「女心と秋の空」か「男心と秋の空」か などというが、江戸時代までは「男心」だったとか。どちらにしても秋の天気のように変わりやすいということらしい。今日の「秋の空」は高くてうろこ雲があってきれいだ。買い物が駅近くにあったので、琵琶湖まで足をのばした。静かなキラキラとひかる湖面があった。
これだけで「しあわせ」を感じる。なんとも安い女だ。でも、人の幸せは様々で、大きな家で何、不自由なく暮らしていて本当に幸せな人もいるし、毎日の財布のなかと相談しながらやっと暮らしていても幸せと感じている人もいる。しあわせ感は99%で、残りの1%にはどうしても生きていれば、「さびしさ」を感じるのだろうな。それはひとがうまれながらに背負ってきた「さびしさ」のような気がする。
私が誰かと暮らしだして、何不自由なく暮らせて(精神的にも)やはり、「さびしさ」は残るだろう。それがひとのように思うし、「さびしい」ことは悪くないというのだろう。だから、プラトンの愛のように、自分の裏側を探すのだろうな。
私の裏側は?今日の空のように高くて清んでいて、うろこ雲のようにふんわりとした人かな。