本書では「昔はよかった病」とバッサリ。
          

人間の記憶や思い出は都合よくできており、10、20年前のことですら、けっこうあやふや。
ましてや、50年以上前ともなれば、悪い話は記憶から抹消され、
良かったことだけが盛られているのが常。

そういった“歪んだフィルター”を通していまの世の中を見るから、
悪いことばかりが強調されると説明する。

「昔は義理人情に溢れていた」という言葉は、確かによく聞く。
例えば、前述の「火の用心」。
主に年末、火災予防のため、拍子木を打って歩く有志の夜回りだが、
近頃は「防犯パトロール」「防犯ボランティア」の名のもとに通年で見られる地域が増えてきている。

義理人情の火が消えていないことに頼もしさを感じるかもしれないが、
「拍子木の音で寝られない」と中止を求める声が各地で上がっているのをご存じだろうか。

「善意に対して、なんて義理人情に薄い人たちだ」…と憤る人があるかもしれないが、
著者いわく、間近で聞く拍子木の音は実際「オスプレイ並みの騒音」であり、
これを毎晩聞かせることに「火の用心」の良識のなさを問うている。

これに対して、火の用心を「絶対善」とする“信奉者”は、
「昔は拍子木がうるさいなんていう人はいなかったのに…」
「ああ、世知辛い世の中になった」と、日本人の劣化を嘆く
(ただし、「昔の日本人」にシンパシーを感じる自分は含まれない)。

昔の日本人にとって「火の用心」は、「ありがた迷惑」「善意の押し売り」ではなかったのだろうか。
          

本書では、それを否定している。
昭和の新聞の投書欄には、「寝られず迷惑」「静かに夜回りをしてほしい」、
過激なものになると「夜回りを廃せ」などの声がしばしば掲載されていたらしいのだ。

昔から非難されつつ、夜回りをする側本位の“義理人情”で続けられてきた「火の用心」。
効果があれば、騒音やむなしの感もあるが、
本書によると火災発生件数が減ったと証明する研究結果はない。

そればかりか、犯罪抑止効果も期待できないという。
空き巣が拍子木の音を聞くと、姿を隠し、
火の用心が行ってしまうと行動を再開するのは、当然のことである。

確かに、防犯ボランティアの8割以上が活動を開始した2005年以降、
空き巣などの犯罪は急激に減少し続けているが、
これはすでに2002年から見られていたことで、因果関係とはいいにくい。

ところで、こういった科学的統計を持ち出すと、
“夜回り信奉者”は「日本の風物詩なんだ」と激昂するというが、
それこそ「昔はよかった病」に罹患していると辛辣だ。
          

近年よくいわれる子どもの凶悪化・凶暴化や、
“過去最悪”(「過去最高」ではない)を更新し続ける犯罪件数についても、
日本人は情報による印象操作を受けているだけで、日本の治安は悪化しているどころか、
「歴史上類を見ないほどによくなっている」とキッパリ。

安全が高まるほど、たった1本しかない貧乏くじにあたる恐怖と不安が増大しているだけであり、
これ以上どんなに見守りなどを強化しても、わずかな犯罪発生率をゼロにすることは不可能。

「これ以上はオトナたちの力でもどうにもならないから、
あとは自分で判断して生き残れるようになりなさい」
と教えるのがホンモノの教育である、と持論を展開している。

【昔はよかった】というフィルターを通さず、
客観的に見渡せば「いまのほうが、ずっといい」か
「昔もいまもたいして変わらない」というのが事実であると著者。

「昔はよかった」「昔の人は立派だった」といまを否定する悲観論者にならず、
「いつの時代も人間はずっとダメな生き物なんだ」
と真実に目を向けるほうが気楽に生きられると提言している。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

寄稿文を読み終わった後、社会的なことは疎(うと)いが、
個人的には、私自身つたない人生航路を歩んできたので、セカンドライフと称される年金生活は、
我が人生は最良の日々と感じ深めている・・。

こうした思いから、「昔はよかった」という思いから遠いひとりである。


私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉の秋に大学を中退して、
映画・文學青年の真似事を奮戦したりしたが、あえなく敗退した。

そして、やむなくサラリーマンに転身し、何とか大企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年ばかりソフトコースの学科を専攻して学び、
この後、知人のご尽力もあり、この当時としては、ある大手の音響・映像メーカーの会社に、
何とか中途入社できたのは1970年(昭和45年)の春であった。

そして音楽事業本部に配属されて数ヶ月した頃、
この中のひとつの大きなレーベルがレコード会社と新設され、
私も新たな外資系のレコード会社に転籍の辞令を受けたりした。

