太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

買うのに迷ったもの

2022-08-17 07:59:45 | 日記
買うべきかどうか、10日ほど迷ったものがある。
どんな高価なものかと思いきや、値段は9ドル(1200円ほど)。
だから迷ったのは価格ではなく、私が使うかどうか、だ。
それは、

デジタルキッチンスケール。(右上に映っているのは猫の脚)

料理がアレな私は、料理本を見て頻繁に新しいレシピに果敢に挑戦などしない。
基本は作り慣れたものを繰り返し作り、年に何回か新しい料理に手を出すこともある程度。
新しい料理が当たりであったら、それはレギュラーになるのだが、何回か作るうちに目分量になってゆく。
お菓子類では、さんざん痛い目にあってきたので(大雑把で奔放な自分のせい)、美味しいお菓子は買うものと決めた。
そんな私に、スケールなど必要なのか?

スケールが欲しいと思ったきっかけは、オートミールである。

YouTubeを放浪していたら、やたらとオートミール関連の動画に行き当たる。
オートミールは韓国秘伝パック用のが常時冷蔵庫にあるが、食べたことはない。
なんだかいろいろ身体によさそうだし、せっかくあるのだから食べてみようと思ったのだ。

しかし、日本とアメリカでは計量基本が違う。
アメリカのレシピだと、小麦粉1カップ、砂/糖4/1カップという具合にカップ計量が多い。
計量カップの種類も、1カップ、2/1カップ、3/1カップ、4/1カップ、と計量スプーンのように揃っている。
(日本とアメリカでは、1カップの量が微妙に違うので、うちには日本とアメリカの2種類のスプーンと計量カップがある)

日本のレシピは、グラムが基本。
アメリカはパウンドとオンス。
日本のレシピでやろうとすると、グラムがうまく測れない。
大匙が15mlで、1mlは1gだから・・・・
でも、粉と液体ではどうなのよ?
頭がこんがらがってきて、「ええええい!」(出た、得意のやつ)と適当に測ったのをゴリ押しして仕上げる。


オートミールに話を戻そう。
オートミールを30g。
調べてみたら、大匙1がだいたい9~10gという情報があり、大匙3のオートミールに、計量カップで測った50mlの水を入れた。
それをレンジにかけたらシャバシャバで、どんどんオートミールを足していったら、けっこうな量のオートミールの米化したものができてしまった。


ああ、あのスケールがあったならなぁ


昔、私がまだ料理上手だと思い込んでいた時代に、私はデジタルのキッチンスケールを持っていた。
ゼロに戻しながら、どんどん材料を追加してゆける便利さ、器の重さをゼロにできる便利さ。
しかし、この私がそれをそれほど使うんだろうか?
でも、あったら便利だよなあ。
その行ったりきたりの思考が10日あまりの末、結局、購入。

そのスケールでオートミール30gを測ったら、大匙3よりもずっと多かった。
数値をゼロにして、水を投入。
あー、なんて便利なの!!
グラムとかオンスとかいろいろ単位が選べるのもいい。(使えば、ね)


