2005年に政府が「骨太の方針2005」でも導入促進をうたった公立の小中学校における“学校選択制”に、早くも廃止の動きが出てきている。
朝日新聞9月27日(土)朝刊社会面記事によると、東京都江東区では子どもや保護者が進学先の学校を選択できる“学校選択制”を見直すことを決めた。さらに前橋市では小中学校双方で選択制の廃止を決定した。
このうち前橋市を例に取ると、04年に導入した制度を、わずか4年のみの実施での廃止決定である。(10年度を最後に廃止する方針)
公立小中学校で学校選択制が検討されるようになったのは90年代半ばの頃である。1998年に最初に学校選択制を導入した三重県紀宝町を皮切りに、2000年には東京都品川区もこの制度を導入した。現在では東京の区部等、この制度を採用する地域は拡大しており、内閣府が2006年に行なった調査では小学校の14,9%、中学校の15,6%が導入しているとされる。
私自身も子どもの中学入学時に保護者として学校選択制を経験している。ただし我が子の場合は結果として私立中学に進学したため、選択した公立中学へは進学していないのではあるが。
この私自身の保護者としての経験、及び、本来「教育」とは選択できるものであるべき、とする自らの考えにより、私は“学校選択制”賛成の立場である。
なぜ我が家が子どもの進学先として結果として私立中学を選択したかと言うと、私立の場合学校の“選択”が可能なことが前提条件だからである。我が家の学校の選択基準は決して「偏差値」ではなかった。子どもの特性と将来の希望、そして学校の教育理念と校風を最重視し、とことん選択した。
公立の場合、元来、全国どこの学校でも同様の教育を提供するというナショナル・ミニマムの考え方に基づき整備されており、また人事異動によって教職員を常に入れ替えているため、理論的には学校間格差はないとするのが国や自治体の言い分であろう。
ところが、現実的には公立においても学校間格差は明らかに存在する。
学校選択制を採用している自治体においては、私立へ進学希望の場合でも一応全員が公立の希望校を自治体に提出することになる。そのため、我が家でも希望公立中学を選択したのであるが、この選択に当たって我が家の場合は“学校見学”を最重視した。我が自治体では6月に1週間自由見学期間が設けられ、希望の公立中学を自由に見学できる機会が与えられた。我が家は“一次選抜”として資料による検討によりあらかじめ4校に絞り込み、“最終選抜”のためいざ公立中学へ見学に出かけた。
同じ公立と言えども学校の校風とはこれ程格差があるものかと、まざまざと見せつけられる思いだった。教職員生徒両者共に挨拶がきちんとできること、授業中の教職員と生徒双方の熱意や態度、校舎内の整備整頓等を選択基準としたのであるが、学校間格差の激しい事この上ないのだ。頭を悩ませることは何らなく、希望校が自ずと一校に絞り込まれた。
(ところがどこの中学へ行っても見学者が私以外一人もいないのだ。百聞は一見にしかず、であるのに、一体皆さんどうやって希望校を選択したのであろう?? どうも、単なる噂に惑わされているという話も小耳に挟んだものだが…)
話を学校選択制の廃止の動きに戻すが、廃止の理由として自治体では「児童生徒数に大きな偏りが生じる」「地域との連帯感が薄れる」事を挙げている。
学校選択制とは教育における競争原理の導入であり、生徒数に偏りが生じて学校が自然淘汰されていくことは、むしろ選択制の目的のひとつではなかったのか。現在、公立学校の統廃合も進められているが、この選択制により廃校するべき学校、退職するべき教職員が自ずと決定できるメリットもあるように私は思うのだが。
また、不人気で生徒数が少ない学校はその特徴を活かして生き延びる、またとはないチャンスを与えられているとも言える。江東区では一番希望者の少ない学校は入学者が24名しかいないらしいが、それを逆手にとって、人口密度の小さい校舎で広々と少人数教育、個別指導を展開し、それを“売り”にして時代に即した教育を提供すればよいのではないのか。
「地域」云々に関しては“またか…”の思いしかないのであるが、教育の議論に「地域」を持ち出すのは如何なものか。「学校」と「地域」との繋がりを好む国や自治体の意向は分からなくもないが、教育の発展に「地域」を持ち出しても話が混乱するのみである。
せっかく根付こうとしている“学校選択制”を廃止し、また旧態依然とした教育制度に逆行させて一体誰が恩恵に浴するのか?
