上記表題のエッセイを公開したのは、当「原左都子エッセイ集」公開直後期の 2007.09.28の事だった。
2007年と言えば、原左都子は50歳少し。 我が一人娘が12歳(おそらく既に中学生になったばかりの頃)だっただろう。
娘小6時に、私立中学受験を目指して1年間だけ塾に入れたことがあり、その経験に基づいて執筆し公開したエッセイであると振り返る。
それでは、その全文を以下に再掲載させていただこう。
近年、世間では子どもを持つ親御さんたちが塾だ塾だと騒いでいる様子だ。だが、この現象をよく観察すると、塾を真に崇拝し塾に「教育力」を期待しているという訳ではなさそうだ。皆さん行き着くところ、子どもを受験に合格させてくれさえすればそれでよしとしているように見受けられる。
かく言う私も、子どもを受験時に塾に通わせた経験がある。我が家の場合、子どもの学習指導は普段より私が担当しているため、塾通いの目的は受験のための情報収集にあった。ところが塾は、個別に欲しい情報(志望校に関する詳細情報等)については至って貧弱で当てがはずれ、塾側から提供される情報というと通り一遍で一般論的なものしかなく大して役に立たないのだ。わざわざ塾に行かずとも入手できる情報しか伝授されず、塾に入れた意味がなくがっかりしたものである。結局は自分で直接志望校に足繁く通い情報収集するのが一番である。むしろ、志望校から得たその生の最新情報をこちらから塾に提供するために塾通いしたようなものなのだ。今後一生、子どもを塾に通わせる事は我が家の場合はないであろう。
そもそも塾の社会的立場を考慮した場合、塾に「教育力」が要請されているわけではない。「教育力」が要請されるのは家庭であり学校である。子どもの教育とは本来、各家庭が主体となって行われるべき業である。(本ブログ「道徳教育私観」で既にその見解につき述べているのでご参照いただきたい。)一方、現在“学校教育法”により小中学校教育が義務化されているため、法的に学校には子どもの教育の責務がある。 これに対し、塾は基本的には市場原理に従い存続発展するべく努力すればよい一営利法人である。子どもを一定時間預かってどのような学習指導を行おうが、誰からも非難される筋合いはない、気に入らなければ来なきゃいい、という道理なのである。
塾は親の要望をよく見抜いている。子どもを受験に合格さえさせればよいという短絡的な要望を。(極端な場合、私立ならどこでもいいと公言する親さえいる。)そこで塾はこの要望に応えるべくどのような手を打つかというと、皆さん既に十分ご承知のように、まず学校を偏差値ごとにランク付けする。そして、子どもの偏差値に合わせて志望校を決定するよう本人と親に仕向けるのだ。この方法を取れば大抵の子どもは合格する。塾にとって自塾生の受験合格率は命だ。塾の存続にかかわる。“偏差値ランク付け方式”は塾側にとっても一石二鳥の方法であり、一番手間暇いらず金もかからない方法なのだ。 元々志望校を決めた上で入塾してくるケースももちろんあろうが、その場合は一応志望を尊重するようには見せかけるのだが、子どもの偏差値が振るわないと志望校変更を迫るかあるいは併願校を増やすよう打診されるのである。(我が家の場合もそうであったが、志望校変更や併願校についての打診は断固として受け付けなかった。そうすると、塾側は責任は持てないらしく勝手にすればと言いたげで、相手にされなくなるのである。)この現存する塾が当たり前のように採用している偏差値第一主義は、「教育」という言葉とは程遠い事実としか言えない。
塾が乱立し競争が激化してきているとはいえ、これ程塾がもてはやされている現段階においては、さほど経営努力をせずとて“偏差値ランク付け方式”という通り一遍の方法で経営さえしていれば、おそらく破産に陥ることも少ないのであろう。とはいえ、先の見えない不確実性の高い世の中である。塾業界でも買収、統合が進んでいる様子でもある。一寸先は闇だ。社会的には「教育力」が要請されない業界であるとはいえ、それに甘んじ時代に迎合ばかりしていてはますます教育界全体が退廃していく。塾業界は自らの生き残りのためにも一歩前進して、もう少し真の「教育力」を身につけるべく精進されてはいかがか。
