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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

直線距離の人生から さよなら

2020-06-07 18:37:03 | 日記

朝6時半に2階のカーテンを開けたら、大家さんのベランダは洗濯物がいっぱい干してある。ああ、すみません、遅くて という感じだ。7時からのパソコンでミサを授かる。教会も今日からミサが始まるが、なにかと大変なので(先着順とか)電車で出かける私にはきつい。風がとても強い。琵琶湖の上を吹いてくるようだ。今日は朝からお仕事、お仕事。ゴミ置き場化している小さなに庭を整理、かわいい朝顔を植えた。なんとなくゴウヤのカーテンもしてみたいが・・・。

お昼前に駅方面に買い物に。えっ!という感じで若者たちが歩いている。「それ濃密でしょ」と言いたいが、なんかカップルにはいやみみたいだ。外国の方も多い。人がいないのに慣れているので、ちょっと怖い感じだ。商店の方も、「うれしいけどれど、なにか不安ですね」と。若い人たちは仕方ないのかな。ジジババのように、和菓子でお茶をすすっているわけにいかないのだろうな。

陶芸の先生にいわれたことだが、どうも楽に楽に早く作業をしているらしい。ふと、昨日思った。ずっと毎日家に帰ると、ともかく夕飯の準備、できればお風呂の準備と洗濯・・・だった。直線距離ばかり考えて暮らしていた。朝もそうだし、休みの日もそうだ。楽にとは思わなかったが、限られた時間で家事をこなすことが生活だった。専業主婦をできなかったから、仕方がない。今、やっと時間をいただいた。気ままにとまではいかないが、コーヒータイム、散歩タイム、ゆっくり料理タイムができた!なにもあんなに直線距離ばかり歩かなくてもよかったのに・・・。自分でそうしていたのだなぁ と思う。

夕方になって風がやんだ。今日は働いたと、ぼんやり2階から空を見ている。さぁ、明日はどこへいこうかな。梅花藻でも見てこようか。蛍かな?

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やりきれなさの中で

2020-06-06 21:40:30 | 日記

昨日、旅行の冊子と一緒に捨てようとしてしまったのが、時遅しのマスクだった。どこから来たのかもわからないマスクだった。そんな日の夜のニュースで拉致被害者の家族の横田滋さんが天に召された。私自身も忘れていた!

神奈川に住んでいたころは、講演会に出かける機会があった。自分の娘がある日突然神隠しにあったように消えてしまい、20年以上も戻らなかったら・・・。途中で気が狂うのではないと思った。そして、戻ってきた娘の遺骨が別人のものだとしたら。わたしなら許せないを通り越しているだろう。どの場面でも奥様の気丈夫さに(決してそうでないと思うが)滋さんは助けられていた。敬虔なクリスチャンとお聞きしているが、これから先大丈夫なのだろうかと、また心が痛む。そして、同じ家族会の「親」の代で終わらせたいという飯塚繁雄さんのコメントが心に突き刺さる。「家族が元気なうちに」そのことが叶わなかった。誰も本気で責任を果たそうとしなかった気がする。

そんなニュースの翌日の今日、陶芸でつくっていた「希望の鐘」ができあがった。13センチくらいの小さいものだ。初めはがんの患者さんや家族にと思っていたが、悩みのある多くの人への「希望」へと思い直した。帰宅すると、サッカー仲間から「肺炎でもうサッカーができなくなりました」というお手紙が届いていた。81歳、まだピッチを走っていたのに・・・。どうして・・・?!

やりきれない悲しみが心にあふれた。この陶灯を彼に送ることになるなんて・・・。皆様にお見せするものではないのですが、ちょうど撮影したものがありましたので。色は3色に変わるのですが(LEDライト)悲しみのブルーでした。横田滋さんおご冥福を祈りながら。

 

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夜10時 おばさん4人が池を眺める

2020-06-05 17:09:01 | 日記

忙しい?2日間だった。1日目は、教会のお友達のお宅の台所の大掃除。(大大掃除という感じ)手が思うよう使えないので、家事は大変らしく、これは見ていられないと 出かけた。でも、彼女はとてもとても喜んでくれた。一緒のお友達(Tさん)もへたへただった。お礼にメダカをいただいた。2日目(昨日)はNPOの取材で出かけ、夜は蛍をTさんの妹さんとそのお友達4名で見に出かけた。場所はよく説明できず。

伊吹山から流れ出る清流の影響で、蛍が舞う川を散策。昨夜は十四夜で明るく、風があってほたるさんは乱舞まではいかなかった。でも、でも、感動!!そこから割と近くの三島池というところへ。「蛍の川」があって、ここでも蛍を見ることができた。散策の後、この池のほとりの素敵なベンチで池を眺めた。眼前には伊吹山が見えるという。鴨の自然繁殖地の南限とか。Tさん姉妹は子供のころ、お父さんに連れられてここに蛍を見に来たという。妹さんが「ねぇ、いいわね、女4人、こんな時間に蛍を見て、ベンチでのんびりできるなんて。世間では考えられないかも」と。「さわやねぇー」と4人。