私のオートミール熱が冷めて、スケールがお茶をひくことにならねばいいが、と今から案じている。




インドアか、偏屈か

2022-08-15 08:34:02 | 日記
先週、マイクとピクニックランチをしたとき、マイクが言った。

「今度一緒に踊りに行こうよ」

マイクは毎週日曜日に、DUKEに踊りに行くのだ。そんな80歳。
すかさず私は言う。
「絶対に行かない」

「ああ、ワイキキまで出てくるのに遠いしね」

「たとえワイキキの真ん中に住んでいたとしても、行かない」

「えー、なんでぇ?」

「好きじゃないし、楽しくないから」

「踊るのが好きじゃない人なんているの?」

「いるよ、ここに」

「ミュージック聞いたりするの、好きじゃない?」

「それは好きだけど、わざわざ出かけるのは面倒だし、人がたくさんいるところには行きたくない」

私はなぜかマイクの前では、反抗期の子供のように意固地な言い方になってしまう。

年々、自分が何を好きで、何が好きじゃないかがはっきりしてくる。
自分が好きだったり好きじゃなかったりすることを認められるようになる、といったほうがいいかも。

若いころから、人が集まって何かをするということが苦手だった。
気の置けない人と2,3人というのは楽しいけれど、飲み会、パーティ、同窓会、コンパなど居心地が悪い。
それでも二十代の頃は、仕事帰りに勢いで飲みに行ったりもしたけれど、どこかで自分に鞭打っていたような気もする。
最初の結婚時代、相手の部下の仲人を頼まれたり、仕事仲間とBBQをしたり、家に招いたり、ほぼ義務のようにこなしていた。
今の夫と再婚してからは、夫の同僚たち(もちろん全員ガイジン)の頻繁なる飲み会のお誘いが辛かった。
ハワイではそういう同僚同士のつきあいはないけれど、場所が日本だとガイジン同士の結束がそうさせるのか、とにかく何かにつけ、何もなくとも彼らはよく集まって飲んでいた。

私はずっと、そういうことが楽しめない自分を責めていた。
まわりのテンションについていけないのは、私があまりお酒を飲めないからだと思っていたら、
ウーロン茶だけで誰よりハイテンションで楽しんでいる人がいた。


日本を離れたからか、年齢を重ねたからか、好きじゃないものは好きじゃないでいいんだと思えるようになった。
特にパンデミックのあと、それまで月に何度も外食していたのが、何か月かに1度になり、今はそれほど外食したいと思わなくなっている。
幸いなのは、夫も同じだということで、人と会うよりも、二人で海に行ったり料理をしたりして家で過ごすほうがいい。

「一人でも多くの人と知り合いたいと思わないんだよね」

私がそう言うと、マイクが、

「その場だけで楽しめばいいじゃない?」

「いろいろ『フリ』したりするの、面倒だしさ」

「ああ、それは僕もそう思うけど・・それほど好きじゃなくても、まあ好きなフリをしたりはするよね」

「でしょ?人混みで踊るのも好きじゃないし、家で本を読んだり、絵を描いたり、映画見たりするほうがずっといい」

「えー、踊るのが好きじゃない人なんているの?」

かくて振り出しに戻る。






欠落人間

2022-08-13 11:58:15 | 本とか
黒柳徹子さんの「トットの欠落帖」(新潮文庫)には、徹子さんのおもしろいエピソードが満載。
小学校1年で退学になった徹子さんを「ダメな子」とけして思わず、もっと徹子さんに合った学校を探しまくった母親のことも、私はとても尊敬している。

どの話も、思わず「プっ!」と吹き出してしまうようなことばかり。

上野動物園に中国から来たばかりの狼の写真を撮りたいのだが、狼が協力的でない。
いつもなら、動物に丁寧にお願いすれば言うことを聞いてくれるので狼にも
「すいません、あなたが中国からいらして時差もあることだし、落ち着かないのはわかります。でもちょっと止まっていただけません?あなたは愛嬌があって魅力的だから、写真を撮らせていただきたいの」
と頼んでみたが、相変わらずうろうろと歩き回っている。
日本がまだよくわからないのだと思った徹子さんは、檻の前で中国の京劇の真似をしてみた。
「イー、シェ~~ チェ―ーーー、ツぅ~~~、イーーーーーッ!」
頭のてっぺんから声を出しながら、めちゃくちゃな中国語を声を振り絞った。
物まねを初めて間もなく、元気なくウロウロしていた狼が初めて徹子さんを見て立ち止まった。
狼はうっとりとした表情で、ゆっくり徹子さんに近づいてきて、まるで客席で見ているかのように岩の上に顔を乗せた。
何事かと人だかりができた中で、徹子さんは踊りながらカメラで狼の写真を撮った。

