一昨日4月14日夜より発生している熊本県熊本地方を震源とする大地震は、その後本日16日午前1時25分頃に発生したマグニチュード7.3の地震こそが本震と、気象庁が発表し直すに至っている。
その本震の大きさたるや、1995年の阪神大震災と同規模。 エネルギーは14日夜に益城町で震度7を観測した地震(M6.5)の約16倍。 16日正午現在、新たに19人が死亡し、これで熊本県内の死者は28人となった。 国道で橋が崩落し、同県宇土市役所が倒壊の恐れがあるなど建造物に大きな被害が出ている。
14日の地震と合わせた県内の避難者数は6万8911人(16日午前7時現在)、インフラへの打撃も深刻で、南阿蘇村の国道325号に架かるアーチ状の阿蘇大橋(全長約200メートル)が崩落した。
熊本空港ビルディング(益城町)によると、空港ビルの天井約2〜3平方メートルほどが落ち壁にひびが入るなどしたため、客の安全を確保できないとして16日午前4時45分、ビルを閉鎖し、同日の熊本空港発着便全てとなる国内線72便、国際線2便が欠航した。
(以上、ネット情報を要約引用したもの。)
熊本県・大分県を中心に九州地方に於いて予期せぬ大地震災害に直面されている被災者の皆様、私どもよりも御見舞申し上げます。
今後も激震余震が続くとの危機状態の下、くれぐれもご自身の命を守る事を第一義として行動されます事をお祈り申し上げます。
またもや地震列島我が国内にて発生した歴史的大地震に際し、九州地方から距離がある大都市東京で暮らす原左都子の周辺はいつもと変わらぬ安穏とした時空間が保たれている…。
被災地の皆様のご心情を察するとそれだけでも実に心苦しい限りだ。
その心苦しさに上塗りするかのように今回の我がエッセイでは地震発生とまったく無関係の「人間関係」をテーマに取り上げさせて頂く事を、ひとまずお詫びしておく。
当該エッセイ集に於いて1年少し前に綴り公開した 2015.6.1バックナンバー 「自分自身が寂しい限り友達は出来ない」 に、ここ一両日少なからずのアクセスを頂いている。
その現象を受けて、このエッセイを自分自身で読み直してみた。 エッセイの趣旨と表題に若干のミスマッチがあることを認めるが、なかなかまとまった私論を展開出来ていると我ながら唸った。
そこで、以下に上記エッセイの一部を今一度紹介させて頂こう。
朝日新聞2015.5.30“悩みのるつぼ”回答者は、歌手・俳優であられる三輪明宏氏だ。 その回答内容たるや、まさに100%(120%かも!) 原左都子の私論と一致するため、冒頭から三輪氏のご回答を要約して紹介しよう。
あなたが幸せでいる時には遠くから眺めて応援してくれる。 病気の時には看病してくれ、悩み事、金の貸し借りも相談に乗ってくれ、愚痴や泣き言も受け入れてくれて、腹蔵なく欠点をさらけ出しそれを全部受け入れてくれるような、「悩みのゴミ箱」みたいな人はこの世に存在しない。 それを求めるから皆が迷惑に思い逃げて行く。
腹心の友とは、人生に一人か二人現れれば幸運な事。 今、高齢化社会で孤独死する人が多い。その理由を友達がいないせいと考える人が多いから悩むのだ。 世の中が「絆」「絆」と言って美談を宣伝したりドラマ化しているが、実際はそれ程甘いものではない。 趣味や何らかの集いで「心の友」を探そうとしても難しい。 向こうも“人に寄りかかりたい”故だ。 こちらから寄りかかっていくと相手は離れる。 相手にすべてを受け入れてくれる“鉄の扉”を要求しようが、実質両者共に“破れ障子”状態だからだ。
