夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

多くの御方の年末年始の出費、年金生活者の私は学び、やがて微苦笑を重ねて・・。

2020-01-16 14:15:27 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読している公式サイトの【ファイナンシャルフィールド】を見ていたら、
『 年末年始で最もイタいの出費は 「お年玉」中には10万円使う人も 』、
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市の片隅みに住んでいる年金生活の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
そして私より5歳若い家内と共に、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

こうした中、息子、娘もいなく、もとより孫にいないので、
何かと世の中の世情から遠ざかっていると、ときおり感じたりしている。

そして過ぎし年末年始も、昨年はお互いに入院したので、
我が家の年末年始は自重して、おだやかに我が家で過ごしてきた。

こうした状況でありながらも、世の中の多くの御方の《・・年末年始の出費・・》、
どのようになっているのかしら、と漠然と思いながら、
記事を精読してしまった・・。

この記事は公式サイトの【ファイナンシャルフィールド】の1月9日に配信された記事のひとつで、
無断ながら記事の大半を転載をさせて頂く。

《・・年末年始で最もイタいの出費は 「お年玉」中には10万円使う人も

          

年末年始は、クリスマスや忘年会、年賀状、帰省、お年玉など、何かと出費がかさむ時期です。
お正月の福袋やセールも魅力的ですよね。

年末年始は、仕事が休みの場合が多いので、気がつくと何万円も浪費してしまっていた、
ということもあります。


株式会社プラスワンは、年末年始の出費に関するアンケートを実施しました(※)。
それでは、早速結果を見てみましょう。

年末年始の出費は85.7%がイタいと回答。
年末年始の予算は平均で10万6519円!

「年末年始の出費についてどう思いますか」と尋ねると、
85.7%が「イタい」と回答しました。


また、「年末年始の出費に備えていますか」と聞いたところ、
「備えている」(27.7%)、「少し備えている」(45.0%)と、72.7%が“あらかじめ備えをしている”と回答しました。
12月はボーナス月間ですので、ボーナスを年末年始の活動資金にあてる人も多いでしょう。


次に、年末年始の出費にかける予算を10項目で調査しました。
それぞれの予算の平均は以下の通りです。


クリスマス:9039円
忘年会:7736円
大掃除:2084円
帰省:2万3862円
お年玉:1万5579円
おせち:6908円
新年会:5443円
福袋・初売り・セール:9393円
光熱費:6434円
レジャー費用:1万3016円

これらを合計すると、年末年始の出費の平均予算は、10万6519円になりました。
結構な金額になりますね。

年末年始で最もイタい出費1位は「お年玉」。
お年玉だけで10万円使う人も!

また、「年末年始の出費で最もイタいと感じる出費」について聞くと、
1位「お年玉」、2位「クリスマス」、3位「忘年会」でした。


「お年玉」を最も“イタい出費”と回答した人の中には、
お年玉だけで10万円の出費を予定している人もいたようです。
何人にもあげなくてはいけない場合は、確かにかなりの出費になってしまいます。


クリスマスもプレゼントを買ったり、ごちそうを食べたりで結構お金がかかります。
年末年始を楽しく過ごすためには、多少の出費も致し方ないのでしょうか。

          


また、「年末年始の出費で最も節約している出費」については、
1位「福袋・初売り・セール」、2位「忘年会」、3位「おせち」となりました。


「福袋・初売り・セール」を節約するという人は、過去に無駄な買い物をしてしまった経験から、
そもそも初売りをしているお店に足を運ばないという意見が多く寄せられました。

忘年会は「イタい」で3位、「節約」でも2位でした。


忘年会の出費がイタいと感じている人は、「楽しくないのに無駄に高い」、
「参加したくないのにお金を払うのは苦痛」、「むりやり付き合わされた」と、
忘年会に対しネガティブな意見が目立ちました。


忘年会の出費を節約すると答えた人は、
「忘年会スルー」で乗り切るという回答者が多いようです。
なんだかいまどきな感じがしますね。・・(略)・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

              

今回、多くの御方の年末年始の出費を学び、私も現役サラリーマン時代は、
やはり兄妹の甥っ子の4人が、成人するまで、何かとお祝い金を出してきたし、
もとより『お年玉』は小学生の時であっても、平等に5000円札を同封してきた。

今回の我が家の年末年始は、昨年はお互いに入院体験をしてきたので、
何かと自重して、おだやかに我が家で過ごしてきた。

このような関係で、『クリスマス』はケーキぐらいで、5000円札で少し御釣りきた。

そして『御節料理』に関しては、お互いに好きな単品を数多く買い求めて、
日本酒を一升ばかり買い求めたが、総計で4万5000円ぐらいであった。

これ以外は、忘年会、お年玉、新年会、福袋、レジャー費もない、
稀(まれ)な年末年始となり、結果的には倹約したことに・・と微苦笑をしたりした。

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知っておきたい食べ合わせNGの組み合わせ、こっそりと私は学び、やがて多々教示されて・・。

2020-01-15 14:31:17 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読している公式サイトの【 NEWSポストセブン  】を見ていたら、
『 栄養相殺のNGな食べ合わせ 納豆×生卵 大豆×ひじきなど 』
と題された見出しを見たりした・・。 

私は東京の調布市の片隅みに住んでいる年金生活の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
 そして私より5歳若い家内と共に、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、私は齢ばかり重ねて、恥ずかしながら無知なことが多く、
《・・栄養相殺のNGな食べ合わせ・・》って・・どのようなことなの・・と思いながら、
こっそりと記事を精読してしまった。

この記事の原文は、『女性セブン』の2020年1月16・23日号に掲載された記事のひとつで、
関連の公式サイトの【 NEWSポストセブン  】に1月14日に配信され、無断であるが転載させて頂く。

《・・栄養相殺のNGな食べ合わせ 納豆×生卵 大豆×ひじきなど 

          

色々な食べ物をバランスよく、一緒に食べるのがよい。
そんなふうに思っていないだろうか。

しかし、お馴染みの食べ合わせに潜む“大きな落とし穴”が。
せっかくバランスのいい食事を心がけても、栄養素の吸収を阻害したり、健康を害することも。
知っておきたい食べ合わせNGの組み合わせを紹介する。

※監修/白澤卓二さん(白澤抗加齢医学研究所所長、医学博士)

◆納豆×生卵

納豆に含まれる皮膚や粘膜を維持して美肌を作る栄養素・ビオチンは、
生卵の卵白にあるたんぱく質・アビジンと結合すると、体内に吸収されにくくなる。
納豆にのせるなら卵黄のみに。


◆トマト×きゅうり

きゅうりに含まれる酵素・アスコルビナーゼが、トマトのビタミンCを破壊。
ただしアスコルビナーゼは、熱や酸に弱い。
炒めものや酢のもの、漬けものなど、調理して食べるとよい。

          

◆大豆×ひじき

大豆サポニンは、腸に働きかけ、脂質を洗い流して排泄を促す効果があるが、
食物繊維が豊富なひじきと合わせると、相乗効果で腸を過剰に刺激し、下痢になることがある。


◆ちりめんじゃこ×大根おろし

生の大根に含まれるリジンインヒビターという抗体が、
ちりめんじゃこに含有の細胞を修復する必須アミノ酸・リジンの吸収を妨げる。


◆ぎんなん×日本酒

アルコール代謝にはビタミンB群が必要だが、
ぎんなんのメチルピリドキシンが、ニキビを減らして美肌を作るビタミンB6の働きを妨げてしまう。


◆きゅうり×ビール

きゅうりに含まれるカリウムは、体内に溜まった塩分や水分を排出してくれる。
新陳代謝を活発にするビールと一緒に摂取すると、利尿作用が高まりすぎ、脱水症状のリスクが。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

              

今回、遅ればせながら知っておきたい食べ合わせNGの組み合わせ、
白澤抗加齢医学研究所所長の白澤卓二医学博士の監修に導かれて、多々教示された。

そして私は75歳になっても、何かと無知なことが多い、と微苦笑をした。

たとえば《納豆×生卵》に関しては、30代の頃まで納豆に生卵をかけて、
温かなご飯の上にかけて、美味しく頂いたりしてきた。

65歳の高齢者になると、お醤油を少しかけて納豆を温かなご飯の上にかけて、愛食してきた。
いずれにしても納豆は、何かと栄養の基本と思い、70年近く愛食してきたが、
生卵とは相性が悪い、と初めて学び、微苦笑をしている。

或いは《きゅうり×ビール》に関しては、
20代の頃より胡瓜(きゅうり)にお味噌を付けた『もろきゅ』を、
ビールのお友達として、今日まで愛食しているが、
相性が悪いのか・・と微苦笑をしている。

いずれにしても、私は健康寿命を意識しているので、
今回、白澤卓二医学博士より学んだことを食事の際に注意して、
明るく楽しく美味しく食事を頂くように・・と微笑んだりしている。

