成人式用の振袖の折込チラシを見て思い出したのだが、私は成人式に出席していない。従って、振袖を所有してもいなければ、未だかつて手を通したこともない。
私の姉も私とまったく同様で、成人式に出席しておらず振袖も所有していない。
これは、私の親の考え方によるところが大きい。私の両親は、現実主義と言うのか合理主義と言うのか、昔から(私に言わせてもらえば)自らの“偏った”価値観に固執して“無駄”を徹底的に排除したがるところがある人間達だった。現在まだ生存している母に関しては、今でこそ年老いて考え方が相当柔軟になってきているが、昔は、通常の母親らしくない異質な思想のある人間のように私には感じることもあった。
そんな両親は、成人式の何年か前から娘2人に宣言していた。
「成人式に親として(無用の長の)振袖など作る気はないから、そのお金を有意義に使うことを自分で考えておきなさい。」
私はそのお金に自分の貯金も足して、米国へ短期留学する事に決めた。そして、20歳になる直前の19歳の夏に単身で米国へ旅立った。私なりの成人のお祝いはこれで終了した。
ところが、当時まだ私は学生であったのだが、1月の成人式が近づくにつれ周囲の女友達の間では親に作ってもらった振袖の話に花が咲きはじめた。 どんな色にした、どんな柄にした、髪はどう結おうか、等々…。 話に入れない私にだんだんと惨めさが漂い始めた…。 何と言ってもまだ二十歳の子どもだ。
これはどう判断しても、洋服でのこのこと成人式には出席できない。そう感じた私は、成人式には欠席の決断をした。健気な私は、欠席の理由を振袖がないためではなく自分自身の考えによる、と親に伝えた。
さすがの親も私のそんな心情を察していたようである。特に母親は、私の健気さが身に沁みた様子だった。
そんな母は、私が何年か後に東京へ旅立った後、母なりの奇妙とも言える“罪滅ぼし”を始めたのだ。
母は年代的にも元々「和服」が比較的好きな人間だったのだが、姉と私2人の娘のために一生に渡って着ることのできる「和服」一式を揃え始めたのである。訪問着、小紋、色無地、紬、そしてアンサンブル、それに着物に合わせた帯に羽織、コート、夏冬の喪服、浴衣、それから、着物用毛皮にバックに巾着、履物、長襦袢等の下着類、等々等々……
しかも、姉がウン十年前に米国に永住するに当たり、それらすべての和服を私に預けて行ってしまったため、私の大きな和ダンスは和服で満杯である。
母の“奇妙”な罪滅ぼしは有難いのだが、残念なことに今の時代、和服を着る機会など皆無に近いのが現状だ。
結局、私が母の仕立てた和服に袖を通したのは、30歳代後半の大学院の修了時に袴の下に訪問着を着たのみである。(それでもその時、母は十分に喜んでくれた。)
私としては当時まだ独身だったので本音を言えば派手な振袖を着たかった。そのため、自身の“学位授与式”用に、自分で振袖を仕立てようかとも考えた。
上記のごとく“偏った”両親の価値観の下で育った私には、そんな両親の“偏り”のお陰で、当時独力で大学院を修了して、振袖くらい仕立てられる程の財力も軽く備わっていた。 だが、母のせっかくの“奇妙”な罪滅ぼしをその機会に尊重したいと考え、あえて母が仕立ててくれた訪問着を着たといういきさつである。
それはともかく、この和ダンス一杯の和服であるが、今や正直なところ我が家にとってはそれこそ“無用の長”の存在であることは否めない。 引越しの度に思い切って捨てようかとも考えるのだが、我が母の娘の成人式への“罪滅ぼし”に思いを馳せると、やはりどうしても捨てられない。 虫干しをする気も機会もなく、おそらくタンスの中の和服はカビだらけなのではなかろうか。
現在15歳の我が娘には、5年後(3年後??)の成人のお祝い時に「振袖」を一枚だけ作ってやることが今の時代の親としての最高のお祝いだと、我が親の教訓としてしみじみ思う私である。
私の姉も私とまったく同様で、成人式に出席しておらず振袖も所有していない。