相手にばかり見返りを求める人には感謝がない。 相談者の場合も、食べるに困らないお金があって大病もせず、優しく見守ってくれる夫もいる。 何も言う事はない。 友人がいないがために、人の悪口を言ったり愚痴をこぼしたりが出来ないから何だと言うのか。 たとえ友人が出来てそんな事をしたとて、清々するどころか一人になった時に自己嫌悪に陥るだけだ。 今後は自分の幸せを数えたらどうか。(以上、“悩みのるつぼ”回答者 三輪明宏氏の回答を要約引用。)
ここから、原左都子の私事に入ろう。
上記のごとく三輪明宏氏が我が私論をすべて言い当ててくれたお陰で、今更ながら私が付け加えねばならない事柄もさほどない。
我が20代後半の1980年代初頭頃、女性陣がまだまだ就職した社内で結婚・出産を契機とした“寿退社”を虎視眈々と狙う時代だった。 結婚願望が希薄な私としては“結婚を前提としない”男性との付き合いを常に愛好していたのだが、その恋愛相談を同年代の女性に持ちかけようが、皆が皆自分の“寿退社”へ向けた狭い視野思考で凝り固まっていた。 ただ私の頭の切り替えは早かった。 元々人生観やポリシーが180度異なる女性陣とは今後の我が人生に於いてお付き合いを続行するのは難しい、との結論に早期に至っていた。
その後まさに男世界で職業人として生き貫く中で、私は30代半ばにして人生に於ける女性の“腹心の友”と出会った。 私と同じ「独身の身」どころか、彼女は私以上に“独身に対する強い意思”がある人物だった。 この女性との出会いは、実に我が独身時代を豊かにしてくれた。 結果として、彼女ほど独身にこだわっていなかった私は晩婚に至り子供も設けた。 そんな私を一番に祝福してくれたのも彼女だった。
ところが人生とは無常だ。 やっと我が子が成人に達しようとしている頃、“腹心の友”は一人暮らしの自宅で“くも膜下出血”にてこの世から忽然と去ってしまったのだ… 彼女にはもっともっと生きていて欲しかったとの無念感が募った。 そうしたならば、娘を自立させた暁に今一度女友達二人の老後を満喫出来たのに…
ただ、人生とはそんな風に過ぎ去るものなのであろうことは、“腹心の友”が他界して3年の月日が流れた現在に至った今、納得可能だ。
とにもかくにも“腹心の友”など、小心者であろうがこの世を図太く生き抜いている者であろうが、そう簡単に突然降って湧くものではあり得ない。 「孤独死」が辛いと言うが、原左都子など身内や周囲の誰にも迷惑を及ぼさない「孤独死」こそが理想像だ。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用したもの。)
本日上記我がエッセイを読み直した私は、自分が書いた私事及び私論に改めて涙すると共に、厳しい現在の現実を再認識させられた。
我が人生に於いて、もはや「腹心の友」を得る事など皆無であろうと。
そしてその人生を受け入れつつ余生(とは言っても十分に長いが)に於いてやはり「孤独死」目指し、身を立て直そう!と自覚し直した。
ところが嬉しいことに、そんな私にも新たな出会いはある。(ここでは、あくまでも相手は女性の話だが。)
現在継続的に通っている某場所で、自然に会話が成り立つ女性と知り合ってから既に数カ月程の月日が流れたであろうか。 昨日も当該女性と会ったのだが、互いに自然体で会話が出来る事が実に心地良い。
そうとは言えども、お互い還暦を過ぎ様々なしがらみを抱える身としてこの関係がいつまで続くのか、何処まで発展するのかは未知数である。 それでも自分が相手を肯定出来て、今後も付き合いを続けたいとの思いを抱ける人物に巡り会えるなど、今の時代奇跡に等しいのではなかろうか!?
