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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

女心と秋の空か?

2020-09-23 18:48:50 | 日記

「女心と秋の空」か「男心と秋の空」か などというが、江戸時代までは「男心」だったとか。どちらにしても秋の天気のように変わりやすいということらしい。今日の「秋の空」は高くてうろこ雲があってきれいだ。買い物が駅近くにあったので、琵琶湖まで足をのばした。静かなキラキラとひかる湖面があった。

これだけで「しあわせ」を感じる。なんとも安い女だ。でも、人の幸せは様々で、大きな家で何、不自由なく暮らしていて本当に幸せな人もいるし、毎日の財布のなかと相談しながらやっと暮らしていても幸せと感じている人もいる。しあわせ感は99%で、残りの1%にはどうしても生きていれば、「さびしさ」を感じるのだろうな。それはひとがうまれながらに背負ってきた「さびしさ」のような気がする。

私が誰かと暮らしだして、何不自由なく暮らせて(精神的にも)やはり、「さびしさ」は残るだろう。それがひとのように思うし、「さびしい」ことは悪くないというのだろう。だから、プラトンの愛のように、自分の裏側を探すのだろうな。

私の裏側は?今日の空のように高くて清んでいて、うろこ雲のようにふんわりとした人かな。

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「句点」をつける

2020-09-22 18:02:48 | 日記

くもなく寒くもなく、本当に過ごしやすい季節だ。いい連休だったのではないだろうか。今日は、町もだいぶ静かになった。木曜日が大阪へ、日曜日から神奈川へ、そして、来週末は宮城へと、少し忙しくなる。

今朝がたの夢は、昔住んでいた家の近くの風景で、目の前のテントのようなものが開いたら、大きな家が跡形もなくなくなっていた。隣に母がいた。風景からしてYさん宅のようだ。目の前が開けた感じがした。

一つのストーリーにピリオッドを打つことになる。それは難しい判断だったが、その大事な「タイトル」でしてきたことが出来なくなるなら、ピリオッドを打とう という考えに従った。「あなたが造り上げたきたものが、ちがうものになってしまうのだから、一代限りで終わりにしたほうがいいのではないでしょうか。その足跡を濁さずに終わられるほうが」ということだった。そこまでの仕事であったかどうかはわからないが、その意見に言葉がなかった。

「句点」か「読点」か?「そして」という接続詞をつけるか?「句点」を付けて、最後の仕事に取り掛かろうと思う。「ひとをあいしたこと、あいされたこと」、そして「あいしていること、あいされていること」をエネルギーに仕上げていこうと思う。人生のピリオッドが打たれるまで。

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コロナウイルス禍に 剛と優

2020-09-21 19:06:07 | 日記

日月が出て、さつまいも色の(紅色ね)空が広がる。長そでのTシャツとGジャンでも寒い。薄手のセーターを着た。年寄りになったのかな。女性は4人に一人が高齢者だ!すごい世界になった。今日は町に人が出ている。コロナウイルス、その後は暑さ、そして台風と出かけられなかった人たちがさわやかな秋の陽気で、それとGO TOになったようだ。

今日出かけた五箇荘という町は、農閑期の副業として行商に出かけたのが始まりと言われる近江商人の発祥地の一つだ。成功して財を成した商人たちの大きな!屋敷が並ぶ。もちろん、木造で蔵がある大きな屋敷だ。風情があるというのとは少し違う気がする。そのはずれにある学習センターで陶芸教室の展示会があった。

私の陶芸の先生の師匠と先生の作品と生徒さんの作品が出品されている。師匠の作品は土の塊を強火で焼いたようで、力強い!先生の作品は「いやしの陶灯」なので細やかでやさしい。でも、このコンビネーションがいいようだ。秋を感じる贅沢な展示物だった。

コロナウイルス禍で作品展は1回は中止になった。でも、開催されていれば、師匠の力強さでたくましくコロナに向き合えただろうし、先生のやさしさで心が癒されただろう。おそらくこれからの時代はこのくらいのたくましさとやさしさに支えられて生きていかなくてはならないのではないだろうか。

私は「癒し系」だが、土の塊のような花瓶やらを作ってみたくなった。

 

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かもくの男(ひと)

2020-09-20 18:08:40 | 日記

明日が敬老の日。明後日が秋分の日だという。なにかわからなくなってしまった。今日、ポストにお餅が一つ入っていた。町内会のものだと思うが、さて、なんのお餅なのだろうか。お彼岸しか頭になかった。今日はこれから五目ずし作りなる。

今朝は布団から出るのがいやだった。昔はつらいことがあると、起きると考えなくてはならないので布団の中に逃げた。最近はそんなこともなかった。今朝は「休み」を感じていたかった。「阿修羅のごとく」を4話見終わった。あと2話だ。心をえぐられるようなセリフがポンポン出てくる。四姉妹それぞれの個性がすごい。そして、寡黙な男たちがいる。彼らが口を開いたときはバランスの取れた「重みのある言葉」が出てくる。70歳になる父親は「火曜日」と「木曜日」に仕事に行くといって、女性のもとに行っていた。それで子供たちは「かもくの人」と呼んでいた。佐分利信が渋い父親のいい味を出していた。まさに「男」の、そして「父親」の「寡黙」だ。

喜びでも悲しみでも想いが心に満ちると、何も言えなくなる。「ありがとう」さえても言えなくて、心がのたうち回る。悲しみも喜びも「涙」に形をかえるのかもしれない。そんな深い深い思いをドラマは描いていた。

美しい物語とは二人だけでカギを持って人知れずに大事にカギをかけておくことのようだ。

 

 

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阿修羅をすぎて 希望を

2020-09-19 17:13:29 | 日記

窓を開けておくと肌寒い。四連休、一日は五箇荘での陶芸教室の展示会に出かける。あと三日は「ちょっとのさびしさ」を埋めることを考えよう。前から見たかったドラマを見ようと思う。なかなか時間を取る勇気がなかった。仕事をしていないと不安だった。「さびしさ」は仕事では埋められない。図書館も近くに移ったことがわかった。学習室もある。本にも触れることが出来る。

昨夜、NHKのオンデマンドに登録した。向田邦子のシリーズをまず見よう。「あ」から検索したので「阿修羅のごとく」になった。大体のストーリーは覚えているがTVではみていない。1977年の作品だ。昔の渋谷や国立がなつかしい。携帯電話のなかった時代、ダイヤル式の黒電話やピンク電話が小道具になっている。

70歳になる父親が面倒を見ている40歳の女性がいることがわかることからストーリは始まる。母親は66歳、娘が4人。それぞれが事情を抱えている。長女は未亡人でお花の先生。次女は専業主婦で子供が二人、三女は独身、四女はボクサーと同棲中。どの姉妹にも男と女の問題が絡んでいる。

向田邦子は好きだったが、10年まえくらいに強すぎて(きつ過ぎて)読めなくなった。改めて、ドラマで見てみると、強さの陰には人間に対するやさしいまなざしがある。それがやっとわかった。そして、残酷にそれを切っていく。でも、人はそういう間違いを犯すものなのよ と言っている。結婚も同棲も不倫も、ここに出てくる欲や妬ましいと思うことや憎らしいと思うことを捨てればいいのだ ということだ。

阿修羅の複雑な表情は「憂いのなかに仏の教えに出会い、希望を見出している」と言えると書いてあった。ドラマをみて「希望」を見出した。どんななかにも「道」はある。そこを二人で歩くためには、「希望」を見つける努力をすることだろう。

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