太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

カラオケに行きたい

2019-04-11 19:15:18 | 日記
仕事を終えて、海を左手に見ながら家路につく。
海面が、きらきらと太陽を反射して、その上をボートがすべってゆく。
生きた鶏を抱えた少年が二人、笑顔で歩いてくる。
野生の鶏はそこいらじゅうにいて、さしずめ夕飯のおかずにするんだろうか。
手作りのバター餅や、干した魚なんかを売る車が、路肩の広い芝生の上に日がな一日止まっている。
橋の上から、釣り糸を垂れる子供がいる。
芝生の上のベンチに座って、海を眺めているおじいさんがいる。



この木なんの木、知らない木。
この幹を見よ。
まるで誰かが意図的に編んだようじゃないか。
どうしたらこんなふうに育つのだろう。
ここがこう出て、こっちはこう出て・・という仕組みが、この木のいったいどこに潜んでいるんだ?


我が家が近づいてくる。
気のきいた店ひとつない。
ガソリンスタンドがひとつ、地元資本のスーパーがひとつ、
薄暗い店内に雑多なものが詰め込まれている、よろづ屋がひとつ。

家に帰り、食事をして、星を眺めながら寝て、暗いうちに起きて、
賑やかにさえずりだすたくさんの鳥の声とともに太陽が昇ってくる。
こんな私の日常は、悪くない。

けれども、友人が誕生日に仲間達とカラオケに行って、昭和の歌を歌いまくったという話を聞いたら、羨ましくてならない。
友人は日本の会社にいるので、日本人の友達がたくさんいる。
私の前の職場には数人日本人がいたけれど、仕事を離れて会うほどには親しくならない。
カラオケに1度だけ一緒に行った、昔の同僚がいるが、体調を崩してから家にひきこもっている。

前の職場の同僚たちと何度かカラオケに行ったことがある。
夫とも行ったことがある。
でも、私が歌う歌をまったく知らない人たちと一緒に行っても、おもしろくもなんともない。
彼らが歌う歌だって、私にはさっぱりわからん。
カラオケの楽しさは、歌を共有できることにある、と私は思っている。
ユーミンを歌えば、そこにいるみんなの脳裏にそれぞれの思い出が広がり、
竹内まりやを歌えば、鼻の奥がツンとする。
思わず一緒に口ずさみ、踊りたくなる。
私はそういうカラオケに行きたいのだ。

私の日常には、日本人がいない。
家族も、職場でも、アート仲間の中でも、日本人は私一人だ。

 
アメリカ人とイギリス人の友達にはなんでも話せるけれど、
日本語のように、どんな細かいニュアンスも完璧に伝えられるわけではないし、
日本人同士だからこそわかりあえる、ものごとの背景や考え方は、説明できるものでもない。
カラオケに行ったという、その友人は、羨ましがる私を見て気の毒に思うのか、今度ふたりで行こうかと言ってくれた。
もちろん私が住む地域にカラオケなんかないから、はるばる都会まで行かねばならない。

私は私の日常が気に入っているけれども、
ときどきこんなふうに日本人同士のあれやこれやが懐かしいものに思えてならないのである。