今更相手の腹の内を探りつつ如何にかかわっていくべきかを考慮せねばならない付き合いなど、「まっぴら御免!」と言いたいものだ。
話題を冒頭の現在勃発している九州地方の大震災に戻そう。
特に避難所へ避難せざるを得ない方々の、今後の避難所にての「人間関係」を心配申し上げる私だ。
とりあえず命からがら避難所に辿り着いた方々にとっては、ご自身の生命を繋ぐことが最優先課題であろうことは十分心得ている。
もしも、その避難生活が長引く場合の避難所にての「人間関係」を懸念してやまない。
国家関連団体や自治体には、是非とも避難者皆さんのプライバシーを守るべく機能して欲しいものである。
その本震の大きさたるや、1995年の阪神大震災と同規模。 エネルギーは14日夜に益城町で震度7を観測した地震(M6.5)の約16倍。 16日正午現在、新たに19人が死亡し、これで熊本県内の死者は28人となった。 国道で橋が崩落し、同県宇土市役所が倒壊の恐れがあるなど建造物に大きな被害が出ている。
14日の地震と合わせた県内の避難者数は6万8911人(16日午前7時現在)、インフラへの打撃も深刻で、南阿蘇村の国道325号に架かるアーチ状の阿蘇大橋(全長約200メートル)が崩落した。
熊本空港ビルディング(益城町)によると、空港ビルの天井約2〜3平方メートルほどが落ち壁にひびが入るなどしたため、客の安全を確保できないとして16日午前4時45分、ビルを閉鎖し、同日の熊本空港発着便全てとなる国内線72便、国際線2便が欠航した。
(以上、ネット情報を要約引用したもの。)
熊本県・大分県を中心に九州地方に於いて予期せぬ大地震災害に直面されている被災者の皆様、私どもよりも御見舞申し上げます。
今後も激震余震が続くとの危機状態の下、くれぐれもご自身の命を守る事を第一義として行動されます事をお祈り申し上げます。
またもや地震列島我が国内にて発生した歴史的大地震に際し、九州地方から距離がある大都市東京で暮らす原左都子の周辺はいつもと変わらぬ安穏とした時空間が保たれている…。
被災地の皆様のご心情を察するとそれだけでも実に心苦しい限りだ。
その心苦しさに上塗りするかのように今回の我がエッセイでは地震発生とまったく無関係の「人間関係」をテーマに取り上げさせて頂く事を、ひとまずお詫びしておく。
当該エッセイ集に於いて1年少し前に綴り公開した 2015.6.1バックナンバー 「自分自身が寂しい限り友達は出来ない」 に、ここ一両日少なからずのアクセスを頂いている。
その現象を受けて、このエッセイを自分自身で読み直してみた。 エッセイの趣旨と表題に若干のミスマッチがあることを認めるが、なかなかまとまった私論を展開出来ていると我ながら唸った。
そこで、以下に上記エッセイの一部を今一度紹介させて頂こう。
朝日新聞2015.5.30“悩みのるつぼ”回答者は、歌手・俳優であられる三輪明宏氏だ。 その回答内容たるや、まさに100%(120%かも!) 原左都子の私論と一致するため、冒頭から三輪氏のご回答を要約して紹介しよう。
あなたが幸せでいる時には遠くから眺めて応援してくれる。 病気の時には看病してくれ、悩み事、金の貸し借りも相談に乗ってくれ、愚痴や泣き言も受け入れてくれて、腹蔵なく欠点をさらけ出しそれを全部受け入れてくれるような、「悩みのゴミ箱」みたいな人はこの世に存在しない。 それを求めるから皆が迷惑に思い逃げて行く。
腹心の友とは、人生に一人か二人現れれば幸運な事。 今、高齢化社会で孤独死する人が多い。その理由を友達がいないせいと考える人が多いから悩むのだ。 世の中が「絆」「絆」と言って美談を宣伝したりドラマ化しているが、実際はそれ程甘いものではない。 趣味や何らかの集いで「心の友」を探そうとしても難しい。 向こうも“人に寄りかかりたい”故だ。 こちらから寄りかかっていくと相手は離れる。 相手にすべてを受け入れてくれる“鉄の扉”を要求しようが、実質両者共に“破れ障子”状態だからだ。