二十歳ぐらいの頃、先輩の結婚披露宴に招待された徹子さんが会場に行ってみたら、ダンナさんになる人が、徹子さんの知り合いだったことに驚いた。
スピーチを頼まれて、なんとか手短に言いたいことをまとめようとした結果、ご存じないでしょうけど新郎とは昔からの知り合いだと言いたかったのを、
「実は新郎と私は内縁関係でございます」
と言ってしまい、会場がざわめいた。
それから何年も、誰からも披露宴に招待されなかった。


森進一さんの結婚式に招待されて(かなり大人になってからだ)、受付で名前を書いていたら、あとから来た人がみんな封筒を出して置いていくので、「それは何ですか」と受付の人に聞いたら「ご祝儀です」という。
私はそれは何か特別の関係の人なのだろうと、帰ってからマネージャーに話したら、マネージャーが驚いて
「黒柳さん、ご祝儀を持っていらっしゃらないんですか?」
「あら、持ってったことありませんよ」
「あらあら、あれで結婚式をするんですよ」といったので悪いことをしたと思った。
あとで「芸能人の結婚式にはご祝儀を持っていくんですってね」と山田邦子さんに言ったら、「いや、普通の人の時でも持っていくもんですよ」と言われた。


私もかなり物を知らず、うっかり喋って恥をかくこと数知れず。
梅の実が熟して梅干しになると思っていて、母を凍り付かせたり、シンガポールのフィリピンと言って、夫を怖がらせたり。

アートセラピストになる学校に通っていたとき、先生が履歴書の用紙を配って、授業が終わるまでにそれに記入しておくようにと言った。私はその時、ピンクのインクのボールペンしか持っていおらず、きれいだしいいや、と思ってピンクで記入したら、「ピンクで履歴書を書いた人は初めて見た」と言われて、返却された。(当時私は40過ぎてた)
実は私は今でも、なぜピンクで書いてはいけないのかはちゃんと理解できていない。


知人と同じファーストネームの人に、何度も連絡をして、相手も間違いと気づかず返事をくれて、何か月もたってからようやく、人違いだと気づいた。


日本で働いていた頃、銀行が閉まる3時ぎりぎり間に合うかどうかの時間に会社を出た。
銀行について車を停めたら、もう3時を過ぎていた。もし閉まってしまったら、裏口にまわって社名を言えば開けてくれるから、と先輩に言われていたので、もうどうせ閉まっていると思い、そのまま裏口に行き、鉄のドアを叩いたが応答がない。
しばらく叩き続けていると、内側からいぶかしがるような声がした。
「はい・・・なんでしょうか・・・?」
私は元気よく社名を言った。解錠する音がしてドアが開き、中に入った私に銀行員が
「あのぅ、次からは正面玄関からお越しくださいませ」
と言うので行内を見たら、まだ正面玄関は開いており、人が出入りしていた。
私の時計が5分ぐらい進んでいたのをすっかり忘れていた。
「あー、恥ずかしくてしばらくあの銀行に行けないから、あなたが行ってよね!」と先輩に言われた。


こんな話を書き出したらキリがない私の人生。
私はどこか重要なネジが抜けているのではないかと思うこともあるけれど、どうにもしようがない。
でも、黒柳徹子さんの話を読んで、上には上がいると胸をなでおろした。


最後に、この本の中の、小沢昭一さんの話をひとつ。
小沢昭一さんが、いろんな高校をまわって独り舞台をしていたとき、ある高校での舞台のあと、数人の生徒が楽屋を訪れた。
その中に、芝居についてとてもいい質問をする子がいて、その子が
「とても素晴らしかったです。かねがね母もファンで、ぜひ見ていらっしゃいというんで来ました」
と言ったので、
「おっ母ァもファンかい?嬉しいねえ!いつか紀伊国屋ホールでやるから見に来てよ」
と言ったら
「いや、なかなかそうもいかないんです・・」
「なに、受験か?いいじゃない、1日ぐらい。必ず来てよ」
「それが、なかなかそうもいかなくて」
「そうかい、まあ、いいや。暑いしね、もう帰って帰って」
そのとき、その生徒が靴を履きながら言った。
「あの、ぼく、礼宮なんですけど・・・」
「ああ、そうかい、おっ母ァに・・・」
その時思い出した。今日は学習院だったことに。







ハワイ弁

2022-08-12 16:00:50 | 英語とか日本語の話
ハワイのロコの人は、語尾に「ヤ」を付けることが多い。
意味としては、「~でしょう?」ということ。
たとえば

That is good,ya

(それ、美味しいでしょ?)

