バスルームの窓が、まるで一幅の絵のようだと気づいた。
どんな絵も、やっぱりほんものにはかなわないよなあ。
人が、手相をみてもらった、リーディングをしてもらった、と聞くと、ウズウズする。
離婚したあと、新しい相手との恋愛成就のためにご縁を持ったエンジェルリーディングは、まさに私の人生を180度変えた。
あっというまにその相手に振られて、今の夫に出会った。
そのあとも数年にわたり、私はずっとセラピストの助けを借りていた。
途方に暮れるような出来事が何度もあって、
彼女がいなかったら、私はそこを抜けられなかったと思う。
しかし、絶対にやりたくないと思うキツイ宿題が、何度も出た。
べつにそれをやらなくたっていい、やったって、いい。
がむしゃらだったそのときは、やりたくない葛藤を押さえ込んでやってきた。
火の輪を(おおげさ)くぐれば向こう側にいけるとわかっていたから。
けれど、だんだんとそれが苦痛になってきた。
嫌だ、と思うのは表面の私であり、本質の私はそれを望んでいるのだろう。
それがわかっているから、なおさら嫌なのである。
人間関係のいざこざで体調を崩してばかりいた友人が、あとのことも決めずに仕事を辞め、繋ぎのつもりでパートタイムで働いていた販売の仕事に、正社員として迎えられることになり、アシスタントマネージャーにまでなった。
仕事は楽だし、もうこのままでいいやと思っていたときに、手相を見てもらったら、このまま終わらなくて大きな次がある、と言われたそうだ。
「せっかく楽になれたのに、もうたくさんだよぅ」
そこ。
そこなのだ。
望まない(表面の私が)未来を突きつけられたときの、そのイヤーな気持ち。
決めるのは自分だ。
けれども、いったんそういわれたら、そうなるほうが「正しい」のではないかという思いもあって、それもまた私を嫌な気持ちにさせる。
先のことを、知りたい気持ち。
確実に幸せになれる近道を知りたい気持ち。
それは多かれ少なかれ誰にでもあるのではないか。
けして失敗のない、生きかた。
壁にぶち当たったら、どうしたらいいか教えてくれる人がいる。
それは素敵なことに見えるし、そういうことが必要な時期もあるだろう。
しかし、
半世紀あまり生きてきて、結局、失敗も間違いもないのだとわかる。
我が身に起きたことも、起きなかったことも、それでよかった。
ものごとを、失敗にするのもしないのも自分しだいであって
だから「正しさ」を求めて自分以外のものに答えをさがすのは、ちょっと違うんじゃないかと思う。
それがわかっていて、
それでも誰かがリーディングを受けたと聞くと、
自分に都合のいい未来しか受け入れたくないくせに、
失敗も間違いもあるはずがないと知っているくせに、
何が正しいか、今自分は正しい道にいるのか、
そんな「正しさ」など意味がないのだと知っているのに、
私の心の、ある一部分が、うずうずとうずくのである。