原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

人間は物語に意味を見出したい生き物だから、考察欲が湧く!?!?

2023年10月31日 | 自己実現
 本日のエッセイは、久しぶりに朝日新聞「書評」欄より題材を得よう。


 早速、2023.10.21付朝日新聞「書評」ページより、村雲菜月著「もぬけの考察」に対する 小説家・山内マリコ氏による書評「今の社会を映し出す乾いた心性」と題する書評の一部を、以下に要約引用しよう。

 「考察」は知的好奇心をくすぐる魅力的な行為だ。 
 しかしあまり考察に熱中すると、他者の言葉に耳を貸さなくなり、しばしば独善に陥る。SNSにはあらゆる考察が溢れるが、荒れることはあっても建設的な議論が成立することはまずない。 考察はとても個人的で、デリケートなのだ。
 (当該図書は)都市のあるマンション、408号室を舞台にした連作である。 リモートワークをいいことに会社をサボった初音は、ずるずる引きこもるうち、ある日、自分が部屋から出られなくなっていくことに気付く。(中略)
 同じ部屋に大学生の末吉が入居している。 オンライン講義を受けるだけの生活に倦み、内気を打破しようとナンパに明け暮れていた。 (中略)
 住人が一人、また一人と消えていく。 人間は物語に意味を見出したい生き物だから、不条理であればあるほど考察欲が湧き、傍らでメモなんて取り始める。 ちりばめらえた家蜘蛛のイメージ、隣のサラリーマンの咳の音。不穏だ。
 コロナ禍で家にいる時間が増えた。 リモートの普及は歓迎されたが、社会生活に適応するため無理して諦めてきた自制心のタガは簡単に外れてしまう。 ことに一人暮らしになると、時間からなにから狂いはみめるのは自明の理だ。 (中略)
 自分より弱い者と見れば痛めつけたくなる乾いた心性は不快だが、彼女をそうさせたのは今の社会に他ならない。 (中略) 考察はここまでとす。

 (以上、朝日新聞「書評」ページより一部を引用したもの。)




 原左都子のとりあえずの感想だが。

 ああ、そういう分野の「考察」についての話ね。

 この私、過去の長い学業・仕事遍歴に於いて、「考察」を要する分野の学問及び業務にばかり携わって来た身にして。
 仕事(論文、レポート等々)の最後に必ずや「考察」を記する習慣が身についてしまっているため、その種の話題かと勘違いしていたようだ。

 例えば 特に医学分野の研究に於いては、まずテーマに沿った実験を繰り返し執り行って、その結果をまとめて。 最後に必ずや自分なりの「考察」で締めくくったものだ。
 
 あるいは 大学の卒業論文や大学院の修士論文とて、手法は同様だ。
 私の場合2度目の大学・大学院では「経営法学」を専攻していたのだが。 当然ながらその分野の論文を作成して提出した。 まさに、テーマに沿った学説研究や過去の裁判事例等々の収集・分析作業をして、それに対する我が私論の考察でまとめて論文の結論としたものだ。

 
 その習性が今尚強力に我が脳裏に根付いているようで。 

 現在公開している当該「原左都子エッセイ集」に於いても、その手法にてエッセイを執筆していると言って過言でないだろう。
 ほとんどのエッセイ(特に我がエッセイ集の主たるテーマである オピニオンエッセイ)に於いては、必ずや最後は我が持論であるオピニオン考察でまとめていると言えよう。

 
 上記に紹介した著書「もぬけの考察」に於いては、特にコロナ禍でリモートワークを課せられた若者達の行動・心情がテーマとなっているようだ。
 そして、特にネット上で繰り広げられている「考察」の数々が氾濫してしまっている現代の社会に於いて。  “自分より弱い者と見れば痛めつけたくなる乾いた心性”が不快とまでの、まさに「考察」が成されている。



 どうやら 我が「原左都子エッセイ集」はその種の世界とは別分野で私なりの“考察”を日々繰り広げていると結論づけられそうで、一応安堵している。

 それにしても、「考察」という単語とは てっきり “学術用語”と捉えていた原左都子だが。 

 それが ネット世界の若者たちの間では、ある種“不条理な世界観”を持って語られている事実に、愕然とさせられたりもするなあ…