(冒頭写真は、本年 2023年正月に我が家の私と亭主宛に届けられた年賀状のうち、昨日のお年玉抽選にて3等当選した年賀はがきを撮影したもの。)
3等当選の話題から始めよう。
亭主との晩婚直後期には、お互いに数十枚ずつ合計100枚を超える年賀状を投函し、同じ枚数の年賀状を受け取っていたものだが。
年月の経過と共にお互いそれぞれの交友関係が減少するのに伴い、年賀状の枚数も減少の一途を辿った。
参考だが、晩婚後の我が家の年賀状お年玉抽選にて、一度2等当選した経験がある。
これが、その当選品なのだが。
元々切手収集の趣味などさらさらない我が夫婦にとっては、“つまらない景品”のイメージしかなく。 私が保管して以来、本日引っ張り出してくるまで、日の目を見ることはなかった代物だ。
末等の「切手シート」に関しては、ほぼ毎年1枚以上は当選している。
それも使用はせず、私が保管し続けているのだが。 そろそろ使用しないことには、単に無駄な代物となりそうだ。
今年の3枚当選は、確率的に多い方であろう。
抽選会直後期は これの引き換えで郵便局が混雑するであろうから、ある程度月日が流れて後に引き換えることとしよう。
話題を表題のテーマに変えよう。
年賀状など まったくもって“虚礼”もよいとこじゃなかろうか、などと反発心を抱きつつ。
それでも枚数を減らしながらも、年賀状の投函を毎年実行してしまうのはどうしたことだろうか??
これに関して私が思うには。
まず一つの理由として、内容の面白い年賀状を下さる方々おられるのだ。
例えば、一筆直筆に“本気”が吹き込まれている、等々。
私の場合、これに該当するのは我が恩師だ。
私は2つの大学(院)を卒業(修了)している身だが、その二人の恩師の方々が2人揃って私の存在をいつまでもよく覚えていて下さっていて、“本気の”メッセージを毎年書き添えて下さるのだ。
一つ目の大学(医学部)恩師先生に関しては残念ながら7年前に他界されたが、その後その奥様(郷里観音寺のマチ子さん)との出会いがあったりして、今尚お付き合いが続行している。
二つ目の大学(及び院)の恩師先生(文化勲章・秋の叙勲ご受章者)からは今年も年賀状を頂戴したが、毎年心のこもった“一筆”を書き添えて下さっている。
今年初めてその一筆が無かったのが気がかりだ。 既に90歳を超えておられるはずだが、お元気でおられると信じたい。
その他の方々からの年賀状一筆で多いのは。
「いつまでも若くて活動的で素敵!」の一筆を寄越してくれるのは、過去の女友達連中だ。
確かに、と言っては失礼かもしれないが。 同級生の年賀状写真の中には、既に“お婆ちゃん”風貌の方々も多いなあ。 どうやったらそんなに老けるのか?? こちらが聴きたいくらいだが。 な~~んて言っていると、明日は我が身だろうなあ…😱
などと、後で楽しめる年賀状の差出人に関しては、今後も年賀状交換が続くのだろう。
片や、いつもいつも印刷年賀状に一筆の直筆も無い方々も少なくない。
このような殺風景な年賀状を寄越してくる方々とは、これぞ虚礼なのかもしれないが。
それにしても それを毎年続行するその心理の程は、私には計り知れないものがあるなあ。
嫌ならやめてくれても何ら差し支えないのだが。
もしかしたら、あちら側も別の意味(毎年自分の写真ばかりデカデカ載せていないで、いい年をして恥を知れよ!!)で、我が年賀状が鬱陶しいのかもしれないし。😝