これは、私の親の考え方によるところが大きい。私の両親は、現実主義と言うのか合理主義と言うのか、昔から(私に言わせてもらえば)自らの“偏った”価値観に固執して“無駄”を徹底的に排除したがるところがある人間達だった。現在まだ生存している母に関しては、今でこそ年老いて考え方が相当柔軟になってきているが、昔は、通常の母親らしくない異質な思想のある人間のように私には感じることもあった。
そんな両親は、成人式の何年か前から娘2人に宣言していた。
「成人式に親として(無用の長の)振袖など作る気はないから、そのお金を有意義に使うことを自分で考えておきなさい。」
私はそのお金に自分の貯金も足して、米国へ短期留学する事に決めた。そして、20歳になる直前の19歳の夏に単身で米国へ旅立った。私なりの成人のお祝いはこれで終了した。
ところが、当時まだ私は学生であったのだが、1月の成人式が近づくにつれ周囲の女友達の間では親に作ってもらった振袖の話に花が咲きはじめた。 どんな色にした、どんな柄にした、髪はどう結おうか、等々…。 話に入れない私にだんだんと惨めさが漂い始めた…。 何と言ってもまだ二十歳の子どもだ。
これはどう判断しても、洋服でのこのこと成人式には出席できない。そう感じた私は、成人式には欠席の決断をした。健気な私は、欠席の理由を振袖がないためではなく自分自身の考えによる、と親に伝えた。
さすがの親も私のそんな心情を察していたようである。特に母親は、私の健気さが身に沁みた様子だった。
そんな母は、私が何年か後に東京へ旅立った後、母なりの奇妙とも言える“罪滅ぼし”を始めたのだ。
母は年代的にも元々「和服」が比較的好きな人間だったのだが、姉と私2人の娘のために一生に渡って着ることのできる「和服」一式を揃え始めたのである。訪問着、小紋、色無地、紬、そしてアンサンブル、それに着物に合わせた帯に羽織、コート、夏冬の喪服、浴衣、それから、着物用毛皮にバックに巾着、履物、長襦袢等の下着類、等々等々……
しかも、姉がウン十年前に米国に永住するに当たり、それらすべての和服を私に預けて行ってしまったため、私の大きな和ダンスは和服で満杯である。
母の“奇妙”な罪滅ぼしは有難いのだが、残念なことに今の時代、和服を着る機会など皆無に近いのが現状だ。
結局、私が母の仕立てた和服に袖を通したのは、30歳代後半の大学院の修了時に袴の下に訪問着を着たのみである。(それでもその時、母は十分に喜んでくれた。)
私としては当時まだ独身だったので本音を言えば派手な振袖を着たかった。そのため、自身の“学位授与式”用に、自分で振袖を仕立てようかとも考えた。
上記のごとく“偏った”両親の価値観の下で育った私には、そんな両親の“偏り”のお陰で、当時独力で大学院を修了して、振袖くらい仕立てられる程の財力も軽く備わっていた。 だが、母のせっかくの“奇妙”な罪滅ぼしをその機会に尊重したいと考え、あえて母が仕立ててくれた訪問着を着たといういきさつである。
それはともかく、この和ダンス一杯の和服であるが、今や正直なところ我が家にとってはそれこそ“無用の長”の存在であることは否めない。 引越しの度に思い切って捨てようかとも考えるのだが、我が母の娘の成人式への“罪滅ぼし”に思いを馳せると、やはりどうしても捨てられない。 虫干しをする気も機会もなく、おそらくタンスの中の和服はカビだらけなのではなかろうか。
現在15歳の我が娘には、5年後(3年後??)の成人のお祝い時に「振袖」を一枚だけ作ってやることが今の時代の親としての最高のお祝いだと、我が親の教訓としてしみじみ思う私である。
適当に取り出して一番に出てきたのが、総絞りの“浴衣”でした。これは娘が幼稚園の時に浴衣が必要だというので、私の母が作ったのを着せようと思い取り出したので上の方にありました。当時はさすがに幼稚園児の娘には大き過ぎて断念したことを思い出しました。十分に綺麗でした!