かく言う私も、子どもを受験時に塾に通わせた経験がある。我が家の場合、子どもの学習指導は普段より私が担当しているため、塾通いの目的は受験のための情報収集にあった。ところが塾は、個別に欲しい情報(志望校に関する詳細情報等)については至って貧弱で当てがはずれ、塾側から提供される情報というと通り一遍で一般論的なものしかなく大して役に立たないのだ。わざわざ塾に行かずとも入手できる情報しか伝授されず、塾に入れた意味がなくがっかりしたものである。結局は自分で直接志望校に足繁く通い情報収集するのが一番である。むしろ、志望校から得たその生の最新情報をこちらから塾に提供するために塾通いしたようなものなのだ。今後一生、子どもを塾に通わせる事は我が家の場合はないであろう。
そもそも塾の社会的立場を考慮した場合、塾に「教育力」が要請されているわけではない。「教育力」が要請されるのは家庭であり学校である。子どもの教育とは本来、各家庭が主体となって行われるべき業である。(本ブログ「道徳教育私観」で既にその見解につき述べているのでご参照いただきたい。)一方、現在“学校教育法”により小中学校教育が義務化されているため、法的に学校には子どもの教育の責務がある。 これに対し、塾は基本的には市場原理に従い存続発展するべく努力すればよい一営利法人である。子どもを一定時間預かってどのような学習指導を行おうが、誰からも非難される筋合いはない、気に入らなければ来なきゃいい、という道理なのである。
塾は親の要望をよく見抜いている。子どもを受験に合格さえさせればよいという短絡的な要望を。(極端な場合、私立ならどこでもいいと公言する親さえいる。)そこで塾はこの要望に応えるべくどのような手を打つかというと、皆さん既に十分ご承知のように、まず学校を偏差値ごとにランク付けする。そして、子どもの偏差値に合わせて志望校を決定するよう本人と親に仕向けるのだ。この方法を取れば大抵の子どもは合格する。塾にとって自塾生の受験合格率は命だ。塾の存続にかかわる。“偏差値ランク付け方式”は塾側にとっても一石二鳥の方法であり、一番手間暇いらず金もかからない方法なのだ。 元々志望校を決めた上で入塾してくるケースももちろんあろうが、その場合は一応志望を尊重するようには見せかけるのだが、子どもの偏差値が振るわないと志望校変更を迫るかあるいは併願校を増やすよう打診されるのである。(我が家の場合もそうであったが、志望校変更や併願校についての打診は断固として受け付けなかった。そうすると、塾側は責任は持てないらしく勝手にすればと言いたげで、相手にされなくなるのである。)この現存する塾が当たり前のように採用している偏差値第一主義は、「教育」という言葉とは程遠い事実としか言えない。
塾が乱立し競争が激化してきているとはいえ、これ程塾がもてはやされている現段階においては、さほど経営努力をせずとて“偏差値ランク付け方式”という通り一遍の方法で経営さえしていれば、おそらく破産に陥ることも少ないのであろう。とはいえ、先の見えない不確実性の高い世の中である。塾業界でも買収、統合が進んでいる様子でもある。一寸先は闇だ。社会的には「教育力」が要請されない業界であるとはいえ、それに甘んじ時代に迎合ばかりしていてはますます教育界全体が退廃していく。塾業界は自らの生き残りのためにも一歩前進して、もう少し真の「教育力」を身につけるべく精進されてはいかがか。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより再掲載したもの。)
我が娘の場合、当時 私立中学受験のために民間の塾に1年間のみ入れたのだが。
その実態とは、上記に記したとおりだった。
要するに 何ら塾になど入れる必要が無かった、との結論だ。
ただ、娘を通わせた当該塾に人格的に優れた若き男性先生が一人おられ、その先生の娘に対する個人指導の在り方が娘にとってプラスに働いた様子だった。 (まさに何処の組織にも善人、と言うのか優秀な人材が存在するものだと、感心させられた。)
これに救われて、この私も娘を塾退室させることなく1年間行かせたものだ。
その後 娘が私立中学進学の後は 塾等何らの外部の指導に依存することなく、我がサリバン力一本で某私立大学公募制推薦入試に合格させることが叶っている。
上記再掲載の我がブログには、当時おそらく塾関係者からと思しき反論コメントが届けられた。
その内容が実に感情的だったが故に、すぐに削除措置をとらせていただいている。
我が娘が既に30代に突入している身にして、塾など何の縁も無い身だが。
遠い昔に たったの1年間だけ娘に塾通いをさせたその思い出話を、今回少しだけ語らせて頂いた。