冒頭より再度、熊本県はじめ九州地方に発生している大震災のお見舞いを申し上げます。
被災者の皆様は避難所や自家用車内等々にて不自由な生活を強いられている事実と存じますが、くれぐれも身の安全を第一義として守られますことをお祈り申し上げます。
さて、エッセイ本題に入らせて頂こう。
4月から放映されているNHK連ドラ「とと姉ちゃん」が、原左都子の個人的感想だがまったく面白くない。
何が面白くないのか説明せよ!と言われても、未だ始まったばかりのドラマのためそれすら論評不能なのだが、とにかく日々このドラマを見てはダレ続けている。
視聴率は好調らしい。 それは新ドラマ開始直後に於いてはいつもの事だ。 このドラマシリーズを見ている国民とは、何十年来“惰性”でテレビのスイッチを入れ、それを眺めているとの事だろう。 故に、真に視聴率で勝負するのはこれからが踏ん張り時!、と私は判断している。
私の場合は昼の天気予報及びニュースを確認する流れで、そのまま昼ドラ再放送を見る(というより眺める)習慣がついている。 ドラマが面白いか否かにかかわらず、在宅の折には必ずその習慣があるというだけの話だ。
まあそれでも、一点だけこのドラマの“いい部分”を発見した。
それは、(西島秀俊氏が扮していた)父親亡き後、母と娘3人の女性一家4人が平等に「家事」を分担しつつ、何だか穏やかな家族風景を醸し出している点だ。 あくまでも個人的感想だが、これにはほのぼのとした風情を感じさせられる。 ここに一人でも男が存在したならば、(現世に於いては“男も家事をせよ!”どうのこうのの小競り合いが発生して)これだけの“ほのぼの情感”は描けない事だろう。
ただ残念ながら、本日(4月18日)の放送より舞台が母の実家がある東京に移る様子だ。
またまた、私にとっては当該ドラマの“面白さ”の行く末が未知数と相成ってしまった。
さて、「原左都子エッセイ集」長年の読者の皆様は、私には若き頃より結婚願望がさほど無かった事を既にご存知であろう。
その後も、「主婦」だの「家事」だのとの単語を忌み嫌う私だ。 そのため、例えば結婚後再就職活動をする際にも、決して自分の肩書きを「主婦」などとは記さず、「無職」で統一して来た。 それほどに、私は「主婦」なる言葉に今尚嫌悪感を抱き続けている。
そんな私だが、実は家庭内では一家を牛耳る立場にある。
(あくまでも家庭内での話だが)私は、「総務大臣」「財務大臣」「外務大臣」「消費生活担当大臣」「高齢者医療担当大臣」「災害大臣」「文部科学大臣」「防衛大臣」等々… 「少子化対策大臣」以外の大臣として家庭内で君臨している立場だ。
その“働き”に対し十分な評価を家族からもらっている(?)身としては、今更ながらその任務を家庭内の誰かに(私が早死にしない限り)受け継いで欲しいとも考えていない。
適材適所こそが人間の職に於いての生きる道との思考がある私としては、それらの能力に欠如している家族を捕まえて、今更、それを「お前らが担当せよ」だの、「私の苦労を理解せよ!」だのと訴える気もない。
ただ一点心配なのは私が一家で一番先にこの世を去った場合、一体この家庭がどうなるのか??程度だ。
そこまでは私の知った事ではない故に勝手に暮らしてもらえばいいだろうし、そうなった時点に於いては我が家族達もおそらく多少の努力が出来る能力を有していると捉えている。
話題を変えよう。
朝日新聞 4月16日 “悩みのるつぼ”相談は、18歳大学生女性による 「家事をせず母の悪口を言う父」 だった。
以下に、その内容を要約して紹介しよう。
18歳の大学1年生だが、父は自分で洗濯ものを畳んでしまう事をしない。 母がそれをやる。 父は「あいつ(母)がやるべき事だ」と主張する。 なぜ父がそう考えそれが正しいと思っているかが全く分からない。 母は働いているので時間が足りず、洗濯ものが溜まってしまうこともある。 すると父は怒り出す。 そんなに怒るなら自分でやれば、と私が提案しても、「あいつ(母のこと)は昔から…」と母の過失失敗について話を始め、私の質問の答えが返って来ない。 弟も自分の弁当箱を洗わなくなった。 私はそれはおかしいと声を上げたが、父はおかしくないと言い、母は疲れている。 家にいるのがつらい。
(以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”より、18歳大学生女性の相談より要約引用したもの。)
一旦、原左都子の私論に入ろう。
我が亭主も、洗濯ものを畳まないどころか、結婚以降「家事」なるものすべて一切をしない。 ただ上に記した通り、私も娘も含めその事態に際し現在に至って“許容”可能な家族関係を保っている。