こんな2日間。私はこんなことを思った。人はそれぞれ成育過程の中で、様々なものを(癖)身に付けています。すぐに怒ってしまったり、自己否定してしまったり・・・。みんなそうなんだなぁ と思うとすべてOKのような気がした。そして、私自身も。だれもが愛おしいと。

今日は「さわやか」今日から写真を整理して、私の履歴書を(偉そうなものではないが)作ろう。赤いリボンでも結んでメールでプレゼントしようかな。

 

 

 

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刀が収められない男たち

2020-06-02 18:32:22 | 日記

2階の温度計が29度を越していた。蒸し暑くないのでいくらかいいが、汗がにじんでくる。マスクをなんとかしないと、息苦しというか肌がおかしくなる。夏用のよさそうなマスクは高いし、小池さんがしていたレースのマスクを作ろうか。でも、昔着ていたような綿のレース生地はなさそうだ。やはりユニクロさんのAirismで作るしかないか。月末には首都圏へ出かける予定を入れたら、都内ではアラートが出るらしい。そう簡単には収束しそうにない。

今朝、宅急便が届いた。さて?どこから?昨年までよく心遣いの品物をお送りただいていた方からだ。10月ごろのよくわかない理由でご立腹のままだった。私はいつも通りのお付き合いをさせていただいていたが・・・。ともかく半年以上待ってよかった。昔なら、口論したかもしれなかった。喧嘩には負けない自信があったが。

どうも男性は抜いた刀を収めるのが下手らしい。下手というよりはしたくないのだろう。このご立腹、ご乱心をどう収めるかが難しい。一番、相手が満足するものを差し出さないと、そう簡単には刀は収めてもらえない。つまらぬ男のプライドなのか・・・。(失礼)相手を絶対否定しないで、さらに、そうだよ、おれはそういう男なのだ とご満足いただかないと円満に解決にはならない。ばからしい と言われるかもしれないが、喧嘩別れほど馬鹿らしいものはないし、後味が悪い。私はやはり勝負が好きなのか、この真剣勝負が好きだ。仲直りできれば、勝ちだと思うから。

今日もおがあちゃん孝行。大家さんのおばあちゃん、最近息子と喧嘩の絶えないお隣のおばあちゃん、明日は教会のおばあちゃんへとロールケーキを焼いた。面倒なのであまり焼きたくないのだが、仕方がない。あまり大きくない冷蔵庫に長いロールケーキがデーンと場所を取っている。外に出しておいた山フキの煮物が傷んでしまった。ああ、残り半分のロースケーキは今日の到来もののお返しにしよう。私の周りの争いは平和解決したが、このコロナウイルス禍で世界はどうして争いが好きなのだろうか。男性の指導者はダメなのだろうか??

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大正ロマン 父の思い出 

2020-06-01 20:02:06 | 日記

体調が戻った。あの腰と腕の痛みはなんだったのだろう。こうなるとすぐに出かける。月曜日の買い出しだ。1週間で稲が育っている。別の田んぼでは機械での田植えがされていた。始めて近くで見る機械での田植えだ。じつにすばらしい技術だ。そんななかを琵琶湖のほうから涼しい風が吹いてくる。

あさドラのエールで父のことを思い出すことが多い。父は西城八十に師事していたという。父のアルバムにそんな集まりの、大正ロマンの匂いがする写真があった。なかなかの紳士だった。文学青年で本はたくさん読んでいたらしい。弟(叔父)とは山男で二人でよく出かけたらしい。そんな写真もたくさんあった。そして、スキーも板が物置にたくさんあった。祖父が三越の紳士服のお抱え職人で高給取りだったというから、道楽息子だったのだろう。そして、戦争へ。父は肋膜を患ったので、すぐに還されてきた。叔父は終戦に近いころ、軍の演習中に自死したという。定かなことは分からず、祖母は精神を病んだという。父は企業に勤めていたがやめて、家業を継いだ。そして、母と結婚をした。20回目に近い見合いだったという。

父は私に泳ぎや自転車乗りを教えてくれた。母の話では私をとてもかわいがっていたという。私の着ているオーバーなどは父が縫ってくれた上等なものだった。(今写真を見ると)父は週末働いていた人たちを連れて、都内のバラ園などによく出かけた。それ以外はほとんど道楽をしなかった。おとなしく祖父の仕事を継いでいた。この頃、父の悲しみがわかるようになった。弟を自死で失い、自分は戦争に行けずにいたという、そのつらい気持ちと悲しみがその後の父の人生を決めたような気がする。文学的には才能のある人だったのだろうに・・・。

母は父が結婚を決めるくらい美人であった。私は似ていないので「お父さんに似た女の子は幸せになれるのよ」と慰められた。それは今、当たっていたと思う。

 

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