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何かと単細胞の私、年金生活15年の昼食を思い馳せ、独り微笑みを重ねて・・。

2020-01-14 13:42:28 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住んでいる年金生活の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、 
そして私より5歳若い家内と共に、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

私は民間会社で35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めたので、年金生活は丸15年が過ぎ、早や16年生の身である。


そして定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。

そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すのは天敵と確信し、
平素の買物専任者を自主宣言したりした。

或いは昼食だけは、お互いに制約することなく、自由な時間で、
お互いに殆ど我が家で、きままに食べたりしている。

          

こうした中、年金生活を始めた当初は、冷凍のチャーハンを電子レンジで温めて、
こよなく愛食してきた。

私は何かと単細胞の為か、美味しいと思ったら長らく愛食するタイプである。

やがて1年半ぐらい愛食してきた『冷凍のチャーハン』に別れを告げて、
スーパーのお弁当売り場で見つけた『かつ丼』を食べて、やがて2年ぐらい愛食してきた。

この後は、アンパンの『つぶあん』、『こしあん』をひとつづつ食べて、
やはりこの世の贅沢な食べ物のひとつだ、微笑んだりして、やはり2年ぐらい愛食してきた。

しかしながら肥満体の近道と恐れて、やむなく自制して、
四週間に一度だけとしてきた。

そして多彩な菓子パンを食べたり、或いはスーパーのお弁当売り場で見つけた多彩な弁当を食べ、
混迷した数年が続いたりした。


ここ数年は、食パンの8枚切りを買い求めて、幾重かのロースハムをサンドイッチして、
帝国ホテルより豪華だよねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら食べたりした。

          


そして最近は、偶然にスーパーの菓子パンのコーナで見つけた『石窯』ライ麦粒のパンに、
瞬時に魅了されて、愛食して2週間ばかりとなっている。

          

            ☆異例であるが、記念として撮ったりした《タカサキベーカリー》☆

2枚入り石臼挽き小麦であり、お値段も160円前後で、

私はコーヒーを飲みながら頂いている。

この後、リンゴ一個を食べて、やがて午後の3時には、ヨーグルトを箱の半分を食べたりしている。

このような身勝手な昼食を頂き、過ぎし愛食してきた食物に、
哀惜を秘めながら、その当時として私の最上の食べ物だったねぇ・・と微笑んだりしている。

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幾つになっても、亡きの母に私たちは見守られて、早や20数年は過ぎ去り・・。

2020-01-13 18:19:21 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

こうした中、私の母の命日が近づくと、私たち夫婦と私の妹の2人で、
この時節に4人でお墓参りをしているのが、恒例となっている。

本日、家内は急遽体調がすぐれず、やむなく欠席となったが、
私は妹の2人と待ち合わせしている小田急線の狛江駅の付近にある喫茶店に向った・・。

そして10時過ぎに私たちは合流して、通称『泉龍寺』と称されるお墓に向かった。

                       
              
私の母は、婦人系の癌で入退院を3年ばかり繰り返した後、
1998年(平成10年)1月12日を過ぎ、13日になったまもない深夜に亡くなったのは、
私は53歳の時であった。

少し前の年末に体調が悪化して、入退院をしていた都心の広尾にある日本赤十字の病院に
救急車で運び込まれた。

そして年始を過ぎると、医師より危篤状態が続いていると教えられたので、
私は会社で勤務していた時は、何かと少し緊張気味で、死がまもないことを覚悟はしていた。

こうした中、12日に会社より帰宅し、家内と夜の9時過ぎに食事し、
平素は弐合徳利で辛口の日本酒を弐合ばかり呑んでいた私は、
さすがに自重して、ぐい呑みで少し呑んだりしていた。

まもなく夜10時過ぎに長兄より連絡があり、母の容態が更に悪化した、と聞いたりし、
長兄夫婦、そして私たち夫婦は長兄の自動車で病院にかけつけた。

母は少し息苦しいそうであったが、私たちは死去の前に駆けつけられることが出来たのは、
何よりの慰めと思ったりした。

そして私にとって甥にあたる長兄の二人の青年も、まもなく到着したり、
妹のふたりも着き、深夜の1時過ぎに、私たちに見守れる中、
母は78歳になって、わずか11日ばかりで他界した・・。


そして前年の1月に新年会を兼ねて、母は77歳を迎えるので『喜寿の祝い』をしたこともあるが、
78歳になったばかりに他界され、私は53歳の時であった。

             

やがて私の生家である長兄宅の一室に母の遺体を安置した後、
葬儀は私の実家の長兄宅で行うことを長兄と私、親戚の叔父さんなどで取り決めた。

仮通夜はどんよりとした曇り空の寒い一日となり、
翌日のお通夜の日の朝から、この地域としては珍しく15センチ前後の風まじりの大雪となった。
公共の交通機関も支障が出たり、ご近所のお方のご尽力で、生家、周辺の雪かきをして頂いたりした。

そして、翌日の告別式は積雪10センチ前後の晴れ渡った中で行われた後、
火葬場に向う車窓から、除雪された雪がまぶしく私は感じられたりした。

やがて帰宅後、『初7日』が行われ、忌中(きちゅう)の法事を終った・・。

                                                 

私の祖父と父は、私が今住んでいる近くで、農家で程ほど広い田畑を使用人、小作人だった人たちの手を借りて耕し、
雑木林、竹林などがある都心の郊外に見られる旧家であった。

私は長兄、次兄に続いて1944年〈昭和19年〉の秋に生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので跡取りの憂いなくなり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私は幼児なりに感じ、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

やがて1953年(昭和28年)の3月になると、父は前の年から肝臓を悪化させ、
近くの内科専門医院に生家に幾たびか来宅して頂き、
生家で治療を受けながら寝たり起きたりした父は、やがて42歳の若さで亡くなった。

そして祖父は跡継ぎの肝心な父が亡くなり、落胆の度合いも進み、最寄りの大学病院に入院している中、
胃癌が発覚して、やがて翌年の1954年(昭和29年)の5月に、亡くなった。

この当時のどの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹である二十歳前後の未婚の叔母ふたり、
そして長兄は小学6年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、家は急速に没落し、生活は困窮となった。

            

このような生活苦の中で、やがて母はやむなく田畑の一部を売却して、
モルタル造りのアパートを経営に転業した後、
やがて私が都心の高校に入学した1960年(昭和35年)の春、
私たち兄妹は中学、高校、そして大学が進むあいだ、
入学金や授業料はもとより、何よりも育ち盛りで家計が多くなった。

そして母は、ラブホテルのような旅館を小田急線とJRの南武線の交差する『登戸駅』の多摩川沿いに建て、
仲居さんのふたりの手を借りて、住み込みながら奮闘して働いた・・。
こうした関係で、やがて私たちは、世間並みの生活レベルになったりした。

この当時の母は、里子として農家に貰われ、やがて跡取りの父と結婚し、
これといった技量といったものはなく、素人の範囲で何とか子供の五人を育ちあげようと、
なりふりかまわず連れ込み旅館を経営までするようになった、と後年の私は思ったりした。

そして後年に私は知ったことは、自治体から交付される調理師の免許さえあれば、
このような旅館は経営認可でき、尋常小学校しか卒業していない母は、
調理師の講習を得て、免許証を習得した、と私は母から教えられたりした。

確かに母の念願したとおり、兄ふたりと私も大学を入学し、
妹ふたりは高校を出たあとは、専門学校に学ぶことができたりした。

この間の母は、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
子供たちを何とか世間並みの生活に、と働らいてくれた成果として、
ふつうの生活ができ、やがて私達5人の子供は成人できたのは、まぎれなく事実である。

             

まもなく、この地域で10数軒あったラブホテル、連れ込み旅館は、
世情が変貌して衰退する中、やがて母はアパートに改築した。
          
この当時の母は食事に関しては質素であっても、衣服は気にするタイプであったが、
古びたアパートの経営者では、ご自分が本当に欲しい衣服は高く買えなく、
程ほどの衣服を丸井の月賦と称せられたクレジットで購入していた。
         
やがて昭和の終わる頃、古びたモルタル造りとなったアパート経営をしていた母に、
世間のパプル経済を背景に、銀行からの積極的な融資の話に、ためらいながらやがて応じて、
賃貸マンションを新築することとなった。

平成元年を迎えた直後、賃貸マンションは完成した。
そして3ヶ月過ぎた頃、
『あたし、絹のブラウス・・買ってしまったわ・・少し贅沢かしら・・』
と母が高揚した明るい声で私に言ったりした。

『お母さんが・・ご自分の働きの成果で買われたのだから・・
少しも贅沢じゃないよ・・良かったじゃないの・・』
と私は心底から思いながら、母に云ったりした。

この前後、母は周辺の気に入ったお友達とダンスのサークルに入会していたので、
何かと衣服を最優先に気にする母にとっては、初めて自身の欲しい衣服が買い求めることが出来たのは、
私は、良かったじゃないの・・いままでの苦労が結ばれて、と感じたりしていた。

