わたしが意識的に生きるようになったのは、40を過ぎてからだ。
きっかけは、離婚後に付き合っていた相手との恋愛がうまくいかなかったからで、
私はただ、その相手と結婚さえできればメデタシだと信じていたのだったが、
実際には、私がそれまで無意識に生きてきたツケを払うことになる。
大尊敬もし、大好きな母との間にある塊を掘り当てて、
それと向き合うことは、特に辛いことだった。
無意識のうちに、私は母のように生きたいと思い、そうしてきた。
言い換えれば、母に認めてもらいたい、母にもっと愛されたいからで、
けれど、そうした結果、私は全然幸せにはならなかった。
最初の夫との結婚生活も、辛かったけれど、母ならどうするだろうと考えているうちに11年にもなった。
意識的になるにつれて、感情的な起伏がついてまわるにしろ、私の人生は大きく変わっていったが、
まだ無意識だったのに、天から降りてきた啓示のように、ある日突然、結婚生活に疑問を感じ、ゴリ押しして離婚したことは奇跡だと思う。
今の夫と結婚して間もなく、前の夫が亡くなった。
両親とともに納骨に参加した時、母が私の旧姓を書いた不祝儀袋を用意した。
私が再婚したことは言わない方がいいから、というのだ。
昔の私なら、それをそのまま使ったと思うけれど、私は隠す必要など全くないと思ったから、
堂々と新しい姓を書いた不祝儀袋を使った。
「まるく収めるために取り繕う」
「まるく収めるために我慢する」
「人がどう思うかをいつも気にする」
これが、私が母から受け継いだ信念の一部だ。
幼稚園の頃、ある事件がキッカケで、私は吃音になった。
小学校に入っても吃音はまったくよくならず、中学に入る前に、母は私をセラピストの所に連れて行った。
「お父さんには内緒だから」
と母は言った。なぜ父には内緒なのか、言えぬようなことなのか、私は聞くこともできなかった。
結局、吃音は治らず、高校を卒業するまで苦しみ、大学に行く為に家を出た途端、それは治った。
最初に飼った犬が、最晩年になってお腹がふくらんできて、
触ると熱をもっているのがわかったとき、すぐに病院に行こうと言うと、
「こんなになるまで放っておいて、と言われる…」
と渋る母を無視して、犬を抱えて病院に連れて行ったのは妹だった。
今の夫と結婚すると言った時も、あの子は離婚したと思ったら今度はガイジンだって、と言われる、
と言ったのだ。
母を責めるのではない。
わがままな義両親との同居、奔放な夫、商売、まだ小さかった弟達の間で、
母がそうしてこなければ、やってはこれなかっただろう。
しかしそれは母の人生で、私は違っていいのだ。
母のように生きなくても、母は私を嫌いにはならない。
そんな簡単なことに気付くのに、40年。
今でも、取り繕いたい自分が顔を出す。
母を思い、感謝してその信念を水に流す。
母のように生きるのをやめてから、私は幸せになった。
そしてその幸せを一番喜んでいるのは母である。
母と娘とは何と愛情深く、残酷で、複雑なものだろう。
それを思う時、この人生で子供を持たなかったことが残念にも、
気楽にも思われるのである。
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きっかけは、離婚後に付き合っていた相手との恋愛がうまくいかなかったからで、
私はただ、その相手と結婚さえできればメデタシだと信じていたのだったが、
実際には、私がそれまで無意識に生きてきたツケを払うことになる。
大尊敬もし、大好きな母との間にある塊を掘り当てて、
それと向き合うことは、特に辛いことだった。
無意識のうちに、私は母のように生きたいと思い、そうしてきた。
言い換えれば、母に認めてもらいたい、母にもっと愛されたいからで、
けれど、そうした結果、私は全然幸せにはならなかった。
最初の夫との結婚生活も、辛かったけれど、母ならどうするだろうと考えているうちに11年にもなった。
意識的になるにつれて、感情的な起伏がついてまわるにしろ、私の人生は大きく変わっていったが、
まだ無意識だったのに、天から降りてきた啓示のように、ある日突然、結婚生活に疑問を感じ、ゴリ押しして離婚したことは奇跡だと思う。
今の夫と結婚して間もなく、前の夫が亡くなった。
両親とともに納骨に参加した時、母が私の旧姓を書いた不祝儀袋を用意した。
私が再婚したことは言わない方がいいから、というのだ。
昔の私なら、それをそのまま使ったと思うけれど、私は隠す必要など全くないと思ったから、
堂々と新しい姓を書いた不祝儀袋を使った。
「まるく収めるために取り繕う」
「まるく収めるために我慢する」
「人がどう思うかをいつも気にする」
これが、私が母から受け継いだ信念の一部だ。
幼稚園の頃、ある事件がキッカケで、私は吃音になった。
小学校に入っても吃音はまったくよくならず、中学に入る前に、母は私をセラピストの所に連れて行った。
「お父さんには内緒だから」
と母は言った。なぜ父には内緒なのか、言えぬようなことなのか、私は聞くこともできなかった。
結局、吃音は治らず、高校を卒業するまで苦しみ、大学に行く為に家を出た途端、それは治った。
最初に飼った犬が、最晩年になってお腹がふくらんできて、
触ると熱をもっているのがわかったとき、すぐに病院に行こうと言うと、
「こんなになるまで放っておいて、と言われる…」
と渋る母を無視して、犬を抱えて病院に連れて行ったのは妹だった。
今の夫と結婚すると言った時も、あの子は離婚したと思ったら今度はガイジンだって、と言われる、
と言ったのだ。
母を責めるのではない。
わがままな義両親との同居、奔放な夫、商売、まだ小さかった弟達の間で、
母がそうしてこなければ、やってはこれなかっただろう。
しかしそれは母の人生で、私は違っていいのだ。
母のように生きなくても、母は私を嫌いにはならない。
そんな簡単なことに気付くのに、40年。
今でも、取り繕いたい自分が顔を出す。
母を思い、感謝してその信念を水に流す。
母のように生きるのをやめてから、私は幸せになった。
そしてその幸せを一番喜んでいるのは母である。
母と娘とは何と愛情深く、残酷で、複雑なものだろう。
それを思う時、この人生で子供を持たなかったことが残念にも、
気楽にも思われるのである。
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