島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

北朝3-5後伏見天皇九世皇孫邦茂王

2021-10-16 | 天皇陵巡り
 
 ここで「なんでこんな人まで」と思える、伏見宮家ゆかりの人の墓になりますが、一応宮内庁管理の墓所ですので、飽きずに読んで下さい。
 そもそも伏見宮家は;
第93代後伏見天皇ー北朝初代(第97代?)光厳天皇ー北朝3代崇光天皇ー伏見宮初代栄仁親王(ヨシヒト)&嚮ゥ宮3代貞成親王(後崇光院・太上天皇)(2代は治仁王)と、ここまでは報告済みです。
 続いて;
4代貞常親王(サダツネ)≠T代邦高親王(クニタカ)≠U代貞敦親王(サダアツ)≠V代邦輔親王(クニスケ)と続くので、邦輔親王は後伏見天皇八世皇孫になります。
 その息子で年上ですが第8皇子だったのが、今回の後伏見天皇九世皇孫邦茂王(クニシゲオウ)(1530~1570)になりますので、計算は合いますが邦茂王が産まれたのはもう戦国時代ですね。
  御所の北相国寺境内に伏見宮墓地は地味に有りました
 
 7代邦輔親王には、第2皇子の8代貞常親王(サダツネ)や第3皇子の9代邦房親王(クニノブと、邦茂王より後に産まれた皇子がいますが、何故か邦茂王は第8皇子になっていて、色々ややこしい事でもあったのか、邦茂王は丹波亀岡小口の母方の領地である安藤家に難を逃れて行き、そのまま生母の姪と結婚して安藤家に入り、安藤惟実(コレザネ)と名乗りましたとさ。
  伏見宮墓地には近寄れないので、北の方から撮った写真になりますが、塀の中には石塔が見えますし、同志社女子大の建物の向こうの木は御所の木です
 
 ここまででは、なんで邦茂王の墓が宮内庁治定になる墓か合点がいきませんし、かといって代々の当主たちが眠る伏見宮墓地に合葬されたとしてもおかしいですよね。
  結構有名な亀岡に有る丹波国一之宮出雲大神宮から車で少し走り、邦茂王の次子僧祖渓(ソケイ)が始めた東光寺(トウコウジ)近くに車を停めて、ここから山の方に墓所を目指します
 
 邦茂王の弟には邦茂王より30歳も若い前述の9代邦房親王がいますが、その息子は10代貞清親王(サダキヨ)(1596~1654)。
貞清親王の第1皇子は11代邦尚親王(クニナリ)(1615~1654)で子は無し、他の息子は12代邦道親王(クニミチ)(1641~1654)と13代貞致親王(サダユキ)(1632~1694)ですが、貞致の父は貞清か貞尚かはっきりしないそうですし、年齢もなんかおかしいですね。
この11・12・13代の3人の伏見宮当主はいずれももう江戸時代の話ですが、これからも男系天皇で行くなら、伏見宮の系統から今後天皇が出るかもしれないのですが、伏見宮家の系統も本当に繋がってるのか・・・・。
  林の中を3回ほどY字別れ道を間違わないように10分ぐらい歩きました
 
 話はかなりややこしく、系図でも書いてもらった方が判りやすいと思います。
元に戻って、安藤家の姪と結婚した邦茂王ですが、子ができ孫ができひ孫ができるまで、それぞれが20歳ぐらいで産んだとしたら、ひ孫の定子は1590年頃の産まれになります。
この定子が伏見宮家にあがり、貞清親王(一説には邦尚親王)のお手付きになり、産まれたのが13代貞致親王です。
  それらしい柵に近づいて来ました
 
 この貞致親王は母の身分が低いので、丹波に養子に出され、鍛冶屋の弟子になって腕の良い長九郎と称していました。
1654年同じ年に何故か貞清・邦尚・邦道と伏見宮10・11・12代当主が相次いで死んだため、伏見宮家断絶の危機に直面し、安藤家の働きかけで京都所司代が吟味し、なんとか13代貞致親王が相続できて、天皇家皇族の宮家として続いています。
  虫が一杯飛ぶ墓所でした
 
 ごちゃごちゃと判りにくい説明になったと思いますがお許しください。
こんなわけで、宮内庁治定陵墓になってしまった後伏見天皇九世皇孫邦茂王墓(京都府亀岡市千歳町千歳北谷山)に行ってきましたが、行かなくても良かったかもです。

        返事
Toitenlabeeさん:解禁になったら、
    人出は増えたので、なんか変な違和感がありますよ。

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