太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

8年

2019-04-10 18:59:43 | 日記
8年前の今日、不安50%・希望25%・勢い25%を抱えてホノルル空港に降り立った。
そのちょうど1ヶ月前に、東北の地震があって、新幹線のダイヤはまだ乱れ気味だったし、成田空港では震度4の揺れがあった。

ハワイに住めていいねー、と人はみな言ったけれど、
40歳になっていた夫の職さがしや、私の言葉の壁や、
私はここでこれからどんなふうに人生を築いてゆくのかという漠然とした不安で、胸の中の半分は埋まっていた。
不安は見事に的中。
夫が最初に見つけた仕事は、初日から彼をブルーにし、
だんだん元気がなくなり、持病のウツが出てきて、とうとう辞めた。
次の仕事はよかったけれどフルタイムのポジションがなく、
その次の仕事は破格に待遇がよくて、やりがいもある仕事だったけれど、
2年ほどするうちに中間管理職のストレスに心が蝕まれて、体調を崩して辞めた。
しばらくして、アイスクリームファクトリーでアイスクリームを作るようになり、
1年半後、レンタカーの会社に入り、カスタマーサービスがゼロの会社の方針についてゆけずに、2ヶ月で辞めた。
そしてこの1年あまり、プラントナーサリーで植物を育てる仕事についている。

私はといえば、いつかここで私個人が主軸の社会を作りたいと思っていた。
家にいるだけだと夫の友人とか、家族の知り合いばかりで、私にできた最初の友達は、郵便配達のスタンだった。
けれども、仕事をしようにも、異国で私にできることなどなにもないように思えて、そのことを思うと落ち込んだ。
ちゃんと英語を勉強してからにしようと思い、
英語が母国語でない人のためのスクールを探したこともあったが、結局それは行動を起こしたくない私の言い訳でしかなかった。
ろくに英語も話せないのにガイジンと結婚してしまった私が、
英語を話せるようになったら仕事を探そう、だなんてありえない。
私はいつだって見切り発車しかできず、
とりあえず発車したあと、開き直りと勢いだけで乗り切ってきたのだから。
ひょんな思い付きから本屋に就職して、4年後、転職して今に至る。

コラージュに出会うまでは、家で毎日水彩画やパステルを描いて、
一体こんなことをしていて、どうなってゆくんだろうという思いが、常にあった。
そんなとき、友人が、
「好きなことを続けていたら、きっと自然に道がついてゆくよ」
と言ってくれた。
友人の言ったとおり、スーザンに出会い、コラージュを始めて、なにを目指すでもなく楽しいだけで続けていたら、いつのまにかプロとして売るようになっていた。

今日で8年だね、という話を夫としていたら、夫が言った。

「早いように思うけど、やっぱり早くもないね」

私達がハワイに来る時に、私の両親も一緒に連れてきて、10日ほど観光をしたのだが、あのときはまだ両親とも元気一杯だった。
そして8年の間にあった、心穏やかにいられないようなあれやこれやを思うとき、
たかが8年といえども、来た道の長さを思わずにいられない。








しょっぱい現実

2019-04-10 02:52:56 | 日記
昨日、同僚の結婚式に行った記事を書いた。
楽しかったなァと思いつつ、ヴィッキと撮ったおもしろ写真を眺めていて、
ふと、リーディンググラスをかけて改めて見た。

「!!!」

そこには驚愕の現実が刻まれていた。


脚かと見まごう、二の腕。
蛇腹かなにか?、と二度見する首のシワ。

四十代半ばぐらいまでは、それでもまだ二の腕はこれほどには育っていなかった。
フレンチスリーブの袖から出る腕は、案外まっすぐだった。
ハワイに来て、どこにいっても「細い、細い」と言われるようになり、
慢心しているうちに50の声を聞き、さらにそれから5年が過ぎ、
いつのまにか私の二の腕は、別の生き物のように育った。

まわりはボリューミィな体型の人ばかり。
彼女達の二の腕は、それこそ太腿のようで、
私は自分だけはまだ大丈夫だと思っていた。
昔買ったフレンチスリーブの袖口が窮屈になったのも、服が縮んだのだと信じて疑わなかった能天気さ加減。

 
だからといって、二の腕が痩せる運動をしよう、などとは思っていない。
きっと日本に住んでいたら、それをやるのだろうが、
ハワイにいる限り、写真を見たときだけ凹むのであって、あとは忘れてしまう。
痩せていること、ちゃんとしていることに重きをおく環境にいるのと、
体型かまわず着たいものを身につけてハッピーでいられる環境にいる違いは大きい。

写真は、あんまりだ。
こうであるはずの自分と、違う自分であることが年々増えてゆく。
しょっぱい現実は、いつも私を傷つけるのである。