こうした中で、母はダンスのサークルのお友達と初めて喫茶店に行き、
紅茶、コーヒーを飲みながら談笑した、
と私は母と週間ニュースのようになった電話で、教えられて微笑んだりした。

             

母が婦人系のガンが発見されたのは、それから6年を過ぎた頃であった。
私たち兄妹は、担当医師から教えられ、当面、母には悪性の腫瘍があって・・ということにした、

それから1年に1ヶ月程の入院を繰り返していた。
日赤の広尾病院に入院していたが、母の気に入った個室であって、都心の見晴らしが良かった。

やがて1997年(平成9年)の初春、母の『喜寿の祝い』を実家の長兄宅で行った。
親族、親戚を含めた40名程度であったが、
母は集いに関しては、何かしら華やかなさを好んでいるので、私たち兄妹は出来うる限り応(こた)えた。

そして翌年の1月13日の初春の頃、死去した。 

私たち兄妹は無念ながら次兄は40歳前に自裁され、欠けた4人となり、
そして60、50代となった私たち兄妹は、
もとより亡き母へのつぐないもこめて、葬儀は生家の長兄宅で出来うる限り盛大に行った。

母は昭和の時代まで何かと苦労ばかりされ、
晩年の10年間は、初めてご自分の好きな趣味をして、ご自分の欲しい衣服を買われたのが、
せめての救いと思っている。
           
                       

やがて『四十九日』の法要の日、ときおり雪が舞う寒い日となったが、
『お母さん・・私を忘れないでねぇ、と言っているように、雪が降ったりしている・・』
と私は本通夜の雪が降った情景に思いを重ねて、妹、そして叔母に微笑みながら言ったりした。

そして『百日』、『新盆』の法事が過ぎて、
その後は『一周忌』、『三回忌』、『七回忌』、そして2010年(平成22年)の『十三回忌』の法事があったりした。

この法事以外は、この間に私たち夫婦と妹ふたりで、命日が近づくとお墓参りをしている。

長兄も多忙で、そして長兄の子の青年たちを含めた家族のスケジュールこともあり、別にお墓参りをしているので、
何となく私達4人は、お互いに日取りを調整して、お墓参りの後、 付近の食事処で昼食をしながら懇親会を重ねてきた・・。

最初の頃は、お互いに勤めていたので、命日の前の休日が多かった。
そして私は60歳を過ぎて定年退職になったり、やがて数年過ぎた後は、妹のふたりも60代となった。

たまたま本日の13日は妹のひとりの関係で、母の命日に際してのお墓参りの日となった。

                        

寺院の境内は広く数多くの大木があり、冬晴れの暖かさに恵まれ、風もなく静けさであった。

そしてお墓に行き、私たちは墓石を水で清め、生前の母が好きだったお花を挿し、
お米を備え、母の好みであったお線香を奉げた。
そして紫煙は香りを残しながら、ゆったりと空に向かい昇っていく・・。

花の匂い、お線香の香り中、もとよりお墓参りは生者の慰めと私は深く思ったりしているが、
亡くなった父と母、そして祖父に守られ、
こうして私は生きてこられてきたので、私は感謝の一心で、やがて手を合わせたりした。

生前の母と私の家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。

この後、母のおもかげがよぎっていった。

私の場合は、父は私が小学校の2年の時、
そして一年後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

このためか、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、言葉づかいが想いだされる。

『命日のお墓参り・・このようにおだやかで良かったわ・・』
と妹のひとりが私に言ったりした。

お線香の煙が芳香を残して、まばゆい陽射しの空の中、立ち昇りながら消えいくのを見たりしていた・・。


私たちは幼年期よりお互いに『・・ちゃん』付けで呼び合っているので、
平素、お互いに連絡し合ったりする中で、亡くなった母の話題になったりすると、
『XXちゃん・・あの時は・・お母さんは・・このように言っていたょ・・』
とお互いに言ったりしている。

このように私たちは、幾つになっても、亡くなった母に見守られて、今日に至っている。

                        

この後、個室でゆっくりと昼食を頂くことができる食事処を妹のひとりが予約していたので、
小田急線の新百合ヶ丘駅の付近にある『梅の花』に移動した・・。

やがて私たち3人は、ビールを呑みながら、新春にふさわしい多彩な料理を頂き、
お互いに談笑を2時間ばかり、懇親を重ねたりした。

こうした中、お互いに過ぎ去ったこの一年の出来事のこぼれ話しなどを、
微苦笑しながら私は、妹のふたりに話したりした・・。

私は今年の誕生日を迎えると76
歳となり、妹は74歳と72歳となる身であるが、
心身健在であればこそ、こうして母の命日に近い日に、
お墓参りをしたり、その後は昼食を兼ねて懇親できる、と思いを深めたりした。

私の現役時代の50代の時、私と余り変わらない齢の同僚の方が亡くなったり、
先輩の方の中で、60歳を少し過ぎた時、突然に訃報に接したりしてきたのである。
その上、5年前には私と余り変わらない65歳、或いは59歳の知人も死去された・・。

そして私は昨年の新年早々、心臓を悪化して、8泊9日の入院生活をしてきた。

このような体験もあり、いつの日にか私も、この世と告別するが、
自助努力も大切であるが、神様か仏様の采配によるので、
私なりに1日を大切にし、切実に過ごしたりしてきた。

          

この後、私たちは駅まで数分ばかりの道を歩きながら、
『毎年・・こうして・・お互いに元気で、逢えるといいね・・』
と私は妹の2人に言ったりした。

『そうよねぇ・・お互いにねぇ・・』
と妹のひとりが私に微笑みながら言ったりした。

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ときには漠然としながらも、私が感じる浄土(じょうど)の世界は・・。

2020-01-12 13:13:50 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅み住む年金生活の75歳の身であるが、
私は民間会社で35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めたので、年金生活は丸15年が過ぎ、早や16年生の身である。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古びた一軒家に住んでいる。
       
こうした中、昨日の朝、私は都立・神代植物園に訪ねようと思い立った・・。    

この公園の、園内にある雑木林があり、
私は幼年期に農家の児として育った為か、身に心も安らぐ所となっている。

             
                                      
こうした根底には、私が通った地元の神代中学校の付近にあり、
入学した1958年(昭和33年)の当時は、神代緑地として存在し、この周辺は雑木林、畑などであった。

やがて1960年(昭和35年)の春に中学校を卒業した後、
確か翌年の1961年(昭和36年)の秋に、拡大と整備され上、
神代植物園と改称して、都内唯一の植物公園として開園された・・。

この間の私の中学時代は、生家より自転車で通学し、ときおり開園前の雑木林の中とか周辺を下校の時などに、
学友と自転車で走りまわったりしていた。
その後、人生の節目などを含めて、四季折々通ったりしてきた。
               
そして私が心に迷ったりした時などは、樹木を眺めたり、それぞれの花に心を寄せて、
心の濾過をして浄化されたりしてきた。         
                                
定年後の年金生活してきた中でも、殆ど独りで、四季折々訪ねていたが、
ここ数年は二十四節気(にじゅうしせっき)のように月に二回ぐらい通い、
数多くの落葉樹、常緑樹、花木、花を移りゆく情景を一期一会と思いながら鑑賞している・・。

          


このような深情を秘めている私は、冬の淡い陽ざしの中、11時半過ぎに正門より、
入園した・・。

そして正門付近の展示場には、「冬ボタン」が展示され、
つたない人生行路を歩んだ私でも、歓迎しますょ、と暖かな花が飾られていた。

何かしら、この「冬ボタン」は、もともと春に咲く品種を温度調節し、冬に咲くように栽培し、
春だと勘違いしているので、葉も青々と茂っています、と解説されていた。

そして冬と春に2回咲く品種の「寒ボタン」は、冬の花の時期は落葉しているので、
「冬ボタン」との差異が簡単に分かりますょ、と補記されていた。

          


やがて松林の近くをあるゆるい道を上りきると、
木のベンチがあり、ロウバイ(蠟梅)がひっそりと咲いていた。


そして前方には、数多くの雑木の中で、老朽化した休息処の東屋(あずまや)がある。


まもなく冬の陽ざしが増して、私は暖かさを感じながら、私はこうした情景に見惚(みと)れていた。

          


こうした時、私は漠然としながら浄土(じょうど)の世界・・、
こうしたことなのかしら、感じ深めたりした・・。

過ぎし10年前の頃、浄土じょうどは、仏教の世界に於いて、
すべての煩悩や穢(けが)れを離れて、仏様や菩薩が住む清浄な地、と私は学んだりしてきたが、
それぞれの御方の死後の安らかな世界、と解釈している・・。