相手にばかり見返りを求める人には感謝がない。 相談者の場合も、食べるに困らないお金があって大病もせず、優しく見守ってくれる夫もいる。 何も言う事はない。 友人がいないがために、人の悪口を言ったり愚痴をこぼしたりが出来ないから何だと言うのか。 たとえ友人が出来てそんな事をしたとて、清々するどころか一人になった時に自己嫌悪に陥るだけだ。 今後は自分の幸せを数えたらどうか。(以上、“悩みのるつぼ”回答者 三輪明宏氏の回答を要約引用。)
ここから、原左都子の私事に入ろう。
上記のごとく三輪明宏氏が我が私論をすべて言い当ててくれたお陰で、今更ながら私が付け加えねばならない事柄もさほどない。
我が20代後半の1980年代初頭頃、女性陣がまだまだ就職した社内で結婚・出産を契機とした“寿退社”を虎視眈々と狙う時代だった。 結婚願望が希薄な私としては“結婚を前提としない”男性との付き合いを常に愛好していたのだが、その恋愛相談を同年代の女性に持ちかけようが、皆が皆自分の“寿退社”へ向けた狭い視野思考で凝り固まっていた。 ただ私の頭の切り替えは早かった。 元々人生観やポリシーが180度異なる女性陣とは今後の我が人生に於いてお付き合いを続行するのは難しい、との結論に早期に至っていた。
その後まさに男世界で職業人として生き貫く中で、私は30代半ばにして人生に於ける女性の“腹心の友”と出会った。 私と同じ「独身の身」どころか、彼女は私以上に“独身に対する強い意思”がある人物だった。 この女性との出会いは、実に我が独身時代を豊かにしてくれた。 結果として、彼女ほど独身にこだわっていなかった私は晩婚に至り子供も設けた。 そんな私を一番に祝福してくれたのも彼女だった。
ところが人生とは無常だ。 やっと我が子が成人に達しようとしている頃、“腹心の友”は一人暮らしの自宅で“くも膜下出血”にてこの世から忽然と去ってしまったのだ… 彼女にはもっともっと生きていて欲しかったとの無念感が募った。 そうしたならば、娘を自立させた暁に今一度女友達二人の老後を満喫出来たのに…
ただ、人生とはそんな風に過ぎ去るものなのであろうことは、“腹心の友”が他界して3年の月日が流れた現在に至った今、納得可能だ。
とにもかくにも“腹心の友”など、小心者であろうがこの世を図太く生き抜いている者であろうが、そう簡単に突然降って湧くものではあり得ない。 「孤独死」が辛いと言うが、原左都子など身内や周囲の誰にも迷惑を及ぼさない「孤独死」こそが理想像だ。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用したもの。)
本日上記我がエッセイを読み直した私は、自分が書いた私事及び私論に改めて涙すると共に、厳しい現在の現実を再認識させられた。
我が人生に於いて、もはや「腹心の友」を得る事など皆無であろうと。
そしてその人生を受け入れつつ余生(とは言っても十分に長いが)に於いてやはり「孤独死」目指し、身を立て直そう!と自覚し直した。
ところが嬉しいことに、そんな私にも新たな出会いはある。(ここでは、あくまでも相手は女性の話だが。)
現在継続的に通っている某場所で、自然に会話が成り立つ女性と知り合ってから既に数カ月程の月日が流れたであろうか。 昨日も当該女性と会ったのだが、互いに自然体で会話が出来る事が実に心地良い。
そうとは言えども、お互い還暦を過ぎ様々なしがらみを抱える身としてこの関係がいつまで続くのか、何処まで発展するのかは未知数である。 それでも自分が相手を肯定出来て、今後も付き合いを続けたいとの思いを抱ける人物に巡り会えるなど、今の時代奇跡に等しいのではなかろうか!?
今更相手の腹の内を探りつつ如何にかかわっていくべきかを考慮せねばならない付き合いなど、「まっぴら御免!」と言いたいものだ。
話題を冒頭の現在勃発している九州地方の大震災に戻そう。
特に避難所へ避難せざるを得ない方々の、今後の避難所にての「人間関係」を心配申し上げる私だ。
とりあえず命からがら避難所に辿り着いた方々にとっては、ご自身の生命を繋ぐことが最優先課題であろうことは十分心得ている。
もしも、その避難生活が長引く場合の避難所にての「人間関係」を懸念してやまない。
国家関連団体や自治体には、是非とも避難者皆さんのプライバシーを守るべく機能して欲しいものである。