その次に出てきたのが“訪問着”でしたが、これは私がウン十年前に腕を通したものです。量さんのおっしゃる通り、意外や意外、私が一見したところカビは生えていませんでした。ただし、私のたたみ方が悪く、変な皺がついているようです。
でも、量さんのコメントのお陰で和服を見てみる気になりましたし、いやいや和服とは美しいものであることを再認識しました。
また時間があったら他の和服も広げて見てみたいと思います。
ところで量さん、まさか「サリー」の着付けの仕方はご存知ないでしょうね。先だって行ったインドで購入してきたのですが、これがまた着付けが難しくて、せっかく買ってきたのに和ダンスの中にしまい込んでいます。
きっと、インターネットを探せばありますよね??
でも、虫干ししなければ絹は弱くなって切れやすくなります。
呉服屋さんに行けば多分シリカゲルの類でできた、除湿用のを売っていますから、防虫剤との相性を確かめて使えば、虫干ししなくても結構大丈夫だ、と聞いたことがありますよ。
1月から2月の異常乾燥注意報が出ているときに、室内に一両日掛けておくだけでいいのです。
針金ハンガーに暖簾棒かつっぱり棒でもつけておけば和装ハンガーは要りません。
ウールの着物と絹ものは一緒に入れてはいけません。
わたしなんかウールは洋服と一緒にフツーの洋服箪笥に入れてます。しわは寄るけど、着ないよりましですよね。
ウールにも、ちょっと離れて目を細めてみれば大島に見えるものとか、あるし。普段着に着物を着ていた時代はこういうものを着ていたのであって、今呉服屋さんで手に入りやすいようなものが使われていたわけではないらしいです。
私は中学のときにはもう着付けができるようになっていました。冬は家で着物でしたので。高校に入ったら家事と勉強で忙しくなったのでやめましたが。
結婚する前後に教室にはいきましたが、教室で習った通りには着ません。
超速いお太鼓の結び方とか紹介しているサイトなどを参考にしています。インターネット万歳!です。長文すみません。
私も親から着物を渡された時に、一通りの話を聞いてはいたのですが、着物って何でも着ればいいというものではないですよね。TPOを考えて着物を選ばなければいけませんよね。
下手に自分の好きな着物を取り出して、場違いに着て出かけたのでは恥をかくところでした。
量さんは日常的に着物を愛好されていらっしゃるとのこと、着付けもお茶の子さいさいなのでしょう。
いつの間に、そのような能力を身につけたのですか?羨ましいですね。
喪服については、私も父の葬儀には葬儀屋の着付けもセットのレンタルにしました。レンタルは脱ぎっ放して帰れるのがいいですね。
着物って着た後のケアが大変ですよね。今は自宅で洗濯できる着物もあるのですね。
あっ、私は着物でチャリに乗っている“おばちゃん”を何度か見かけたことがありますよ。
そういう女性って、そもそも着物がちっとも似合ってなくて、自転車に乗っている姿が自然で違和感がないのが不思議です。
全部の着物を和紙に包んだまま保存してありまして、その和紙を開けることすら面倒で、結局は中身を見ずじまいです。
もう少し子どもが大きくなって手が離れたら、一度中身を点検だけでもしてみようかと思います。きっとカビだらけだと思うのですが…。
その後に、対策を考えたいと思います。
洗えてしかも冬も着られるものにはほかに、ウールや木綿、デニムの着物があります。
目立ちますよ!