そして私は、これまでの人生の中で、多くの知人、友人が死去されて、
私は哀悼をささげてきたが、いつの日にか私は、あの世に行ったとき、
再会したい多くの御方がいる。

そしてこうした御方と、冬の陽ざしが差す処で、お元気そうで・・
とお互いに談笑できることを願ったりする。


こうした瞑想を重ねていると、鐘の音が聴こえてきた・・。
都立の神代植物園に隣接した深大寺の山門の近くに鐘楼堂があり、
たまたま時を告げる鐘が撞(つ)く時であった・・。            

            

そして私は夢幻(むげん)と現(うつつ)の世界が交差する中、はっきりと現世に戻り、
やがて植物園を辞したりした。

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『鏡開きの日』が終え、やがて『女正月』かしら、ぼんやりと75歳の私は、思いを馳せたりして・・。

2020-01-11 09:31:03 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の75歳の身であるが、
今朝ぼんやりとカレンダーを見ると、11日は確か『鏡開きの日』だったよなぁ、
と思ったりした。

そして数多くの人が3連休を迎えて、ご家族でゆっくりと過ごされ、
家庭を守る主婦たちは『女正月』として、今年初めてのんびりとくつろげる日かしら、
と私は思ったりした・・。

もとより家庭を守るご主婦たちは、昨年の中旬までにお歳暮を済ませた後、
その後は大掃除、年末年始の準備をしたり、御節料理の買物、料理などで多忙な日々を過ごしてきた。

そして新年を迎え、ご家族一同で初詣をしたり、新年会をされたりした後、
6日には仕事始めの一家の主(あるじ)の夫を送りだし、7日の朝食の代わりに『七草がゆ』を頂き、
そして8日にはお子様も三学期の『始業式』となる。

そして本日の11日には、お供えの鏡餅を下ろし、『鏡開き』をして、
小豆(あずき)がゆを食べたり、 何かしら初めてほっとご家族で過ごすことができるのは、
この時節と思ったりした・・。

私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなかったので、
我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
叔母、長兄、或いは友人のご家庭を時折見たりしてきたので、
このようなことを長らく思ったりしたのである。

大正時代の頃から日本の多くの人たちは、このように過ごされ、
特にご婦人たちがゆっくりとした気持ちになれるので、『小正月』と命名されたり、
『女正月』とも称せられたりしてきた。

          

私は1944年(昭和19年)の秋に生を受けて、
東京オリンピックが開催されて1964(昭和39)年に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、やがて敗退し、
ある民間会社に何とか中途入社できたのは、1970年(昭和45年)の春であった。

職場で共にした多くは、新卒の団塊の世代であり、妹のふたり、そして家内もこの世代の人である。

そして私たちの先輩たちは、1960年(昭和35年)の前後から、日本の高度成長と共に、
猛烈に社内で働いて、一家の収入の責務を負い、
妻は専業主婦となり、子供の育児などを含めて、家庭内の専守防衛に徹して、夫の後方支援となっていた。

このような先輩たちを学びながら、私達の世代、そして団塊の世代も邁進した。

一家の主(あるじ)が懸命に働ければ、年収は確実に上昇し、
専守防衛の専業主婦に収入を渡すことができ、喜びを共にできた時代であり、
確かに明日に希望を託すことの出来た時代であった・・。

こうした中で、ささやかながら、白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機など、
その後は自動車、クーラー、カラーテレビなどの耐久商品を少しつづ購入しながら、
住宅を一生の高い買物と思いながら、ローン返済に奮闘したり、
子供の教育にも自分たちの夫婦より、少しでも高いレベルと思いながら、捻出して、
家族それぞれが悦びを共に享受できた時代であった。

         

やがて1989年(平成元年)11月初旬に東ドイツが市民に寄る『ベルリンの壁』が崩壊した後、
やがて米ソの冷戦構造が終結され、
世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済そして社会が一変した・・。

世界は社会共産経済も消滅し、世界の主要国は自由経済となり、
日本は東ヨーロッバ、アジアの諸国などの経済競争力に巻き込まれて、経済は低下した。

こうした中で、日本に於いては、1991年(平成3年)にバブル経済の崩壊後は、
日本経済の足かせになってきた企業の《雇用・設備・債務》の過剰問題は、
民間会社の多くは自助努力に基づいて、過酷な程、事業の再編、人員削減を行なってきた。

私は中小業の民間会社に勤めた身であったので、
まともに大波を受けたりし、多くの先輩、同僚たちと別れ、
そして残された私たちは困苦の時期を過ごした体験もある。

この間、数多くの民間会社のサラリーマンはもとより、多くの国民が困惑した時期を送られた、
と私は確信を深めたりした。

          

そして周知の通り、失われた20年の政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化し、
ここ10年は特にたえず短期に成果を問われる勤務となり、
たとえ大企業の正社員であっても、安住できない時代となり、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉の人たちは、このように過酷な状況の中で奮戦している。

もとより私達が30、40代まで昭和の時代と共に過ごし、
やがて昭和の時代が終わった頃から、『昭和妻』と称せられた専業主婦の家庭も激減し、、
数多くの家庭も共稼ぎ時代となったのは、まぎれなく30年近い実態となっている・・。

このように無力な年金生活の私は、時代に翻弄され、明日に希望を託せない閉塞の現世に、
ときおり思い馳せたりすると、涙を浮かべたりする時もある。

          

確か5年前の今頃、たまたま私は家内と買物に出掛けた時、
私の甥っ子である長兄の子供に逢った・・。

長兄の子供といっても、42歳となり、若き奥様を連れ立っていた・・。

『女正月の日だから・・たまには・・のんびりとお2人で・・』
と私は甥夫婦のふたりに云ったりした。

『叔父様・・女正月は昭和妻の名残りだわ・・
叔父様たちには悪いけれど・・当世では昭和妻は死語ですょ・・』
と甥の若お嫁ちゃんは、微苦笑しながら私たち夫婦に云ったりした。

この後まもなくして、私達は別れたが、
甥夫婦の後ろ姿を眺めながら、確かに甥夫婦にしても、
妹の子供ふたりも40代で夫婦共稼ぎをしながら、仲良く堅実に生活している状況に、
私は思い重ねたりし、私たち夫婦が過ごしてきた時代と、
大きく変貌していることに改めて実感させられたりした。

こうした心情を秘めてきた私は、働いて下さる諸兄は多忙の中、せめてこの3連休ぐらいは、
愛する妻と可愛い子供と共に、ご家族でのんびりと過ごされれば・・と無力の私は願ったりしている。

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ここ数週間、冬眠のような午後の時を過ごし、我ながら微苦笑をして・・。

2020-01-10 15:54:11 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅み住む年金生活の75歳の身であるが、
私は民間会社で35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めたので、年金生活は丸15年が過ぎ、早や16年生の身である。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古びた一軒家に住んでいる。
       
こうした中、私が年金生活の2004年(平成16年)の秋の当初から、
我が家の平素の買物は、 私は自主的に買物専任者として宣言し、 家内から依頼された品を求めて、
独りで殆ど毎日、スーパー、専門店など歩いて行き、 買物メール老ボーイとなっている。


この後は、やはり自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。


私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
結婚した当初からでも、 何かと家内と談笑したり、 やがて年金生活の中でも
ご近所の奥様、ご主人などと明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、 見知らぬ男性、 女性グループの御方たちと、
話しかけられたり、或いは話しかけたりして、 立ち止まって談笑したりしている。


このような午前中の過ごし方を定例事項のように過ごしてきた・・。
          


例外として、家内のボディガード、お供そして荷物持ちで、3週間に一度ぐらい駅前で買物、
或いは年に3回ぐらい都心の新宿にある伊勢丹、小田急、京王などのデパートに買物、
そして庭の手入れ、国内旅行、懇親会、冠婚葬祭などで小用がない限り、定年後の丸15年を過ごしてきた。


こうした散策することは、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。
              

そして
私は定年後に年金生活の始めた直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、 と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、
戸惑いながら甘受したりした。

そして午後から夜の大半は、私は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、

ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、 或いは音楽も聴いたりしている。

そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。

          

このように私は過ごしているが、ここ数週間は冬眠のような午後の時を過ごしている。

午後の2時過ぎ、電気毛布の暖かさのある布団(ふとん)にもぐり、
本を読んだりしてきた。

たとえば塩野七生さんの著作の『十字軍物語』(新潮文庫・1巻~4巻)を読んだりしているが、
殆ど1時間半ぐらい読み、中断して、やがて寝付いてしまう・・。

そして夢の中で、塩野七生さんの著作に導かれて、十字軍が活躍した当時の欧州、中近東の状況が、
カラーで鮮明に映し出されて、それぞれの御方の思惑を学び、
そうでしたか・・と無学な私は学んだりしている。

やがて布団(ふとん)の中で目覚めた後、
また昼寝をしてしまった、と微睡(まどろみ)ながら微苦笑をしたりしてきた。

もとより平日の午後に昼寝ができることは、年金生活の特権のひとつ、
独り苦笑したりしてきた。

しかし午後の大切な時間が、ふたつぐらい用事が押し寄せ、
何かとノロマの私は、読書と昼寝の時間がなくなってしまう日もある。

たまたま本日も、読書と昼寝の時間がなくなり、少し戸惑いながら微苦笑している。

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早春の暖かさは南の風に乗って、都心の郊外に住む私は、微笑みを重ねて・・。

