(写真は、現在横浜美術館にて開催中の「セザンヌ主義」のパンフレットの一部)
上記パンフレットの写真の絵画はフランスの画家、ポール・セザンヌが描いた自分の妻の絵「青い衣装のセザンヌ夫人」であるが、ご覧のように決して幸せそうではない表情の夫人の肖像画である。
昨年末に横浜を訪れた際に横浜美術館へ立ち寄り、この「セザンヌ主義」の特別展を観賞して来た。
その際に大いに印象に残ったのは、夫のセザンヌにより描かれたセザンヌ夫人のこの不満げで冴えない表情である。この「青い衣装のセザンヌ夫人」の他にも数枚のセザンヌ夫人の肖像画が展示されていたのだが、一枚と例外なく、夫人は暗くて冴えない表情なのである。
あくまでも素人の私に好き放題言わせてもらうと、通常女性を描いた肖像画と言えば、まず美人であること、そして色香が漂い妖艶であり、しかも品格がある等、女性としての何らかの魅力があることが要求される。たとえ美人ではなくとも、たとえば愛嬌があったり、表情豊かで内面から何かを訴えるようなインパクトがあって欲しいものである。
ところが、どういう訳かこのセザンヌ夫人の絵を見ると、「他に描く女性がいなかったのだろうか。自分の奥さんとは言え、何も好き好んでこんなブスを描かなくても…」、あるいは「せっかく世に出すならば、多少偽りであっても修正してもう少し美人に描いてやればよかったのに…」等々、要らぬお節介心までが頭をもたげてしまう。
そういった理由で、セザンヌ夫人の肖像画はマイナスイメージで印象深い存在ではあった。
折りしも、一昨日1月7日(水)の朝日新聞夕刊“水曜アート”のページにこの「青い衣装のセザンヌ夫人」が取り上げられていた。
その記事の題名は、「妻が不幸に見えるわけ」。 やはりそうなのか。この肖像画のセザンヌ夫人は誰の目にも不幸そうに見えるのだ、と納得である。
さて、それではこの朝日新聞夕刊の記事を以下に要約して紹介してみよう。
(この絵は)画家が自分の妻を描いた絵には見えない。どこか不幸そうだし、男のようでさえある。レンブラントの昔から、画家は自分の妻を美しく幸せそうに描いてきたのだが…。
人嫌いで知られたセザンヌは、妻オルタンスの肖像画を30点近く描いた。まるで実験のように妻をさまざまな姿勢と角度で描いている。
セザンヌにとって、構図と色のバランスがすべてだった。妻は格好の実験材料だったようだ。夫婦仲は悪かったが、妻はモデルとして複雑で厳しいセザンヌの要求に応えた。創造への共犯意識があったのか。
今回(横浜美術館に)出品の妻の絵を比べるだけで、天才の狂気が伝わってくる。
以上、朝日新聞記事より要約引用。
なるほどねえ。
“創造への共犯意識”という妻の立場からのセザンヌへの“立派な”愛情表現。そのように捉えてこの絵を見直すと、こんな俗人の私にさえも、この無愛想な表情の夫人の絵にも内面から訴えるものが感じられるのが不思議である。
もう一度、横浜美術館へ行って、セザンヌ夫人の肖像画を観賞し直してみたい気分にもなる。
それにしても、セザンヌが“人嫌い”であったことはこの肖像画の夫人の表情が物語っているようにも思える。 構図と色のバランスにこだわり、あえて不仲の妻を書き続けたセザンヌ。
だが実はそれも、セザンヌの不仲だった妻に対するせめてもの愛情表現だったのかもしれないとも私には思えてくる。
誰も私の肖像画など描いてはくれないだろうが、もし描いてくれる人がいるならば、やっぱり嘘でも美人に、そして艶っぽく修正して描いて欲しいな~~。
上記パンフレットの写真の絵画はフランスの画家、ポール・セザンヌが描いた自分の妻の絵「青い衣装のセザンヌ夫人」であるが、ご覧のように決して幸せそうではない表情の夫人の肖像画である。
昨年末に横浜を訪れた際に横浜美術館へ立ち寄り、この「セザンヌ主義」の特別展を観賞して来た。
その際に大いに印象に残ったのは、夫のセザンヌにより描かれたセザンヌ夫人のこの不満げで冴えない表情である。この「青い衣装のセザンヌ夫人」の他にも数枚のセザンヌ夫人の肖像画が展示されていたのだが、一枚と例外なく、夫人は暗くて冴えない表情なのである。
あくまでも素人の私に好き放題言わせてもらうと、通常女性を描いた肖像画と言えば、まず美人であること、そして色香が漂い妖艶であり、しかも品格がある等、女性としての何らかの魅力があることが要求される。たとえ美人ではなくとも、たとえば愛嬌があったり、表情豊かで内面から何かを訴えるようなインパクトがあって欲しいものである。
ところが、どういう訳かこのセザンヌ夫人の絵を見ると、「他に描く女性がいなかったのだろうか。自分の奥さんとは言え、何も好き好んでこんなブスを描かなくても…」、あるいは「せっかく世に出すならば、多少偽りであっても修正してもう少し美人に描いてやればよかったのに…」等々、要らぬお節介心までが頭をもたげてしまう。
