原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

心がへこむこんな日には「酒」の話でもしよう。

2019年11月27日 | 

 今年の東京地方の天候は一体どうなっているんだ?

 10月末まで夏日が続いたと思いきや、11月後半に入ってからは寒い雨天続きだ。  先週あたりから真冬の寒さで昨日は最高気温が10℃に届かず、外出時には既に真冬のコートにマフラースタイルだ。

 どんより曇ったり、大雨だったり…  実母の件等で心がへこむ身に、この天候が我が心の憔悴感に拍車をかける。

 

 そんな折、昨日の編集画面我がエッセイ集閲覧数「トップ50」内に、2017.11.11公開 「もしもこの世に『酒』がなかったら」 がランクインしていた。 早速以下に要約引用させて頂こう。

 原左都子の波乱万丈の人生が成り立たなかったかもしれないと思える程に、「酒」とは私にとって無くてはならない必需品的存在だ。

 (2017.11.11)付朝日新聞別刷「be」“between”のテーマは、「お酒のない人生は損なのか?」だった。
 早速その問いに対する朝日新聞読者の皆さんの回答を紹介すると、「はい」が41%、「いいえ」が59%。

 早速私見だが。

 その結果にとりあえず安堵した私である。  意外や意外、酒を飲んでも“損をしていない”と思っている朝日新聞読者が4割以上を超えている事実に、少し勇気を得た。
 一昔前と異なり現在は “ハラスメント” 概念が幅を利かせ過ぎて、飲兵衛が大手を振って酒を楽しめない時代背景と移ろいでいる。 特に外で飲酒する場合など周囲に心配りをしつつ、酔っ払って周囲にご迷惑を掛けぬよう、醜態を晒さぬようと、自己規制しつつの飲酒が実態だ。 (それが分かっていて何故酒飲む? 嫌なら飲むな!と酒嫌い派からバッシングを受けそうだが、それでも飲みたいのが飲兵衛が飲兵衛である所以とも言えるのだが…)

 ここで、上記記事に「いいえ」と応えた “(要するに)酒のない人生は得”、と回答した読者の理由の程を紹介しよう。   「健康を害さない」 「酒での失敗がない」 「酒がなくても食事は美味しい」 「お金を浪費しない」 「酒に溺れることがない」 「面倒な付き合いが不要」 「酒に頼らずに語り合える」 「酔っ払わなくてすむ」

 今一度私見だが。
 
 元々酒が飲めない体質の方々のご意見は是非とも尊重申し上げたい。 「健康を害さない」 「酒がなくても食事は美味しい」 などはその典型的回答であろう。
 飲兵衛の立場として一番分かりにくいのは、「酔っ払わなくてすむ」とのご意見だ。 何のために酒を飲むのか? それは酔うためだろうと心得ている私としては、理解に苦しむ回答だ。 まあ要するに、限度を超えて酔っ払った経験に基づくご意見なのであろう。
 異論もある。 「健康を害さない」 「お金を浪費しない」 「酒に溺れることがない」 「面倒な付き合いが不要」 がその対象だ。 酒を飲む人間の皆が、決して健康を害したり、金銭浪費したり、酒に溺れたり、面倒な付き合い、を敢えてしている訳ではない。 その種のご経験をされて失敗を経験した方々の個人的なご回答と心得させて頂こう。
 私が一番引っかかるのは、「酒に頼らずに語り合える」との回答だ。 これ、酒好きな人間に対する侮辱とも受け取れる発言との気がする。 誰しも酒飲まずして語り合えて当然だ。  むしろ酒の席では重要案件を持ち出さないのが礼儀だ。 酒に頼っての付き合いとは、そもそも人間関係が成立していてこそ成り立つ場である。 その意味で、酒の席とは「語り合う」場ではない事を弁えて参加・不参加を決定するべきだろう。