呉服屋さんに行けばポリを勧められますが、寒いし着付けしづらいです。まあ、雨の日のハレの行事用でしょうかね。
ちょっと今腹部の筋腫が大きくなっていて、洋服を着るとしんどいのが、和服にした理由です。体が楽なのです。
原様のラインアップを見た限りでは礼服中心、どれもこれもイブニングドレスやカクテルスーツのようなものですから、私のようにそれでどこにでも行って襷を掛けて家事をするというわけにはいきませんよね。
あえていえば色無地と紬とアンサンブルがまあ、ちょっとおでかけできるかな。
でも色無地ももし紋がついていれば礼装です。洋服の人の中に一人入って食事や観劇と言うわけにはいきません
別に無用の長物ではなく、着る機会の絶対量が少ないだけのことではないでしょうか。
私も礼服は一式ありますが(振りそではないです。私の友人たちも成人式で振りそでを着たものはありませんでした)、これらはどれもこれも数時間しか着てないし、喪服に至っては一度もそでを通していませんです・・・・・
だってだって、父が亡くなった時も姑が亡くなった時も、自転車に乗って買いだしに行ってみんなの世話をしていたんですもの!黒スーツに真珠つけて。
そう、着物の致命的な欠点は、自転車に乗れないことなのです!!!!
エプロンやコート着て乗る人はいるらしいですが、名物になるでしょうね。私はやってません。
私は当時東京で学生生活を送っていまして、郷里での成人式には出席できませんでした。通過儀礼を出来なかった事、晴れの舞台に出席出来なかった事を今でも悔やんでいます。
さて和服の事ですが、正月や成人式、結婚式などの晴れの日を除いて殆ど和服姿を見かけなくなりました。素晴らしい日本の文化と美であり、その美は女性の色気をも演出し、日本の風土に合った快適さを創出する、と思うのですが、衣服の機能面から見れば今の時代に合わないのかもしれません。ライフスタイルの変化だと言えばそれまでですが。
私も和服を持っていますが、袖を通すのは正月くらいのものです。しかし、あの安泰感と快適さには捨て難いものがあります。畳の上で和服姿で過ごす時、和みを覚えます。
和服をリサイクルして色々と今風なファッションを試みた作品もありますが、やや異質感を覚え、私は受け受け入れ難いです。
お母さんの原さんに対する母親としての想いが着物を通して伝わって来まして、色々な事を考えさせられました。
娘さんの成人式にはぜひ和服を着せてあげてください。喜んでくれると思います。
殆どのご家庭では和服は無用の長と化していながらも、捨て難い存在ではないでしょうか。勿論我が家も
そうです。
物、特に衣服、とりわけ和服にはその持ち主の感情が移入されている様な気がします。単なる、物ではないです。
「和服はタンスの肥やし」と人は言いますが、無用の長であれ、保存しておく事も一つの文化の継承に繋がると思います。
親から子へ、子から孫へと連綿として受け継がれて来た和服の文化を考える時、日本人の美意識、木と紙の文化、日本の建築と街並みなどに関しても考える事が多いです。
でも、私は何だか和服が似合わないような気がするのです。それが母が作った和服を取り出して着てみようとしない第一の理由ですね。
和服って、特に女性の場合は和服を着るにふさわしい女らしさが必要なような気もします。その辺の色気と申しますか、品格と申しますか、それが私には備わっていないと思うのです。
これからそういう女らしさを備えて、和服を着るにふさわしい女に成長できたら、着てみることにしようかな…。
今でも自分が大人なのか子どもなのかなどと考えることもないですし、大人と子どもの線引きは難しいものですよね。
じぇ~んさんがおっしゃるように、成人式の意義って見出しにくいものかもしれません。
着付けが出来ないのです。そのため、着物を着るとなるといちいち美容院でお世話にならなければ着られませんので、ついつい敬遠してしまいます。
それから、着物を着ると歩きにくいですし、トイレも大変ですし…。
どうしても実用性という部分でも後回しにしてしまっています。