もちろん私とて娘の指導・教育に多大な労力と時間がかかったサリバン時代には、それに関し十二分に亭主を責め、互いに(離婚を視野に入れた)激戦も繰り返して来た。
ただ長き独身時代にある程度の職業経験を積んでいた私は、サリバン激務時代以前より人材配置の「適材適所」感覚があった。
うだうだ亭主を責めるよりも、私が「家事」のすべてを挙行する事がよほど効率的であるし、家庭内の安泰が保たれるし、その方が我が子の成長にも結び付くと。
しかも我が家に於いては、亭主の穏やかな性格にも助けられていると結論付けられる。
時折、私が亭主に尋ねる。 「もしよかったら貴方もこの家事を担当する?」 そこで返って来る回答とは、「○子(私の事)がした方が上手くいくよ」
そんな亭主の持つ先天的な“可愛らしさ”についついその気にさせられる我が家の「家事」は、私が死ぬまで100%担当する事だろう。
朝日新聞相談者である18歳女性の家族関係が大いに気になる。
相談者が父親を責める一方、母親の姿が一切見えない相談内容だ。
もしかしたら、そもそも一家が上手く機能していない家庭かもしれない。 そんな家庭に対して如何なるアドバイスをすればよいのか困難だ。
この家庭の場合、母親側にも大いなる責任がありそうな気もするのだが、相談者の娘さんが父親を責めている現状に即して私からその観点でアドバイスをしておこう。
今の時代、家事を実行するに当たって父も母もへったくれもないであろうが、もしも貴女の父親が「家事」なる事柄を卑下していると仮定して…
職場でも家庭でも人の能力発揮には何の変わりもない。 能力ある人材こそが何処でも生き残れると私は考える。 相談者のお母上は職場での仕事に加えて「家事」一切をこなす能力に恵まれているのではあるまいか? だからこそ、父親はそれの一切合切を母親に任せているのかもしれない。
決してよく働く事が「損」ではあり得ない。 怠け者よりも働き者の方がよほど充実した人生を歩めるものと、私は信じている。
それが老後に差し掛かったならば、まさにその差が歴然となる事だろう。
「家事」すなわち、自分自身の「衣食住関連業務」を自ら遂行不能な人間など、高齢域に達したり(あるいは極論だが大震災等々の予期せぬ激甚被害に際し)、まず一番最初に命を絶つ運命にあろう。
被災者の皆様は避難所や自家用車内等々にて不自由な生活を強いられている事実と存じますが、くれぐれも身の安全を第一義として守られますことをお祈り申し上げます。
さて、エッセイ本題に入らせて頂こう。
4月から放映されているNHK連ドラ「とと姉ちゃん」が、原左都子の個人的感想だがまったく面白くない。
何が面白くないのか説明せよ!と言われても、未だ始まったばかりのドラマのためそれすら論評不能なのだが、とにかく日々このドラマを見てはダレ続けている。
視聴率は好調らしい。 それは新ドラマ開始直後に於いてはいつもの事だ。 このドラマシリーズを見ている国民とは、何十年来“惰性”でテレビのスイッチを入れ、それを眺めているとの事だろう。 故に、真に視聴率で勝負するのはこれからが踏ん張り時!、と私は判断している。
私の場合は昼の天気予報及びニュースを確認する流れで、そのまま昼ドラ再放送を見る(というより眺める)習慣がついている。 ドラマが面白いか否かにかかわらず、在宅の折には必ずその習慣があるというだけの話だ。
まあそれでも、一点だけこのドラマの“いい部分”を発見した。
それは、(西島秀俊氏が扮していた)父親亡き後、母と娘3人の女性一家4人が平等に「家事」を分担しつつ、何だか穏やかな家族風景を醸し出している点だ。 あくまでも個人的感想だが、これにはほのぼのとした風情を感じさせられる。 ここに一人でも男が存在したならば、(現世に於いては“男も家事をせよ!”どうのこうのの小競り合いが発生して)これだけの“ほのぼの情感”は描けない事だろう。
ただ残念ながら、本日(4月18日)の放送より舞台が母の実家がある東京に移る様子だ。
またまた、私にとっては当該ドラマの“面白さ”の行く末が未知数と相成ってしまった。
さて、「原左都子エッセイ集」長年の読者の皆様は、私には若き頃より結婚願望がさほど無かった事を既にご存知であろう。
その後も、「主婦」だの「家事」だのとの単語を忌み嫌う私だ。 そのため、例えば結婚後再就職活動をする際にも、決して自分の肩書きを「主婦」などとは記さず、「無職」で統一して来た。 それほどに、私は「主婦」なる言葉に今尚嫌悪感を抱き続けている。
そんな私だが、実は家庭内では一家を牛耳る立場にある。
