原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

一通の年賀状に新たな未来を頂いた!

2018年01月09日 | 人間関係
 「原左都子エッセイ集」 2017.11.18 付バックナンバーに、「郷里医学部故恩師より贈り届けられた小論文集」と題するエッセイを綴り公開している。

 当該バックナンバーの書き出し部分のみを、今一度以下に反復させていただこう。

 昨夜遅い時間帯に帰宅した娘が、我が故恩師よりお贈り頂いた書物を郵便受けから持ち帰って来た。 随分と分厚く重い書物と感じつつ、一体恩師が如何なる書物を私にお送り下さったのだろうとの興味深い思いで開封した。
 恩師ご本人は、2016年秋にお亡くなりになっている。 その記憶が未だ浅い中、当該書物をお送り下さったのは恩師の奥様と二人の息子さんの連名となっていた。
 昨夜届いたばかりで、恩師著「道を求めて」との小論文集に未だほんの少ししか目を通していない段階だ。
 そのため、本日のエッセイでは右側の我が卒業研究論文を通して、恩師中村先生との学生時代の思い出を振り返ることとする。
 (以上、本エッセイ集バックナンバーより冒頭の一部を再掲載したもの。)


 実はこの故恩師先生、郷里のお寺の跡継ぎとしてこの世にご生誕されておられる。
 そのお寺の歴史に関して、上記恩師著「道を求めて」より少し引用させて頂こう。
 観音寺(正しくは「観」の字が少し異なるのだが、変換不能なためこれで代替する失礼をお詫びします。)の歴史は堀江村姫田村の宝福寺から始まる。 天生10年(1582年)長曽我部元親の焼き討ちにあい、地蔵菩薩を当寺へ奉請。 慶長7年(1602年)現在地より南方にある南州に観音寺を開いた。 宝永5年(1708年)洪水で陥没、天保4年(1833年)当地へ移転。 嘉永6年(1853年)地震で本堂が破壊されたが、法道師により1857~74年に再建された。
 (以下略。 余談だがそう言えば、郷里中学校の同級生に“堀江くん”も“姫田くん”も“曽我部さん”もいたなあ。)

 この由緒あるお寺の跡継ぎとして生誕された中村先生は、我が学生時代にも休日はお寺の住職を兼任されていた記憶がある。 
 要するに、医師・大学医学部教授そして微生物学研究者としてご活躍の傍ら、ご住職業にも打ち込まれるとの、世にも類まれな多彩な才能を発揮されつつ多忙な人生を送られた方だ。
 まさに“天才肌”の人物で、(お名前が「かんぜん」さんなのだが)医学部学生間で“パーフェクト先生”との異名をとっておられた。 ニコニコ笑顔が素敵な先生でもあられたが、その笑顔の奥に医学に賭ける想像を絶するエネルギーを秘めておられるのを、私は学生当時から見逃していなかった。
 大学教授ご退官後は、昨年亡くなるまで住職業を全うされたご様子でもある。
 参考だがお二人の息子さんのうちご長男が観音寺の住職を継がれ、ご次男は医師(感染症専門医)・郷里医学部教官として現在ご活躍中の様子だ。


 さて、話題を表題に戻そう。

 故恩師著「道を求めて」をお送り頂いたご遺族(特に奥様)に如何なる御礼をなすべきか、しばらく私は無い知恵を絞った。
 御礼状をしたためて出すとの凡案は誰しも思いつくだろう。 ただ、そうする場合“よほど立派な”御礼をしたためねば、中村先生のご偉業の程を慮った場合、自らの未熟さの恥を晒すだけだ。

 そこで考え付いたのが、上記「原左都子エッセイ集」公開2017.11.18付エッセイをそのままコピーして御礼状に添付するとの手段だ。
 そうすれば本体の御礼状が短くて済み楽が出来るし、我が10年に及ぶエッセイ執筆の宣伝効果にもなろうかと企んだ。  もちろん逆効果の危険性を片隅で勘案しつつも、果敢にも奥様宛にその御礼状を投函した。


 そうしたところ。
 1月6日の事だっただろうか。 中村先生の奥様より私宛の年賀状が届けられた。 (参考だが、私の方は奥様へ年賀状は差し上げていない状況下。)
 その年賀状に記されていた直筆の文面に、感慨無量の境地に浸った私だ。

 奥様が年賀状に如何なる文章を記して下さったのかを紹介すると。
 私が現在“素人エッセイスト”として活躍している現状に感激して下さり、それを故中村先生ご本人も喜ばれているであろうとのご記述。 私の今後の活躍にもエールをお送り頂き、恐れ入った次第だ。 まさに“穴があったら入りたい”とはこのことだ。
 更には、郷里へ帰省の際は是非ともお立ち寄り下さい、お会いしたい。 とまで記されていた。

 恐悦至極に存じつつも、私は早速奥様に年賀状の返信をした。
 そして、“穴があったら入りたい”思いと、郷里帰省時には必ずや観音寺へ立ち寄り、奥様にお目にかかりたい旨を記した。

 実際、あの“天才肌”中村先生のパートナーの立場で生涯付き添われ、しかも息子さんお二人をその跡継ぎとして立派に育て上げられた、これぞ“類まれな”女性であることには間違いない。
 是非とも次回帰省時には観音寺へ出向き、奥様にお目にかかりその“爪の垢を煎じて飲ませて”頂きたいものだ。

 近年郷里を尋ねても、正直なところ年老いた実母の様子を見る以外に大したサプライズも無かったのだが、これで我が郷里行脚の近未来的目標が定まった!
 
 今年は是非とも、郷里観音寺の中村先生の奥様にお目にかかる旅に出よう。