それから、私も普段たまに和服の女性を見かけますが、失礼ながら、あまり似合っていなかったり歩き方が悪かったりで、みっともない方がいらっしゃるのも事実で、そうはありたくないとも思うのです。
息子さんのために仕立て直す事もお考えとのこと、私も少しは爪の垢を煎じて飲ませていただいた方がよいかもしれません。
例えば、私には20歳の頃既に自分で振袖を仕立てられる程の貯金がありました。一方的に「そんなものは必要ない」という考えを押し付けるのではなく、少なくとも「欲しければ自分で作りなさい」と言うべきだったと思います。
そして我が親が「振袖など要らない」と言った背景には、娘を少しも女として扱っていない思想があります。早くから自立を促されていましたし、結婚などしなくていい、と半ば本気で言っていましたし、とにかく娘に「女」としての幸せを願っていない親でした。
娘が女として綺麗に成長するのも楽しみなものだと、私など我が娘を見ていて思うのですけどね…。
特に姉などは、「要らないものを作って」と母を責めていましたし、揚句の果てに私に全部押し付けた始末です。
今や、母にたまに会っても着物のことなど話題にも出ないのですが、私はどうやら未だに着物を取り扱える年齢に達していないようです…。トホホ…
とにかく、娘の成長をもう少し待って、私も自由な時間がもう少し増えたら、いろいろと利用方法を考えてみようかと思います。
ですが、やはり着てなんぼの物ですよ。
写真館へ持ち込んで撮ってもらうのはどうでしょう。
娘さんと一緒に記念写真もいいじゃないですか。
(僕も見てみたいな…♪)
少し前に地元の美術館である日本画のコレクションの展示があり、そこに観覧に来ていた日本画サークルの人達の中に20~30代位の和服姿の女性が何人かいたのですが、とても上品で華やいだ雰囲気でした。
京都では舞妓さんの貸衣裳とヘアメイクが若い女の子に人気ですね。
ただ写真を撮るだけではなく、舞妓「コスプレ」で市内の商店や飲食店を訪れると割引やプレゼントなどの特典もあるそうです。
左都子さんが和服姿で春の京都・白川や嵐山の桜並木を散策されている姿も素敵だろうな、と勝手に妄想を膨らませています。(^^)
そう、20歳の子供だったんですねぇ。
当時は相当尖がってて。「価値」を見出せなかったですね。一生に一度…なんてなんとも思ってませんでした。
もちろん周囲は相当言ってくれてましたけど。
変わり者ですがこんな人も少しはいるかも?やっぱ、いませんよねぇ。
和服を着る「機会がない」と言うのは解せません。
結婚式とか落成記念とか晴れがましい場所へ出席するチャンスに恵まれないと言う事が理由なら、それは違うと思います。映画、コンサート、食事会など様々な機会があると思います。
私はデパートなどのレストランでも結構和服の女性を見かけます。素敵だと思います。
これからはそう言う文化も含めた日本人らしい情操教育もあって良いのではと思う今日この頃です。
親の後悔を、痛ましく感じました。
自分で信念を持つことも、親としては当然の時があるが、世間一般の感覚は持ち合わせたいと思いました。
子供の個性を生かす親になるのは、とても難しいとも思いました。
最後の雑巾になるまで使って呉服としての一生を終えますが原さんが其処までの考えを持ち最後まで取り扱える年齢に達したとお母様が判断をしたのでしょうか(笑
娘さんの好きな柄を残し処分してはいかがでしょうか。着物たちが喜びます。やっとひのめをあびると
実は私の祖母も和服の仕立てのプロでして、和裁の教員もしていた人でした。
それで、私達孫もその恩恵に預かりながら小さい頃から過ごしていましたので、両親の、娘には「振袖は要らない!」決断には少なからずショックを受けました。
でも今時、和服はほとんど無用の長であることには間違いないですね。
それで、私も娘には振袖を一枚だけ作ってあげようと考えています。
まさに、娘がいる楽しみです!
かんさん、今年もよろしくお願い致します。
僕の子供は、三人とも男の子なので、面倒ないのですが、一番下の息子は来年成人式、名前が女の子の名前に間違われやすく、振袖のDMや電話がひっきりなしに届きます。僕は、女の子だったら買ってあげたのに等と勝手なことを云ってます。