(あくまでも家庭内での話だが)私は、「総務大臣」「財務大臣」「外務大臣」「消費生活担当大臣」「高齢者医療担当大臣」「災害大臣」「文部科学大臣」「防衛大臣」等々… 「少子化対策大臣」以外の大臣として家庭内で君臨している立場だ。
その“働き”に対し十分な評価を家族からもらっている(?)身としては、今更ながらその任務を家庭内の誰かに(私が早死にしない限り)受け継いで欲しいとも考えていない。
適材適所こそが人間の職に於いての生きる道との思考がある私としては、それらの能力に欠如している家族を捕まえて、今更、それを「お前らが担当せよ」だの、「私の苦労を理解せよ!」だのと訴える気もない。
ただ一点心配なのは私が一家で一番先にこの世を去った場合、一体この家庭がどうなるのか??程度だ。
そこまでは私の知った事ではない故に勝手に暮らしてもらえばいいだろうし、そうなった時点に於いては我が家族達もおそらく多少の努力が出来る能力を有していると捉えている。
話題を変えよう。
朝日新聞 4月16日 “悩みのるつぼ”相談は、18歳大学生女性による 「家事をせず母の悪口を言う父」 だった。
以下に、その内容を要約して紹介しよう。
18歳の大学1年生だが、父は自分で洗濯ものを畳んでしまう事をしない。 母がそれをやる。 父は「あいつ(母)がやるべき事だ」と主張する。 なぜ父がそう考えそれが正しいと思っているかが全く分からない。 母は働いているので時間が足りず、洗濯ものが溜まってしまうこともある。 すると父は怒り出す。 そんなに怒るなら自分でやれば、と私が提案しても、「あいつ(母のこと)は昔から…」と母の過失失敗について話を始め、私の質問の答えが返って来ない。 弟も自分の弁当箱を洗わなくなった。 私はそれはおかしいと声を上げたが、父はおかしくないと言い、母は疲れている。 家にいるのがつらい。
(以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”より、18歳大学生女性の相談より要約引用したもの。)
一旦、原左都子の私論に入ろう。
我が亭主も、洗濯ものを畳まないどころか、結婚以降「家事」なるものすべて一切をしない。 ただ上に記した通り、私も娘も含めその事態に際し現在に至って“許容”可能な家族関係を保っている。
もちろん私とて娘の指導・教育に多大な労力と時間がかかったサリバン時代には、それに関し十二分に亭主を責め、互いに(離婚を視野に入れた)激戦も繰り返して来た。
ただ長き独身時代にある程度の職業経験を積んでいた私は、サリバン激務時代以前より人材配置の「適材適所」感覚があった。
うだうだ亭主を責めるよりも、私が「家事」のすべてを挙行する事がよほど効率的であるし、家庭内の安泰が保たれるし、その方が我が子の成長にも結び付くと。
しかも我が家に於いては、亭主の穏やかな性格にも助けられていると結論付けられる。
時折、私が亭主に尋ねる。 「もしよかったら貴方もこの家事を担当する?」 そこで返って来る回答とは、「○子(私の事)がした方が上手くいくよ」
そんな亭主の持つ先天的な“可愛らしさ”についついその気にさせられる我が家の「家事」は、私が死ぬまで100%担当する事だろう。
朝日新聞相談者である18歳女性の家族関係が大いに気になる。
相談者が父親を責める一方、母親の姿が一切見えない相談内容だ。
もしかしたら、そもそも一家が上手く機能していない家庭かもしれない。 そんな家庭に対して如何なるアドバイスをすればよいのか困難だ。
この家庭の場合、母親側にも大いなる責任がありそうな気もするのだが、相談者の娘さんが父親を責めている現状に即して私からその観点でアドバイスをしておこう。
今の時代、家事を実行するに当たって父も母もへったくれもないであろうが、もしも貴女の父親が「家事」なる事柄を卑下していると仮定して…
職場でも家庭でも人の能力発揮には何の変わりもない。 能力ある人材こそが何処でも生き残れると私は考える。 相談者のお母上は職場での仕事に加えて「家事」一切をこなす能力に恵まれているのではあるまいか? だからこそ、父親はそれの一切合切を母親に任せているのかもしれない。
決してよく働く事が「損」ではあり得ない。 怠け者よりも働き者の方がよほど充実した人生を歩めるものと、私は信じている。
それが老後に差し掛かったならば、まさにその差が歴然となる事だろう。
「家事」すなわち、自分自身の「衣食住関連業務」を自ら遂行不能な人間など、高齢域に達したり(あるいは極論だが大震災等々の予期せぬ激甚被害に際し)、まず一番最初に命を絶つ運命にあろう。