もとよりレコード会社の各社は中小業であり、苦楽の大波、小波をまともに受けたし、
音楽業界に35年近く勤めて、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となった。

そして最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品を扱う物流センターに勤めて、
敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。

私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
第二の人生は身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。
                                  
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
        
2004年(平成16年)の秋、年金生活の当初は、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。

そして独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
                

そして私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
                                     
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなく、平素の買物専任者を自主宣言したのであった。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。

しかしながら実際は日常生活の中で、ときおり私が失敗事をしたりすると、
平素は『あなた・・』と呼ばれるのに、
『ボケチンねぇ・・』と家内から微笑みながら私に苦言される時もある。

こうした中で、私は66歳の時に糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
食事の改善とひたすら歩いて、何とか克服してきたので、
糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、ひたすら歩くことが多くなっている。
                                                
      
この後の大半は居間で過ごしたりすることが多く、何かと随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。
定年後の年金生活の単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は買い求めたりしている。

新聞は『読売新聞』を40年近く購読しているが、気になり記事を更に深く知りたい時は、
総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】などに縋(すが)り、
多々教示されている。

ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。

或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚からCD、DVDなどを取りだして、聴いたりしている。
                     

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
                 

こうした中で、ときおり我が家の小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。

私たち夫婦は、子供に恵まれなかった為か、新婚時代から幾たびか旅路を重ねてきた。
現役サラリーマン時代は、殆ど2泊3日ぐらいの日程であったが、
年金生活を始めると日程の制約から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなっている。

                          
年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
                            

こうした60代の中で、多くの退職された方たちも同様と思われるが、
過ぎ去る年の会社時代の先輩、同僚、後輩たちの集いより、
家族の団欒はもとより、孫の世話で・・自身の病院の治療、或いは親族、親戚関係の冠婚葬祭が優先となっているのが、
私の周囲には多くなっている。
   
こうした中で、私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。

或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
何よりも思いがけないことは、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
                 

やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、昨年の9月に古稀と称せられる70歳になり、
家内も12月に高齢者入門の65歳となり、お互いに介護保険を支払う無職高齢世帯となった。
       

いつの日にか私たち夫婦は、片割れとなり、残された方は『おひとりさま』となるが、
果たして・・と年に数回は思案したりしている。

しかしながら私は何とか60代を大病もせず卒業できたが、
不幸にも知人の病死、大病で入退院している友人を思い重ねれば、涙を浮かべたりしてきた。

そして現役サラリーマン時代でも、幾たびのリストラ烈風の中、
何とか障害レースを乗り越えて、定年退職を迎えることが出来、敗残者のようなつたない私でも、
五体満足で生かされているのは、選ばれたひとりかしら、と錯覚しながらも微苦笑したりしている。
          
           

私はゴールデン・イヤーズと称される60代を昨年の9月に卒業して、
私としてのこれまでの10年は、我が人生として最も安楽な期間を享受できたりしてきた。

そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人さまと話し合ったりすることが多い。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

そして悲嘆の出来事に遭遇しても、やがて落胆してばかりでは解決にならないので、
プラス思考に転じて、これまで過ごしたりしてきた。
                     
    
私は、散策したりする時、ときおり心の中で唄ったり、人影の少ない道などで、今の時節は、
♪君と好きな人が 百年続きますように・・
一青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌を、かぼそい声で唄ったりする時もある。

私たち夫婦は、この先いつまでもささやかな生活が続くわけでなく、いずれ片割れになる・・。
このような思いを重ねたりして、歩く時もある。


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団塊世代が後期高齢者となり、やがて多死社会の時は、「平穏死」に!?

2015-09-01 14:15:23 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活11年生の70歳の身であるが、
昨夜のひととき、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っていた時、
【団塊世代高齢化で多死社会のピーク到来 「平穏死」に注目】と題された見出しを見て、
どういうことなの、と思いながらクリックしてしまった。

私の家内、妹のふたりも団塊世代であり、私のサラリーマン時代にも多くの知人がいるので、
何かと私は団塊世代に注視してきた。
このような意味合いを含めて、記事を精読した・・。

この記事の原文は、『女性セブン』の2014年10月23・30日号に掲載された記事のひとつで、
ネットに2014年10月13日に公開され、無断であるが転載させて頂く。
          

《・・2025年には団塊の世代が75歳以上に、
2038年には推計約170万人もの人が亡くなる“多死社会”のピークが来るといわれる。

「病院で死ぬ人が在宅死を上回ったのが1976年。
40年前までは家で死ぬ人のほうが多かった。
終末期を病院のベッドで過ごし、過剰な延命治療をすることが
果たして本当に幸せなのか考えてほしいのです」