 更に、表題に掲げた「もしもこの世に酒がなかったら?」との朝日新聞の問いに対する回答を紹介すると。
 「何も変わらない」 「お金がたまっていた」 「もっと健康だった」 「友人・知人が少なかった」 「ふさいでいた」 とある。
 正直言って、原左都子も「友人・知人が少なかった」に該当するのかと、我が身を多少悲観的に振り返る。
 確かにもしもこの世に酒が無かったかあるいは私が飲兵衛でなかったならば、元々 “生真面目” “理屈っぽい” “融通が利かない” “アウトサイダー” “天邪鬼” 気質の私は、単なる「嫌われ者」として世を渡る運命にあった事も考えられなくはない。
 そんな私も酒が飲めることによって得た人間付き合いは数多い。 我が良き部分を引き出してくれた酒に心から感謝したいものだ。 
 それにしても、「ふさいでいた」なる回答が信じ難い私の場合、酒に寄らずとも“ふさがずに生きる”方策は自身で開拓出来たであろうと心得る。

 最後に、朝日新聞最終章の記述を紹介する事により、この「酒」エッセイの結論としよう。

 立川談志師匠の「酒が人間をダメにするんじゃない。人間はもともとダメだということを(酒が)教えてくれるものだ」という言葉を胸に。 
 まさにその通りだ!
 ダメ人間の私に、酒がどれだけ「お前はダメだ!」と日々教え続けたことか!!(今も少しそうだが…)  自分のダメさ加減をもっと知り探求し続けたくて私は酒を愛好し、今後もその道を欲しているような気もして来た。

 (以上、2017年11月バックナンバーより一部を引用したもの。)


 結びの部分、立川談志師匠の“名言”に唸らされる。 

 実際、もしも私が酒が飲めない人間だったならば、単に“嫌みったらしさ”のみが表出した「嫌われ者」としてのつまらない人生を歩んでしまったようにも想像する。

 特に若い時代程、酒による醜態を晒し失敗を繰り返した。 その都度、内面から湧き出てくる「自己嫌悪」感にどっぷりと苛まれたものだ。 酒のお陰で自分の愚かさ・馬鹿さ加減そして弱さを身をもって知り果たして来た。 そして、そんな自己嫌悪のお陰で、少しは愛される人間にもなれただろうか…


 ここで話題を実母に無理矢理持っていくと、あの人、酒は飲めるのに飲めない(飲んでもつまらない)と信じている人間だ。 何故そうなるのかと言えば、要するに「身体が酒に強すぎる」のだ。

 そのDNAを引き継いでいる我が(HDL満載の)身体も若き時代に酒を初体験した頃、周囲がコップ一杯のビールでほろ酔っているにも関わらず、何杯おかわりをもらっても酔えず(酒ってつまらない…)感覚を抱いたものだ。  その後、周囲の配慮??により日本酒一升瓶を一人で抱え込ませてもらって以降は、やっと酔えるようになった。  その後は、“駆けつけ3杯派”人生をまっしぐらだ!! 

 そんな実母が、自宅で毎年「梅酒」を作っていたのだが、自分で作った梅酒をコップで何杯もガブ飲みだ! それを見た私が「梅酒って、アルコール度が高いの知ってる?」と聞くと。 「ほーかいなあ? 別にこれだけ飲んでもいつもへいっちゃらじゃけんど…」 といいつつ、日々その梅酒を堪能していたものだ。  

 3,4年前に私が帰省した折、自分で買った酎ハイが甘すぎてまずく「これ美味しくないわ」と言うと。 既に80代半ばの実母が「ほな、ちょっと飲んでみるわ」と言った途端、缶酎ハイ一缶を“一気飲み”して曰く、「美味しいなあ!」  しかも酔った風でもなく、会話を続行する。  さすがに、“この母にしてこの娘あり”を実感させられる事件だった。

 このように酒にまつわる実母の思い出を語っていると、“憎むべき相手”でもないとも思えてきた。

 やはり、「酒は妙薬」であるのかもしれない…。