2020-01-09 14:16:07 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅み住む年金生活の75歳の身であるが、
私は民間会社で35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めたので、年金生活は丸15年が過ぎ、早や16年生の身である。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古びた一軒家に住んでいる。
       
そして私の生家に近くにあり、この地域に私は結婚前後5年を除き、早や70年となっている。

昨日の午前中のひととき、いつものように付近の遊歩道を歩いていたら、
どんよりとした曇り空の中、ときおり北風が強く吹き、
少し寒いかしらと思いながら防寒服の襟を立てて、手袋をしたりした・・。

そして私は歩きながら、何かと単細胞の私は、
♪春は名のみの風の寒さや・・かぼそい声で『早春賦(そうしゅんふ)』の歌を唄ったりした。

          

本日の午前中、いつものように買物に行く前、
陽射しは燦燦と、風もなくも暖かなく、防寒着も不要かしら、と微笑んだりした。

地元の天気情報を視聴すると朝の6時は10度、昼下がり15度前後、夜の6時は9度前後で、
冬晴れの日中となりが、平年より5度ぐらい暖かい日となる。


過ぎし6日は『小寒(しょうかん)』となり、
『小寒』は古来より、寒さの始まりの『寒の入り』と伝えられ、
この頃から寒さは厳しくなり、その後の1月20日には『大寒(だいかん)』を迎えて、
一年で最も寒い時期と伝えられている。

そして『小寒』から『大寒』までの15日間、
その後の『大寒』から2月4日の『立春(りっしゅん)』までの15日間の合計30日間を『寒の内』と
古人から長らく伝えられてきている。

『寒の内』と称せられる『小寒』、『大寒』そして『立春』までの時節は、
旧暦であるので、今の暦(こよみ)に於いては2月中旬頃から始まると思われるが、
私の住む地域でも、寒い時節となる。
      
こうした中で、3月中旬のような暖かい日もあれば、平年より寒い日もあり、
この時節は三寒四温の時節、と遥か千年前の頃から多くの人々から名言されている・・。

やがて女の子が全国的に祝賀される3月3日の『桃の節句』まで、
何かと天上の気候の神々のきまぐれな采配に寄る三寒四温する中、
私は日本水仙、福寿草、椿(ツバキ)、或いは白梅に励まされながら、
冬麗の美を心の友と私は思いながら、年金生活の冬の季節を15年ばかり過ごしたりしてきた。

          

今朝、6時過ぎに目覚めた時、ぼんやりと昨日は・・と思い浮かべたり、
今日は・・と予定事項を思い浮かべたりしている。

そして布団のぬくもりを実感して、ぼんやりとしていたら、
一年前は病院に入院していたよなぁ・・と微苦笑したりした。

昨年の新年そうそう、心臓の悪化に伴い、循環器専門の府中市に所在する『榊原記念病院』に、
1月4日より8泊9日の入院した。
         

          
        

昨年の1月3日の夕食を家内と共に頂いた後、
やがて私は9時過ぎに布団にもぐり、本を読だりしている中、寝付いたりした。

そして10時過ぎ頃、左胸が圧迫され、強く痛みを感じて、
『玉川病院』の医師のアドバイスに基づき『ニトロペン錠』を舌先で舐(な)めたりした。

やがて20分過ぎても鎮静化しなくて、やむなく2錠目の『ニトロペン錠』を舐(な)めたりし、
今回果たして『ニトロペン錠』鎮静化がするのだろうか、と思いながら、
痛みに耐えたりしたが、効果なく3錠目の『ニトロペン錠』を舐(な)めたりした時、
私は家内を起こして、救急車で病院に行く、と決意したのは11時半過ぎであった。

やがて救急車が我が家に到着して、救急スタッフの御方が昨今の私の状況を把握し、
循環器専門の府中市に所在する『榊原記念病院』を進言して下さった。

そして『榊原記念病院』に到着後、10数名の医療スタッフの中で、
私は中央診察台で心電図、造影剤を入れてカテーテル、そしてCTスキャンなどの精密検査、
或いはレントゲン終えたのは、早朝3時半すぎであった・・。

やがて『胸膜炎』(追記・急性冠症候群)と病状とされ、しばらく経過観察したく・・
と入院が余儀なくされて、結果的に8泊9日の入院となったりした。

こうした中、痛みは当日の4日の夕方には解消したが、
集中治療室の専門部屋より、3名部屋、やがて4名一般部屋に移動したが、
予測した以上に、遥かに快適な部屋であった。

          

そして私は自身の健康に関して、タバコの喫煙に自身に甘えてきたが、
担当医師の勧めもあり、遅ればせながら禁煙を決意したりした。

このようなことをぼんやりと、思い浮かべて微苦笑した。

そして私は暖かな陽ざしの中、自宅の近くに流れる野川の川沿いにある遊歩道を歩いたりした・・。

この時節の早春の暖かさは、南の風に乗って、都心の郊外でも平年よりも暖かい贈り物を
天上の気候の神々より頂いた、と微笑んだりした。
          
          
          
こうした中、生きていればこそ、こうしてのんびりと早春の暖かさの中で・・
と思い馳せて、独り微笑みを重ねたりした。

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テレビ番組の『はじめてのおつかい』を視聴して、やがて私の幼年期を思い馳せて・・。

2020-01-07 13:24:03 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の75歳の身であるが、
昨日の夜、
家内といつものように居間の食卓で1時間ばかり談笑しながら、
夕食を頂ただいた後、
テレビからあどけない幼児の声が聴こえた・・。


そして何かしら幼児が買物をしているような声が聴こえ、

まもなく私はテレビの画面を向かい、
『この番組・・何なの?・・』
と私はテレビを視聴している家内に私は訊(き)いたりした・・。

『小さな子供が、初めて買物を体験する特集番組・・『はじめてのおつかい』・・
この特集・・人気があるみたい・・』
と家内は私に教えてくれた。

この後、私もテレビを視聴したのであるが、
幼児が母親から買物を依頼されて、のこのこと買物先に行き、
あどけない表情としぐさで、何とか品を買い求めて、帰宅に向うシーンであったが、
私は圧倒的な感動をさせられした・・。

やがて、私はコーヒーを飲みながら、私の幼年期に初めて買物をしたことなどを思い馳せたりした・・。



私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、

祖父と父が健在だった頃までは、私が今住んでいる近くで農家をしていた。

こうした中、私が地元の小学校に1951年〈昭和26年〉の春に入学した当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、 程ほど広い田畑を耕していた。
そして所有している田んぼの中に小さな川が流れ、湧き水もあり、 竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、 
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が多かった・・。

長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。

もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、

万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。



私が地元の小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春であり、
それ以前は周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。

託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。

幻燈機は若い方には不明と思われるが、

現代風に表現すればモノクロ(白黒)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。

私も実家で、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。

総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に、
確かなストリーの
意味合いも理解できなくとも、
なぜかしら感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。



こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、
『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。

私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であった。

この当時は、駅の周辺は商店街があったが、実家は駅までは15分の道のりであり、
この店しかなかったのである。

私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
人気のない村道を歩き、この店に行った。

そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と云ったりした。

店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡を満たし、その後は一升瓶に移したりした。

この当時は、周囲の農家の殆どは、冠婚葬祭で一升瓶を贈答したり、
年末年始とか行事に限り、
何本かの一升瓶を購入していたが、

平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの時代であった。

この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。

『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に云いながら、重くなった一升瓶を受け取った。

そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。

そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。



やがて私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、 生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたりした。

昨今、私はスーパーで買物をしている時、丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、
ときおり幼年期に酒屋さんから頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。

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『小寒』を迎え、これからは冬麗の季節かしら、と老ボーイの私は秘かに微笑みを重ねて・・。

2020-01-06 12:18:10 | ささやかな古稀からの思い

私は都心の郊外に住む年金生活の老ボーイの75歳の身であるが、
今朝ぼんやりとカレンダーを見ると、『小寒(しょうかん)』と朱記され、私は微笑んだりした。

『小寒』は古来より、寒さの始まりの『寒の入り』と伝えられ、
この頃から寒さは厳しくなり、その後の1月20日には『大寒(だいかん)』を迎えて、
一年で最も寒い時期と伝えられている。

そして『小寒』から『大寒』までの15日間、
その後の『大寒』から2月4日の『立春(りっしゅん)』までの15日間の合計30日間を『寒の内』と
古人から長らく伝えられてきている。

『寒の内』と称せられる『小寒』、『大寒』そして『立春』までの時節は、
旧暦であるので、今の暦(こよみ)に於いては2月中旬頃から始まると思われるが、
私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みの地域でも、寒い時節となる。
      