普通の英語の会話では、ヤの代わりに Huh?(ハァン)と言うことはよくある。


日本人の友人の子供が小さかった頃、子供が学校の友達の話し方に似てきて、語尾に「ヤ」をつけるたび、友人がムキになって注意していたことがあった。

「田舎丸出しのハワイ弁で喋ってほしくないのよぅ」

私学であれば、ハワイ弁丸出しの生徒の数はグッと少なくなるのだそうだ。

「公立に行かせてるんだから仕方ないのかもしれないけど、アレ嫌なんだよなあ」

その子供も二十歳を超え、親の心配は取り越し苦労で、ハワイ弁も使うが、普通の英語も使い分けることができる大人になった。

「放っておいても、ちゃんと使い分けるようになるんだね」

友人も胸をなでおろしていた。


最近のことだ。
気がつくと、私は語尾に「ヤ」をつけていて、自分でおののく。

汗だくの同僚が職場に駆け込んでくる。
「Its warm outside,ya?」(外、暑いでしょ?)
頭で考える間もなく、つるりと口から出てくる。


恐ろしいことには、日本語にも「ヤ」がついていることさえあるのだ。
家で猫相手に、
「ごはん、食べる、ヤ?」
夫に、
「コレ、カライ、ヤ?」

放っておいても、ちゃんと言葉を使い分けられるようになるネイティブと、
放っておくと、そのうち独自の言葉を使いだすようになる「英語 付け焼刃」派の、これが大きな違いである。
私の英語は、どこへ向かっているのだろうか・・・・



耳が遠くなるとき

2022-08-11 08:12:37 | 日記
職場の同僚には、夏休みだけ働いている十代のティーンエージャーもいる。
そのうちの一人のBが、

「ところでほんとは何歳?」

と聞いた。
ほんとも何も、私は年齢のことを話した覚えはないのだけど。
そこで私は誰かに年齢を聞いた時に、1番嫌がられることを言ってみた。

「どう思う?」

Bはジッと考えてから

「30代、だよね?」

と言った。

「え?」

「30代だよね?」

「え?今なんて?」

「30代だよね??」

「え?」

それを見ていた他の同僚が

「何度も言わせたいだけだって。まったくめんどくさいねー」

と笑った。
そのとおり。
わかってる。十代の頃なんて、20代以上はみんな同じに思えたもんよ。ていうか、年上の人の年齢なんかどうだってよかった。
母親の年齢より上なら、一括りでおばあさんだったし。
だから若者に年齢を当てさせるのは完全なる反則ワザ。
ある程度世間ズレしてくると、たとえ40歳ぐらいだと思っていても、5歳ぐらい割引いて「35歳?」と言う処世術が身についてくるものだけど、
若い子は案外そういうところがないのも初々しい。



引き続きB。
「40代?」
「ノー」
「えー・・・20代?・・・・とか?」
なんで50代に行かずに戻る。
Bの母親は41歳というから、まさかおばあちゃんの年齢に近いとは思いもよらないのだろう。

年齢を白状すると、Bはのけぞって驚いた。

「ええーーーー!ウソでしょう。信じられない!肌だって若いし。
うちのおばあちゃんなんか、腕も顔もシワシワだよ」

「え?今なんて?聞こえなかった」

「ちょっとー、また何度も言わせる気だね」

おばあちゃんと比較されたとこは、まあ、置いといて(置いとくな、そこ)。


韓国秘伝のパックを続けているのと、アジア人であるのと、煙草を吸わないのとで肌は年齢の割には比較的マシなのではと思う。
言ってほしいことは何度も聞きたい。それは全人類の素朴な願望ではなかろうか。