太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

宗教平行線

2017-07-26 07:54:30 | 日記
私は自分が、どんな人の考えも「まあそういうこともあるよね」と

賛成はできないにしても受け流すことができると思っていた。

おおかたのことは、わかりあおうとしないことで、心の平和を保っていられるが、

ただひとつ、喉にひっかかった魚の骨のごとく、気になるけど取れない、大きくはないがいつもそこにあって

ささやかに平和を乱すものがある。



時々、職場にみえる男性が、来るたびに私のそばを通るたびに私の顔をのぞきこんで

「イエスを信じなさい」

と言う。

私は無視するでもなく、あいまいな表情で受け流していたのだが、さすがに3回目になると辟易してきた。

私は何の宗教にも属していない。

中学高校はカトリック系だったから、聖書は読んだ。(ていうか読まされたんだけども)

キリスト教に限らず宗教というスタイルが私に合わないだけで、私は私なりの神がいて、私の真実がある。

イエス・キリストは実在していたと思うし、普通に好きだ。

それでいいじゃないかと思うのだ。



そのことを、敬虔なクリスチャンである韓国人の同僚に話したのが間違いだった。

彼らが、イエスを信じているのと同じ強さで、他の誰かも何かを信じていることを、

どうして認めて、放っておいてくれないのか。



我が家の近所に住む、敬虔なクリスチャンのヘレン夫妻も同じだ。

彼らにとってクリスチャンでない私は、地獄行きが決定の気の毒な人であるらしい。

だからどうにかして、救おうとしてくれる。

韓国人の同僚は私の個人的なスピリチュアリティを否定はしない。

それに気をよくして、お互いにどこかで折り合いをつけられる場所があると思ってしまった。

けれども、そんな場所は永遠にない。



私はイエスが好きだけれど、それはたとえば仏陀もいいし観音様もいいよね、でも天使も好き、というような

私が愛してやまない日本人的ないい加減さの範囲である。

「もうイエスが好きで好きで好きで、恋してるぐらい好き。聖書を毎日必ず読んでるの」

という韓国人の同僚に、

十字架につながれた死体を2000年も世間にさらされ続けて、イエスさんも気の毒だ、

どうせなら幸せそうな姿にしてあげたらいいのに、なんてことをうっかり言わないだけの気遣いは、

かろうじて私にもある。

そして私が話題を振らなければ宗教の話をしてこないのは、彼女の私への気遣いであろう。


件の「イエスを信じなさい」と私に言う男性は、韓国人の牧師だとわかった。

他にも人はいるのに、どうして私にだけ名指しで言うのだ。

信仰心の薄さがにじみ出ているのだろうか。

「それはきっとアナタに何かを感じるからだよ。ある日突然なにか起きたりしてーー」

韓国人の同僚はそう言ってほくそ笑む。

彼女の姉はクリスチャンも宗教も大嫌いだったが、35歳のときに教会に行き、わけもわからず涙が出てきて

大声で泣き続けたのだという。その日からクリスチャンになった。

そういうことも、あるかもしれない。

私にはないと、今は強く思うけれど、人生は何が起きるかわからない。




『宗教と政治の話はするな』というけれど、それは真実に違いない。

その話題に関しては、自分の正義を振りかざしたくなる。

だからこそ、戦争にまでなるのだろう。

ここでは日本人同士のような気軽さで、してはいけない話があるのである。






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