こうした中で、3月中旬のような暖かい日もあれば、平年より寒い日もあり、
この時節は三寒四温の時節、と遥か千年前の頃から多くの人々から名言されている・・。

やがて女の子が全国的に祝賀される3月3日の『桃の節句』まで、
何かと天上の気候の神々のきまぐれな采配に寄る三寒四温する中、
私は日本水仙、福寿草、椿(ツバキ)、或いは白梅に励まされながら、
冬麗の美を心の友と私は思いながら、年金生活の冬の季節を15
年ばかり過ごしたりしてきた。

       

私は年金生活を始めた当初より、自主的に平素の買物専任者を宣言し、買物メール老ボーイの身であり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
歩くことが何よりの健康の源(みなもと)と思い、利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

この後、帰宅した後も自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。

                 


私は民間会社の中小業で35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めたので、年金生活は丸15
年が過ぎ16年生の身である。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったで、たった2人だけ家庭であり、
東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みで、
雑木の多い小庭の中で、古びた一軒家に住んでいる。
   
そして私の生家に近くにあり、この地域に私は結婚前後5年を除き、早や70
年となっている。
私の住む地域は、年末年始を通して、ここ10日は殆ど冬晴れが多い中、
今年は朝方に屋根が霜(しも)を見たり、小庭の黒土に霜柱も見ることなく過ごしてきた。

       

私は自宅の近くに流れる野川の川沿いにある遊歩道、小公園、
そして歩いて45分ばかりの都立・神代植物園などを、その日の心情に応じて、歩き廻ったりしている。

昨今は冬のスポーツシャツにカーディガンに準じたフリーフで、歩くことが多く、
北風が吹いた時だけは、更に防寒着のフィールド・ジャケットを着たりしてきた。

       
          
自宅の近くに流れる野川の水辺の近くには、コサギ、ダイサギ、カルガモ、カワセミなどが数多く観られ、
愛好者の方たちは写真を撮る方も見かけることがあるが、
私は興味がなく、陽射しを受けた川面、清冽な水の流れを見つめたり、
川辺の薄(すすき)などの冬枯れの情景に魅せられている。

       
          
そして遊歩道に隣接したマンションの数10棟の広い庭が、小公園として解放されている中を
歩いたりした。

       

私はこうした情景が好きで、毎週ように歩いて、季節のうつろいを享受している。

       

或いは帯状に小公園となり700メートル前後あり、
この時節は、桜(サクラ)、クヌギ、コナラ、白梅、公孫樹(イチョウ)などの冬木立となり、
暖かな陽差しを枝越しに眺めたりすると、
時が止まったように静寂なひとときを過ごすのが、この世の最良の時かしら、と定年退職後から深め過ごしてきた・・。

       

ときには公園を訪ねたりすると落葉樹の冬木立の景観を見せている。
この地域に古くからあるクヌギ、コナラ、ケヤキの樹木が中核となっている・・。

そしてハクウンボク、ヒメシャラ、イヌシデ、ヤマボウシ、コブシなどの冬木立となして、
暖かな陽射しを受ける情景を見たりすると、
私は幼年期に農家の児として育てられたためか、心身和(なご)むのである。
          

私は足を止めて、陽だまりとなっている木のベンチに座り、しばらく見つめたりすることが多い・・。

       

そして付近の垣根の傍で赤い実の南天が陽射しを受け、
その脇に千両の赤い実も見られ、地表から福寿草の黄色の花がひっそりと咲いている。

このように冬木立の眺めたり、光がきらめく空を眺めたりし、
古人から冬麗(とうれい)と称されている情景に、心を寄せている。
          
そして数年に一回ぐらい小雪が舞い降る時もあるが、5センチ前後である。

       

私の小学生の頃までは、毎年少なくとも3回ぐらい30センチ前後の雪が降ったりしてきたので、
何かしら愛惜感が増したりしているので、国内旅行は何かと東北地方、北海道に家内ほ誘い、遊学することが多い。

やがて家内は、冬の時節は暖かい沖縄本島などの旅路を要望して、
積雪ある旅路がお別れとしている。

しかし旅行は、非日常であり、女の子が全国的に祝賀される3月3日の『桃の節句』まで、
何かと天上の気候の神々のきまぐれな采配に寄る三寒四温する中、
私は冬麗の美を心の友として歩いたりしている。

       

こうした中で、ときおり何故かしら『冬景色』の歌を心の中で唄ったり、
人影のいない遊歩道の中で、かぼそい声で『冬景色』を唄ったりしているのが、
定年後の年金生活の中で多くなっている。
http://www.youtube.com/watch?v=r3sZKBnr6t4
【『冬景色』 作詞・作曲 不詳  文部省唱歌、唄・芹 洋子、合唱・東京放送合唱団 1984/1 放送 】

私の幼年期、私の住む地域でもこの当時は、
田畑が広がり雑木林もある緑豊かな農家の児として育ち、私は心のふるさとの限りない情景として、
齢を重ねるたびに愛惜が深め、このような心情を秘めているひとりである。

この歌は、1913年(大正2年)に刊行された『尋常小学唱歌 第五学年用』が初出と知られているが、
作詞はどなたが創られた不明であるので、この創られた方に心を寄せたりし、
ときおりこの歌を聴いたりすると、どなたが歌っても、私は涙ぐんでしまう時が多い・・。

遠い幼年期を想いださせるのか、 或いは失ってしまった純粋な心を甦(よみがえ)させようとする
もうひとりの自分に哀歓を寄せているのかは解らない。

何より、この作詞の日本語は、はかなく美しい。

私は詩の世界は恥ずかしながら理解する素養はないが、
歌声により唄いつながれて行く言葉の結晶である作詞の世界は、少しは解るつもりである。

       

やがて2月下旬になれば、玄関庭にある白梅が、遅れてご免なさい、と言ったように、
恥じらいながら10数輪ばかり咲き、
その後は澄み切った青空で陽射しは燦燦(さんさん)となる中で、
小庭の白梅は数多くの莟〈つぼみ〉か大きく膨らむ。

そして3月を迎えれば、予告もなく南の風が吹き、、
私は三寒四温の時節は、女の子が全国的に祝賀される『桃の節句』で終わりにしてょ、
と毎年心の中で願ったりしてきた。

その後、南の風が吹くたびに暖かさを増して、主庭の水仙、白梅は満開となり、やがて紅梅に咲き、
我が家の小庭は遅ればせながら水仙、白梅、紅梅が彩(いろど)られてるのが、毎年の習わしとなってきた。

                                                  

このように思い馳せたりして、冬晴れの陽射しの中で、ぼんやりと佇(たたず)んだりし、
果たして、この先の天上の気候の神々の采配は、どのようになるの、と私は青空を見上げたりしている。

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10年前のこの日、『天上の神々』よりも、『八百万(やおよろず)の神』に信愛を深めて、読み返して・・。

2020-01-05 12:17:26 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住んでいる年金生活の75歳の身であるが、
こうした中、ブログの世界を知って丸15年が過ぎ、
結果的には、パソコンの故障、国内旅行、或いは入院などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。                                                              

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを

心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。                  

             

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々
の心情を脚色もないありのままの思い、
真情を投稿文に認(したた)めたく、 あますことのないように綴ってきた。


私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。

恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

こうした中で、60代の投稿文の内容は、やはり幼年期~現役サラリーマン時代の想いでが多く、
或いは年金生活を過ごす実情を脚色もせず、数多くの綴ってきたりした。

そして70代になると、自身の体力の衰えを実感して、
健康、病気、介護、葬儀、家計などを学んだことに私の思いを前後に加味した投稿文に変貌した内容となり、
まるで餡子(あんこ)の入った『お饅頭(まんじゅう)』のような投稿文となり、独り微苦笑する時もある。          

先ほど、たまたま10年前の私のブログの投稿文を読み、やがて独り微苦笑をしたりした。

2010年1月5日に於いては、
【 『天上の神々』よりも、『八百万(やおよろず)の神』に信愛を深めて・・。】、
と題して投稿していた。

再掲載をすれば、つたない投稿文であるが、あえて再掲載をする。

★---------------------------------------------★

          

私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
今朝、いつものように雨戸を開けたら、庭がしっとりと黒土になり、清々しい冬の情景となっていた。

私は地元の天気情報を見たら、未明から明け方にかけて小雨が降ったと知り、
朝の6時過ぎは3度、昼下がりは12度前後、夜の6時は8度前後で、
平年より暖かな冬晴れの一日かしらと微笑んだした。

何気なしにカレンダーを見たら、
『小寒(しょうかん)』と明記されて折、思わず微苦笑したのである。

もとより古来より小寒は、『寒の入り』であり、
この頃からは寒さのはじまりと伝えられている。
そして『寒中見舞い』も、この時節からご自由にお出ししても結構です、と解釈されている。

私の住む地域は、年末年始は平年より冬晴れの暖かい日に恵まれ、
昨年のクリスマスが終る頃に日本水仙は莟(つぼみ)となり、
家内の母が来宅した28日に歓待するように咲いて、私は驚いたのである。