そういった理由で、セザンヌ夫人の肖像画はマイナスイメージで印象深い存在ではあった。
折りしも、一昨日1月7日(水)の朝日新聞夕刊“水曜アート”のページにこの「青い衣装のセザンヌ夫人」が取り上げられていた。
その記事の題名は、「妻が不幸に見えるわけ」。 やはりそうなのか。この肖像画のセザンヌ夫人は誰の目にも不幸そうに見えるのだ、と納得である。
さて、それではこの朝日新聞夕刊の記事を以下に要約して紹介してみよう。
(この絵は)画家が自分の妻を描いた絵には見えない。どこか不幸そうだし、男のようでさえある。レンブラントの昔から、画家は自分の妻を美しく幸せそうに描いてきたのだが…。
人嫌いで知られたセザンヌは、妻オルタンスの肖像画を30点近く描いた。まるで実験のように妻をさまざまな姿勢と角度で描いている。
セザンヌにとって、構図と色のバランスがすべてだった。妻は格好の実験材料だったようだ。夫婦仲は悪かったが、妻はモデルとして複雑で厳しいセザンヌの要求に応えた。創造への共犯意識があったのか。
今回(横浜美術館に)出品の妻の絵を比べるだけで、天才の狂気が伝わってくる。
以上、朝日新聞記事より要約引用。
なるほどねえ。
“創造への共犯意識”という妻の立場からのセザンヌへの“立派な”愛情表現。そのように捉えてこの絵を見直すと、こんな俗人の私にさえも、この無愛想な表情の夫人の絵にも内面から訴えるものが感じられるのが不思議である。
もう一度、横浜美術館へ行って、セザンヌ夫人の肖像画を観賞し直してみたい気分にもなる。
それにしても、セザンヌが“人嫌い”であったことはこの肖像画の夫人の表情が物語っているようにも思える。 構図と色のバランスにこだわり、あえて不仲の妻を書き続けたセザンヌ。
だが実はそれも、セザンヌの不仲だった妻に対するせめてもの愛情表現だったのかもしれないとも私には思えてくる。
誰も私の肖像画など描いてはくれないだろうが、もし描いてくれる人がいるならば、やっぱり嘘でも美人に、そして艶っぽく修正して描いて欲しいな~~。
美大では、最初に裸婦を描きます、10代後半の学生には厳しい修行の様ですが、性的な興奮を乗り越えたところに芸術の崇高なところが見えてきます。
要は、裸婦に慣れるだけなのかもしれませんが・・・。
芸術は、奥が深い様で、比較的単純だったりします。
セザンヌは、奥さんのことが好きだった。奥さんを裸婦にした絵を残さなかった事が、愛情の証明だと思います。
美術館に着物着ていくの、大好きなのですが、ここのところ取り紛れて行っておりませんでした。
それにしても、天才の女房になるって、どんな人生なのでしょうかね。
いろいろ考えることが多い展示だろうと、期待しております。
セザンヌは「構図と色のバランスにこだわり」を持った画家として有名ですが、やはり奥様を実験台に使われた感じは否めません。青い色を使用している点も見逃せないように思います。とても寒そうですし、奥様の表情なども冷たく感じます。その後の彼の絵にどのような変化を齎したのかは知りませんが色使いのテスト的な要素があったのではないでしょうか。
「奥様をもう少し綺麗に」と言うご希望ですが、そこはあの時代の画家を見れば判るように、ゴッホなどちょっと偏った方が多いです。そんなセザンヌの方針に奥様は反対することが出来なかったのだと思います。我々凡人には理解できない、芸術家の不可解な面が出ている絵だと思います。原さんも普通の人なんだと思いました。コリャ小学生の作文だね。
それで、ドカドンさんは若かりし頃は何が描きたかったのか、そして今ならば何が描きたいのか私は知りたいですね。
裸婦像に関しては私も興味があります。
この前のシャガールの記事にも書きましたが、女の私としては、愛の裏付けを持って描いて欲しいような気がします。そこには性的興奮も存在していいようにも思うのですが…。それはあくまでも素人考えなのでしょうか。
でも下手に冷めた目で単なる対象物として描かれる裸婦のモデルになど、私は絶対になりたくないですね。(誰もなってくれ、とも言いませんが…。トホホ…)
そういう意味では、セザンヌは夫人の裸婦像を残さなかったのは、ドカドンさんがおっしゃるように、一つの愛情表現だったのかもしれませんね。
それを言うならば、量さんの旦那様など、天才の亭主じゃないですか!!? (実は私は大学院時代から、量さんの天才性を見抜いていますよ。失礼致しました…)
それはともかく、量さんは横浜美術館へはまだいらっしゃってなかったですか?