医師の長尾和宏さんは、穏やかな最期を迎える「平穏死」という考え方を提唱する。

「人が死に向かうときには、体の機能が徐々に落ちて終末期を経てから、やがて死を迎えます。
終末期に食べ物を受け付けなくなるのは自然なこと。
しかし、点滴で無理に栄養を入れ過ぎてむくみ、もがき苦しみながら亡くなるというケースも。

医療の目的は命を延ばすこと。
終末期以降も過剰な延命治療を続ける医療機関も少なくありません。

最期をどこで、どのように迎えるか、選択権は患者本人にあります。
しかし認知症や意識不明で病院搬送された後など、意思表明が困難なことも多いのです。

延命治療をどこまで希望するか、終末期医療の選び方によって、
穏やかな最期を迎えられるということを知ってほしいと考えています」・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
                  
          
私は昨年の7月下旬、愛読している総合ビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】を読んでいる中、
竹井善昭・著【長生きすることは、本当に良いことなのか? 親の介護で未来を奪われる若者たち】
と題された見出しを見て、精読したりした。

要約すれば、昨今の若い世代の人が親の介護で、若い世代の自身の人生が大幅に狂い、
悲惨な実態を克明に描かれた後、
欧米の高齢者の終末期の治療の実態、そして竹井善昭氏ご自身の高度な病状に遭遇した時の真情、
氏の死生観を発露された内容であり、私は読み終わった後、頬に涙が流れていた・・。
          
こうした中で、特に欧米の高齢者の終末期の治療を教示されて、衝撃を受けた。
《・・日本は高齢者に対して、非常に優しい国である。「過剰に優しい」と言ってもよい。
そう言うと、反論したくなる人も多いことはよく分かる。
老人福祉はまだまだ足りていないと主張したい人もいるだろう。
もちろん、僕も日本の老人福祉が完璧だと言いたいわけではない。論じたいのはその「思想」だ。

日本は、ある意味で過剰に人を生きさせようとする。
そのことが、はたして高齢者にとっても若者にとってもよいことなのか、
それで人は幸福になるのか、ということだ。

あまり知られていないようだが、欧米にはいわゆる寝たきり老人はいない。
なぜなら、寝たきりになるような老人は延命処置をしない、つまり「殺してしまう」からだ。
          

たとえば、イギリスでは、自力で食事できなくなった老人は治療しないという。
福祉大国のイメージが強いスウェーデンやデンマークも同様だという。

また、これは聞いた話なので数字が不確かなのだが、
ニュージーランドではある年齢(75歳だったかと記憶している)を超えると、
病気になっても治療しないという。
モルヒネを打つなどの緩和処置はやるが、それ以上はやらないということだ。

実際に、スウェーデンの高齢者医療の現場を視察してきた医師のブログには、
下記のように紹介されている。

日本のように、高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作りませんし、点滴もしません。
肺炎を起こしても抗生剤の注射もしません。内服投与のみです。
したがって両手を拘束する必要もありません。
          

つまり、多くの患者さんは、寝たきりになる前に亡くなっていました。
寝たきり老人がいないのは当然でした。
(読売新聞の医療サイトyomi Dr.「今こそ考えよう高齢者の終末期医療」より)

日本の病院で同じことをやれば、確実に「人殺し」扱いされて、
マスメディアでもネットでも大炎上必至である。
しかし、欧米ではこのような考え方がスタンダードなのだ。

この差は一体何かと言うと、人の尊厳に対する考え方の違いだ。
つまり、何が何でも生かしておくことが正義なのか、
人の尊厳を守ることが正義なのか、という考え方の違いである。

人の尊厳をどう考えるかは、安楽死、つまり「死ぬ権利」を巡る議論の根幹となる問題だ。
安楽死は基本的に自らの意志で死を選ぶことだが、認知症など、自分の意志では死を選べない場合もある。
そのような場合は「殺される権利」というものも考える必要があるだろう。

人は自分の尊厳を守るために、死ぬことを選んだり、殺されることを選ぶ権利があるのかもしれない。・・》
                     

こうした欧米の高齢者の終末期の治療の実態、欧米と日本の死生観の差異を学んだ後、
果たして・・と深く思案させられたひとりである。

このような思いを根底にあるので、
今回の記事で、過剰な延命治療を避け、穏やかな最期を迎える「平穏死」には、
私は望みます、と私は心の中で呟(つぶや)いたりした。

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