平年は初春の今頃は、莟(つぼみ)となって、我が家の主庭の片隅を彩ってくれる情景となっている。

我が家は、年末年始に家内の母に来宅してもらい、
私達夫婦と生活を共にしたので、昨日に家内の母が帰宅した後、
家内は昨日から後片付けに大忙しとなっているが、ここ6年ばかり恒例となっているが、
予期せぬ出来事は、洗濯機が故障し、家内は手洗いを孤軍奮闘したくらいであった。

          

平常時になった私達夫婦は、清く貧しく美しくを信条に今年も過ごす所存であるが、

天上の神々に守られながら、生かされて過ごしているのが確かなことである。

このように私が見いだした言葉のひとつ『天上の神々』という明言を信愛してきたのであるが、
昨今の私はもっと身近な『八百万(やおよろず)の神』に、改めて、ひれ伏しているのである。

私は幼年期に農家の児として育ち、サラリーマンを35年ばかりして、都会の垢(あか)にまみれて後、
年金生活をして四季折々の情景を眺めて、こよなく愛惜を深めているひとりである。

このような心情で、抽象的な『天上の神々』よりも、
『八百万(やおよろず)の神』に守られての方が相応しいと深く思ったりしているのである。

          

『八百万(やおよろず)の神』については、知識人・飯倉晴武(いいくら・はるたけ)さんが適切な表現をされているので、
氏の言葉の言葉を借りれば、
《・・日本人はキリスト教やイスラム教のように唯一絶対の神ではなく、
自然万物のあらゆるものに神を見いだしてきました。

俗に八百万(やおよろず)の神というように、
太陽、月、星、風、雷といった神もいれば、土地、田、山、川、石などに、
また、家の台所、かまど、便所などにも神がおり、
さらには馬、犬などの動物、松、竹などの植物にも神が宿るというように、
多くの神々があまねく存在する点に特色があります。・・(略)・・》

このように知識人・飯倉晴武さんが編著された『日本人のしきたり』(青春出版社)の新書本の中で、
明示されている。

私は遅ればせながら、数年前に読み、ときおり繰り返し読んだり、
思考を重ねてきたのである。

このような思いから、齢を重ねてきた今、『天上の神々』よりも、『八百万(やおよろず)の神』に守られて、
確かに日々過ごし、生かされていると実感しているのである。

★---------------------------------------------★

             

私は自身の投稿文を読みながら、やはり10年前の65歳の頃は、
我ながらわれ理屈ぽい型ぐるしい文体だったよなぁ・・と微苦笑したりした。

しかしながら、あの頃は体力もあり、物忘れもなく、元気だったよなぁ・・、と教えられて、
たとえ拙(つたな)い投稿文でも、私の記憶のかたみになっている。

そして10年ひと昔・・と教えられても、私たち夫婦は年金生活の穏やかに過ごしてきたが、
それなりに心身変貌してきた10年だった、と思い馳せたりした。

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我が家の家計簿、遅ればせながら昨年度を締めて、やがて私たち夫婦は微苦笑をして・・。

2020-01-04 12:06:05 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
住宅街の中、雑木の多い小庭の中で古ぼけた一軒屋に住んでいる・

こうした中、 私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や16年目となっている。

昨日の夕食の前、『明日の午前中に『家計簿』を締めませんか・・』、
と家内は私に言ったりした。

『12月度は、毎年のように新年の三が日が過ぎた頃にしてきたし、
明日の午前中しましょ・・』
と私は微笑みながら家内に応じたりした。

           

我が家の生計は原則として、私たち夫婦はお互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で、
日常生活を過ごすことを原則としている。

そして耐久品の購入、冠婚葬祭、そして私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して、丸15年ばかり過ごしてきた・・。

こうした中で私たち夫婦は、原則として月初めには家計簿をお互いに確認しながら実施している理由は、
40数年前、私たち夫婦が婚約する前、 お互いに隠し立ては・・やめましょうねぇ、
と私は妻となる人から言われたりしてきた。


そして私たち夫婦は、結婚以来、毎月家計簿を原則として翌月の初めにしているが、

もとより生活費をお互いに確認した上で、私、家内が趣味に使える費用を捻出する為に、
毎月確認し、家計簿の月次決算をしている。

            

我が家の家計簿の月次決算は、至って簡素に行っている。
最初に
厚生年金、企業年金などの収入の項目、そして郵便局の個人年金を入力した上、
そして銀行、郵便局、信託銀行などの残高を入力をしたりした。

その後、日常は買物したレシートなどを、
家内が一週間に一度ぐらいノートに簡単に集計している程度であるが、
こうした簡略な支出の区分項目を家内が読み上げて、
私はパソコンの表計算ソフトのエクセルを活用して、入力したりした。

やがて残高が950円ばかり差異があったりしたが、
『大勢には影響はないょ・・食費で調整するからねぇ・・』
と私は苦笑しながら家内に言ったりした。

まもなく5表ばかり我が家の独自の資産表と収支別明細表を作成し、 12月の月次決算を終え、
そして連動として、昨年の1月から12月までの年度の決算を終えてしまった。

こうした中、年金生活をして丸15年となっているが、
予定通り赤字となっている。

たまたま昨年度は、私が2度、家内は初めて入院した関係で、医療費は突出したが、
私たち夫婦の共通趣味のひとつの国内旅行が、ゼロとなり、
『旅行がなかった年・・結婚以来初めてだよなぁ・・』
と私は微苦笑しながら家内に言ったりした。

『そうよねぇ・・お互いに入院生活をしてきたし・・旅行どころじゃなかったし・・』
と家内は思い馳せるように私に言ったりした。

                  

この後、ときおり家内から、働かなくても私たちの生活できるのだから、ありがたいわ、
と私は言われてきたこと思い浮かべたりした。

私は民間会社に35年近く奮戦してきたが、定年退職を迎えたりは2004年の秋であったが、
最後の5年はリストラ烈風の中、私は出向となったのは55歳の時であった。

やがて定年退職時になると、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。

こうした中で、経済にも疎(うと)い私が、
信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読んだりした。

そしてデフレ経済の蔓延している中、定年時に持家(マンションか戸建て)のローンは返済完了となり、
預貯金が3000万円あれば、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
少しづつ取り崩して生活すれば、少しばかりゆとりのある年金生活ができるかしら、と学んだりした。

しかしながら定年後に、年金生活を始めた時、
古ぼけた一軒屋を、新たに新築すれば少なくとも3000万円は資金を要すると思い、
老後の資金に余裕がなくなり、私たち夫婦の趣味の国内旅行費などに制約されると思い、断念した。

そして定年退職時の2年前に、少しリーフォームをして、500万円前後で整備した程度となった。

          

私は35年近くサラリーマン生活をしてきたが、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
年金生活は、予測した以上に安楽な生活となっているので、
確かに
働かなくても私たちの生活できるのだから、ありがたいなぁ・・
と心の中で呟(つぶや)いたりしたりした。
 

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初詣、私は敬遠して、のんびりと冬晴れの中を歩き、冬の花にめぐり逢えて・・。

2020-01-03 09:39:40 | ささやかな古稀からの思い

私は民間会社に35年近く奮戦して2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えた後、
多々の理由で年金生活を始めて、丸15年が過ぎ、早や16年生の身である。

私たち夫婦は子供に恵まれず、たったふたりだけの家庭であり、
そしてお互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、程ほど貯金を取り崩しながら、

ささやかに過ごしている。

こうした中、東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後40数年の古惚けた戸建に住んでいる。

そして私の生家も近くにあり、私自身としては結婚前後の5年を除き、
この地域に住んで、早や70年となり、この地域の原住民かしらと思う時もある。

こうした中で、最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となっている。

そして私が長年通勤で利用した小田急線の『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれの最寄駅までの路線バスの利便性は恵まれて、たとえば都心の新宿のデパートに買物に行っても、
電車を利用すれば、我が家よりデパートの店内に45分ぐらい、
或いは東京駅でも我が家から一時間前後となっている。

               

      
昨日の朝、私は都立・神代植物園に訪ねようと思い立った・・。
そして隣接している深大寺は、初詣で人出で混雑しているので、今回は敬遠しょうと、
思いながら家を出た・・。

          


この都立の『神代植物公園』は、園内にある雑木林があり、
私は幼年期に農家の児として育った為か、身に心も安らぐ所となっている。

             
                                      
こうした根底には、私が通った地元の神代中学校の付近にあり、
入学した1958年(昭和33年)の当時は、神代緑地として存在し、この周辺は雑木林、畑などであった。

やがて1960年(昭和35年)の春に中学校を卒業した後、
確か翌年の1961年(昭和36年)の秋に、拡大と整備され上、
神代植物園と改称して、都内唯一の植物公園として開園された・・。

