原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

再掲載「『幸せになれ』と脅されているような居心地の悪さ」

2022年07月04日 | 人間関係
 本日は、朝から多忙を極めた。


 朝から義母の4度目のコロナワクチン接種の件で、この私が義母の住民登録がある地の自治体へ電話をしたところ。

 なんともご丁寧な対応をしていただいたのは実に感激だったものの。
 その電話のやりとりに、何と!2時間を要してしまったのだ!
 
 それでも、自治体職員氏のその対応に感謝感激だ!
 疲れ果てたのは事実だが、これで義母の4度目のコロナワクチン接種の目途が立った!!


 さて、話題を変えさせて頂こう。

 そんな私は郷里の実母対応もあり、現在多忙を極めているのだが。


 先程、我がエッセイ集のバックナンバーを検索していたところ。
 我が郷里に絡んだエッセイを発見した。
 
 これが、今夜の我が心理に訴えるものがあるため。

 夜遅い時間帯になったが、以下に再掲載させていただこう。



 本日のエッセイ題材は、朝日新聞2021.06.30付“多事奏論”  朝日新聞・科学医療部長 岡崎明子氏による「子どもの生きやすさ『いつも幸せ』じゃなくていい」を参照させていただく。

 早速以下に、その本文を要約引用しよう。

 (岡崎氏は)小さい頃からいつも会話が絶えない「仲良し家族」にあこがれていた。でも、我が家は正反対だった。 親に学校や友達のことを話しても、なぜか聞いてもらえなかった。 そして、「自分はなんて不幸なんだ」と一人部屋で泣いた。 時には「消えたい」とさえ思った。 (中略)
 徳島県の海部に位置する旧海部町は、きわめて自殺率の低い「自殺希少地域」として知られる。 平成の大合併で両隣の2町と合併し、いまは海陽町となった。 旧3町とも過疎と高齢化が進み人口構成も産業構造も変わらない。 それなのに旧海部町の自殺率だけが突出して低い。 社会学者の岡氏はその理由を探ろうと、4年に渡り現地調査をした。
 私(岡崎氏)が一番驚いたのは、旧海部町の住民の幸福度が3町の中で一番低いことだった。 そして「幸せでも不幸でもない」と言う人が一番多かった。
 社会学者の岡氏は、ゼロかイチかの二言論で物事を捉えない人が多い。 そしてその方が楽に生きられる。」こう説明する。 (中略)
 ここ10年、国連やOECDなどが各国の幸福ランキングを出すようになり、日本も指標づくりを検討してきた。
 でも幸せとは究極の個人的主観だ。 それを国から「幸せになれ」と脅されているような居心地の悪さを感じてしまう。(中略)
 ユニセフが昨年9月に先進38か国を調べた調査では、日本の子どもの「精神的幸福度」は37位だった。 生活に満足している子どもの割合が低く自殺率も高いためだ。 (中略)
 禍福はあざなえる縄のごとし。 もちろん生死にかかわる苦境は、政治や社会が取り除かなければならない。 その上で、「常に幸せでなくては」というこだわりがなくなれば、この世はもっと生きやすくなるなずだ。
  
 (以上、朝日新聞2021.06.30付「多事奏論」より一部を要約引用したもの。)

 私事及び私見に入ろう。 
 私の場合は上記筆者とは異なり、「仲良し家族」に決してあこがれていなかった。
 私が幼い頃から両親が共働きで昼間は家におらず、祖母に面倒を見てもらって育っている。 しかも姉とは仲が良くなく(と言うよりも、幼い時の私の感覚では、姉が何をして過ごしているのか知らない、というのか本音だ。)それでも特段困ることは一切なく、近所の子たちと遊んだり一人遊びも得意な子どもだった。 
 その状況を「不幸」とは決して思ったことはなく、それが通常と思いつつ大きくなっている。

 上記の論評の中で、徳島県旧海部町に関する記述が興味深い。
 私は同県内でも、太平洋側のずっと北東の地の生まれだ。 故に海部町を訪れる機会は無いに等しかったのだが。 
 高校生になり海部町出身の女子と仲良しになって、1年生の夏休みに泊りがけで友の家に遊びに行ったことがある。
 彼女は海部町内でもバリバリ名門家の生まれで自宅が代々大事業をしていて、父親氏は医師をしていた。 そのため海部町内の平均的家庭の子女とは決して言えないのだが、とにかく私は彼女の家で好待遇を受けたことが懐かしい。 (彼女は後に私立医大を卒業し、現在は関東圏で開業医師をしている。 おそらく一生を通じて幸せな人生であることだろう。)

 それでも筆者氏がおっしゃる通り、幸せとは究極の個人的な主観に過ぎないことに間違いないと私も捉える。
 国家から世界ランキングの順位づけや指標化をする目的で「幸せになれ」と脅されたとて、居心地の悪さを感じるのみであり、そんな目的では人が幸せになれるはずもないのは歴然だ。
 
 人が“幸せ感”に浸れる事態とは、国家指導によるものでも何でもないことは絶対的な事実であろう。
 上記論評中にも記されている通り、「幸せでも不幸でもない」と言う人が多い旧海部町の皆さんや。
 最後の記述のごとく、「常に幸せでなくては」なるこだわりがなくなれば。
 
 人は自然と幸せ感を味わえ、この世を生きやすくなるのではなかろうか?

 (以上、「原左都子エッセイ集」2021.06付バックナンバーを再掲載させていただいたもの。)