是非、和服を召されて観賞して下さいませ!
何分、美術に関してはド素人の私が綴ったブログ記事ですので、さぞや小学生レベルであることでしょう。
でも、isseiさん、小学生以下のレベルであるからこそ見えてくるものもありますよ~。
これが面白くて、ド素人の私は美術鑑賞を続けております。
好きなものが好き、美しいものは美しい、そういう観点で芸術に触れておりますと心から感動することも多いです。
今回のセザンヌ夫人の肖像画は、小学生レベルの私にはがっかりでしたが、その“がっかり”のインパクトが大きくてかえって印象に残ったお陰で、isseiさんのおっしゃる後期印象派の知識も得ました。
芸術って本当にすばらしいですね!
そして、人それぞれの芸術の楽しみ方があってもいいのではないかと思う私でもあります。
朝日新聞夕刊のコメントは面白いですし、原さんの観点も素朴でユニークです。
女性を美人に描かない方がリアリティがあって想像力を駆られるのではないでしょうか。自分の奥さんであればなお更です。
例えば、セザンヌと奥さんの生活はどの様になっているのだろうか、仲が悪いのだろうか、貧しいのだろうか、豊かなのだろうか、などと鑑賞者はイメージを膨らませるはずです。
画家は意地悪で自己主張が強く自己本位。それに、狂気を帯びていますから、鑑賞者にイマージネーションを膨らませる様にとメッセージを発信し、更には自分の作品が後世に残った時の効果をも考えているのだと思います。
セザンヌの奥さんも狂気だと思います。狂気と狂気が
衝突する所に芸術の光が輝く事を、意識するしないに関わらず、お互いに熟知していて、それが互いの愛情の証だったのかもしれません。愛情の表現には色々な形がある事も確かです。
画家は役者であり演出家であり、キャンバスという平面の中で孤独な一人芝居をしているのかもしれません。
その様な意味に於いて、天才は狂気を帯びています。
ゴッホも違った意味での天才であり狂気ですし、それが画家という職業を乗り越えた人間としての魅力でもあります。画家に限らず、文学作家も俳優もそうだと思います。
社会の中で画家は面白い存在ですし、私には狂気を帯びている人間が魅力的に映ります。
高校時代に教わった先生も個展を開催する機会が多く、色紙を送付して下さいます。先生の若い頃の作品を観慣れている私ですが、先生の最近の作風に惹かれています。言葉では表現し難い色と形の魅力です。
違うんです。自分の文章を言っています。言葉が足りなくて申し訳ありません。
原さんのブログは良い構成でしっかり書かれています。
こんな間違ったコメントを書くから自分は小学生だと思っている訳です。正直に言いますと技術系の人間は往々にしてその傾向にあると思います。定型の略語とか記号で済ませることが多く、説明不足が多々あるように思います。と言い訳をしてみました。
とにかく小学生は自分の事を言っています。最高学府で学問を修められた原さんを小学生呼ばわり出来る筈ありません。宜しくお願い致します。
で、多くの作品を残していると言う事は、「愛情表現」なんですよ。きっと・・・
お金が無くて、厳しい生活強いられる妻の気持ちが「顔」に出ちゃっているんでしょうね。
かと言って、他の女性を「モデル」に使わない、セザンヌの愛情なんだね。
彼以外の画家達はこの点どうなんでしょう。
クルマのデザイナーになりたかったからでしょうね!
裸婦に対しては、10代後半~20代後半まで位は、絵で見るのではなく、ダイレクトに見たかったですね!
(今でも見たいか!)
美大で、裸婦を毎日見る、その度に性的な興奮をしていたら、それは普通の学生止まりで、性的な興奮すら越えた領域で冷静でいられる事が芸術には求められると言う事ですよ!(筆が震えないと言った)
原さんがおっしゃる「愛」ですが、裸婦を描いていてモデルと出来てしまった画家は多いと思いますよ。
でもこれは普通の画家のやる事で、絵を描いてる間はモデルを、絵の対象者と思わないと、芸術家にはなれない。
ただ、どんなに立派な芸術家でも、モデルが服を着た時には、優しい声の一つも掛けれない様では人間ではない。
コメントの中に、ゴッホは狂気と表現された方もいたと思いますが、ゴッホは、確かに自分の耳を切り落としています。
セザンヌが仮に貧乏だったならば、裸婦のモデルを雇うお金がなかったのかもしれません?でも、婦人の裸婦があるかも・・・。でも、処分して残さなかったのが、セザンヌの愛情でしょうね。
ダビンチは、モナリザの事が好きだった。でも、女性に対する愛情ではなく、母性に近いと言われてるのではなかったでしょうか?
一説では、モナリザは、母親を描いたとか言いませんでしたっけ?
違いましたか???