この間の私の中学時代は、生家より自転車で通学し、ときおり開園前の雑木林の中とか周辺を下校の時などに、
学友と自転車で走りまわったりしていた。
その後、人生の節目などを含めて、四季折々通ったりしてきた。
               
そして私が心に迷ったりした時などは、樹木を眺めたり、それぞれの花に心を寄せて、
心の濾過をして浄化されたりしてきた。
         
                                
定年後の年金生活してきた中でも、殆ど独りで、四季折々訪ねていたが、
ここ数年は二十四節気(にじゅうしせっき)のように月に二回ぐらい通い、
数多くの落葉樹、常緑樹、花木、花を移りゆく情景を一期一会と思いながら鑑賞している・・。

そして今回は、雑木林、椿を鑑賞し、そしてロウバイ(蠟梅)にめぐり逢えたら・・
という思いであった・・。

やがて私は雑木林を歩き廻りながら、冬木立に心を寄せたりした・・。

            

            

この後、福寿草、クリスマス・ローズなど早春の花は、莟(つぼみ)もなく、あと数週間待ち侘びれば・・と思いながら、
『うめ園』コーナーの片隅にあるロウバイ(蠟梅)を訪ねたら、私は微笑んだりした・・。

今年も早々とめぐり逢えて、私は幸運だょなぁと思いながら、
感動の余り少し震える手で、デジカメで撮ったりした。

            

 
           

やがて私は『つばき園』で、数多く椿に魅了されながら、記憶のかたみとして、撮ったりした・・。

           

           
 
           
 
           


やがて私は、神代植物園を辞して、深大寺に向かった。

私は初詣に関しては、高校時代から都心の学校に通った頃から、
きまぐれに幾たびか原宿駅に近い『明治神宮』、鎌倉の『鶴岡八幡宮』、
或いは我が家から3キロばかり歩いた『深大寺』などに、参拝したりしてきた。

やがてサラリーマンを定年退職してから、人出の多い中が苦手となり、
込み合う季節は避けて、参拝したりしてきた。

私は本堂の前に参拝される長い列を見て、平素働いて下さる多忙の数多く御方が
せっかく年始休暇で初詣に来て下さっているので、もとより最優先であると思い、
私は年金生活の身であり、しばらくした後日に、初詣をすればよい、と独り微苦笑をしたりした。      

やがて人出の込み合う山門を出た後、門前街のような数多くの蕎麦屋さんなどの食事処の通りも込み合い、
私は通り抜けて、帰宅に向かったりした。
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新年の挨拶、恥ずかしながら年金生活の中で、私たち夫婦は恒例行事のように・・。

2020-01-02 07:27:07 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の血液型B型の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

私たち夫婦の両親は、家内の母だけとなっている。

私が民間会社を定年退職する2004年(平成16年)の秋の直前に、家内の父が死去し、
家内の母は我が家より遠方に独り住まいとなったので、年末年始には我が家に来て貰って、
この時節の年末年始を共に3人で過ごすのが、14年間続いたりした。

やがて昨年になると、介護・要となってしまった家内の母は、我が家に来るのも難儀となり、
私たち夫婦は15年ぶりに、ふたりだけの年末年始となったりした。

こうした中、年金生活を始めた時より、元旦の朝、私たち夫婦は恒例のように、
朝の挨拶をしてきた・・。

          

今年の元旦の朝、布団の中でまどろんでいた私は、新たな年を迎えて、
今年は恥ずかしながら9月の誕生日を迎えると76歳かょ、と思ったりした。

横の布団には、家内が軽い寝息をしていた。

やがて家内は目覚めたらしく、私は家内に新年の挨拶をしなければと思い、
私はわが身の掛布団と毛布を払い、敷布団2枚と電気毛布を敷いたシーツの上で、正座した。

そして私は横の布団の中にいる家内に向かって、

          

『昨年は事あるごとに・・何かとノロマの私に・・幾たびもお心遣いを賜り、感謝したします。
おかげさまで・・私も楽しい一年を過ごすことができました。
本年も・・よろしくお願い致します・・』
と私は家内に真摯に言ったりした。

家内は横の布団の中で、少しうなずいた後、
『何時ごろ、お雑煮を頂きましょうか?』
と家内は私に笑いながら言ったりした。

『7時半ごろ、頂きましょうか・・』
と私は家内に言ったりした。

そして私は敷布団の上の正座から、横たわり掛布団と毛布をわが身に掛けながら、
家内に対しての新年の挨拶を終わり、安堵したりした。

このように準じた新年の挨拶・・私は定年退職後に多々の理由で年金生活をき始めた以来、
毎年してきたので、確か16年だょなぁ・・、と微苦笑したりした。

          

この後、まもなく一年前のこの日は、途絶えてしまったことに気づき、苦笑をしたりした。

昨年の元旦の早朝、私は心臓に激しい痛みを感じて、やむなく救急車で病院に搬送されて、
緊急の応急手当を受けた後、やがて日帰りで帰宅した。

そして私は安静した状態で正月3が日を過ごすこととなり、
私たちは初めて静かなお正月を過ごすこととなるわねぇ・・と家内から言われたりした。

今回、やむなく生まれて初めて正月三が日は、安静の中、戸惑いながら過ごした・・。                       

お節料理の好みの単品を揃えてきたが、思いがけない病状に、何かとプラス思考の私でも、
失墜感で、うつろな状況で食べたりした。

或いは日本酒、ウィスキー、ビールを年末で準備完了であったが、
一滴も呑めない正月三が日は、二十歳以来初めての出来事となったりした。

やむなく日中のひとときは、寝室の布団の中で身も心も預けて、
本を読んだり、昼寝をして過ごした・・。

この後、3日の深夜、再び心臓の激しい痛みで、やむなく救急車で病院に搬送されて、
やがて8泊9日の入院生活を過ごした。

          

そして今年の元旦の朝、昨年は朝の挨拶が途絶えてしまったので、
敗者復活戦のように、私は敷布団の上に正座して、横の布団の中にいる家内に向かって、
新年の挨拶をしたりした。

『昨年は事あるごとに・・何かとノロマの私に・・幾たびもお心遣いを賜り、感謝したします。
おかげさまで・・私も楽しい一年を過ごすことができました。
本年も・・よろしくお願い致します・・』
と私は家内に真摯に言ったりした。

家内は横の布団の中で、くすっと笑ったりした。

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☆ 恭賀新年 ☆ 本年もよろしくお願い致します。

2020-01-01 07:17:04 | ささやかな古稀からの思い

お健やかな新年をお迎えのことと思います。

昨年も数多くの諸兄諸姉の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と多々ご教示されることが多く、
確かな人生の教科書と思い、深く感じている次第です。

そしてこの広い空の下で、未知の御方に投稿文の上で、めぐり逢えたことに秘かに感謝したりしています。
こうした中で、コメントを頂いたり、
私は数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、ときおり感きわまってコメントをしたりしています。

或いは季節感あふれる写真に感銘を受けたり、
そして心の深淵まで描写できる御方の散文に圧倒されたり、
ときには数多く人から私は励まされたりして、読ませて頂ただいているのが本心です。

改めて、数多くの皆様には感謝する次第です。

          
                         
私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、早や16年生の身ですが、
今年の9月の誕生日を迎えると、恥ずかしながら76歳となります。

過ぎし年にゴールデン・イヤーズと称される60代を卒業し、
定年退職をするまで、何かとつたないサラリーマン航路を歩んだ為か、
我が人生として、予測した以上に安楽な期間を享受できましたので、ときには60代の日々に愛惜を重ねたり、
或いは70代を過ごし始めると、ときおり物忘れもあり、やむなく人生は気合だ、と自身を叱咤激励する時もあります。

こうした中、70代を迎えてからは、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるようにと願いながら
プラス思考で過ごしているのが実態です。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体と信愛し、年金生活を過ごしている次第です。

          
                    
私の日常は買物、散策などの時、季節のうつろいを享受し、
その時に思ったこと、思索したことなどを心の発露として、あふれる思いを
このサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっています。

数多くの御方に私のつたない投稿文をお読み下さり、感謝の一言です。
そして私が投稿を重ねることが出来たのは、ひとえに皆様に支(ささ)えて下さったことは事実です。

或いは日常の午後の大半は、随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅の居間で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりしていますので、一日が終るのが早い、と溜息(ためいき)をする時もあります。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地に宿泊滞在する中、
周辺を歩き廻りながら、その地の風土、文化などを遊学しています。

ありふれた身過ぎ世過ぎの年金生活の家庭ですが、
私は本年も数多くの皆様に支(ささ)えられ、心身ともに健全な一年を過ごす所存です。

          
      ☆7年前、私の住む近くの深大寺で初詣の時、私は偶然に見て瞬時に魅了されて、
            これ以来、我が家の年金生活の秘かな守り神となっている☆

末筆ではありますが、皆様のご家庭一同さまのご健康と
                   ご多幸を心よりお祈り申し上げます。 

                          2020年(令和2年) 元旦
                                   『夢逢人』 

コメント (2)
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