朝日新聞9月27日(土)朝刊社会面記事によると、東京都江東区では子どもや保護者が進学先の学校を選択できる“学校選択制”を見直すことを決めた。さらに前橋市では小中学校双方で選択制の廃止を決定した。
このうち前橋市を例に取ると、04年に導入した制度を、わずか4年のみの実施での廃止決定である。(10年度を最後に廃止する方針)
公立小中学校で学校選択制が検討されるようになったのは90年代半ばの頃である。1998年に最初に学校選択制を導入した三重県紀宝町を皮切りに、2000年には東京都品川区もこの制度を導入した。現在では東京の区部等、この制度を採用する地域は拡大しており、内閣府が2006年に行なった調査では小学校の14,9%、中学校の15,6%が導入しているとされる。
私自身も子どもの中学入学時に保護者として学校選択制を経験している。ただし我が子の場合は結果として私立中学に進学したため、選択した公立中学へは進学していないのではあるが。
この私自身の保護者としての経験、及び、本来「教育」とは選択できるものであるべき、とする自らの考えにより、私は“学校選択制”賛成の立場である。
なぜ我が家が子どもの進学先として結果として私立中学を選択したかと言うと、私立の場合学校の“選択”が可能なことが前提条件だからである。我が家の学校の選択基準は決して「偏差値」ではなかった。子どもの特性と将来の希望、そして学校の教育理念と校風を最重視し、とことん選択した。
公立の場合、元来、全国どこの学校でも同様の教育を提供するというナショナル・ミニマムの考え方に基づき整備されており、また人事異動によって教職員を常に入れ替えているため、理論的には学校間格差はないとするのが国や自治体の言い分であろう。
ところが、現実的には公立においても学校間格差は明らかに存在する。
学校選択制を採用している自治体においては、私立へ進学希望の場合でも一応全員が公立の希望校を自治体に提出することになる。そのため、我が家でも希望公立中学を選択したのであるが、この選択に当たって我が家の場合は“学校見学”を最重視した。我が自治体では6月に1週間自由見学期間が設けられ、希望の公立中学を自由に見学できる機会が与えられた。我が家は“一次選抜”として資料による検討によりあらかじめ4校に絞り込み、“最終選抜”のためいざ公立中学へ見学に出かけた。
同じ公立と言えども学校の校風とはこれ程格差があるものかと、まざまざと見せつけられる思いだった。教職員生徒両者共に挨拶がきちんとできること、授業中の教職員と生徒双方の熱意や態度、校舎内の整備整頓等を選択基準としたのであるが、学校間格差の激しい事この上ないのだ。頭を悩ませることは何らなく、希望校が自ずと一校に絞り込まれた。
(ところがどこの中学へ行っても見学者が私以外一人もいないのだ。百聞は一見にしかず、であるのに、一体皆さんどうやって希望校を選択したのであろう?? どうも、単なる噂に惑わされているという話も小耳に挟んだものだが…)
話を学校選択制の廃止の動きに戻すが、廃止の理由として自治体では「児童生徒数に大きな偏りが生じる」「地域との連帯感が薄れる」事を挙げている。
学校選択制とは教育における競争原理の導入であり、生徒数に偏りが生じて学校が自然淘汰されていくことは、むしろ選択制の目的のひとつではなかったのか。現在、公立学校の統廃合も進められているが、この選択制により廃校するべき学校、退職するべき教職員が自ずと決定できるメリットもあるように私は思うのだが。
また、不人気で生徒数が少ない学校はその特徴を活かして生き延びる、またとはないチャンスを与えられているとも言える。江東区では一番希望者の少ない学校は入学者が24名しかいないらしいが、それを逆手にとって、人口密度の小さい校舎で広々と少人数教育、個別指導を展開し、それを“売り”にして時代に即した教育を提供すればよいのではないのか。
「地域」云々に関しては“またか…”の思いしかないのであるが、教育の議論に「地域」を持ち出すのは如何なものか。「学校」と「地域」との繋がりを好む国や自治体の意向は分からなくもないが、教育の発展に「地域」を持ち出しても話が混乱するのみである。
せっかく根付こうとしている“学校選択制”を廃止し、また旧態依然とした教育制度に逆行させて一体誰が恩恵に浴するのか?
当時は、田舎に住んでいたので、臨時で父が教師として教室に入ってきて授業を受けたこともあるのですが、いつもの先生と違う教え方で驚いたものです・・・。
また、当時は生徒を集中させる為にワザと脱線したりするような先生もいたのですが、
最近は、どうなのでしょうか?
私が生徒だった頃は、黒板に板書してばかりで全く生徒の反応をみていない授業をしていた先生の多かったことです。
これでは、学級・学校が荒れても仕方のないことですよね・・・。
でも、最近ではドラマになったりするほど、モンスターペアレンツと呼ばれるような学校や教師に無理難題を言う保護者の方が多いようですね・・・。
それというのも、昔のように教師の威厳が無くなってしまいつつあるのと、採用試験に合格することばかりに必死で社会体験が貧弱な教員の方も増えてきているのではないでしょうか・・・。
でも、大分県のような事件があると、学校や教師に対する信頼が揺らぐ気もします。
また、新聞で読んだことがあるのですが、各県により公立学校の教員の年齢層に偏りがあり、採用倍率が県によって物凄く格差があるとのことでした。これも、同じ公立学校でも、地域によって学力とか色んな面に差が出る原因ではないかとも思ってしまいました。
ところが、実は、姉の旦那さんも実は公立小学校の教員なんですが、学級崩壊のような状態になっても職場内で相談せずに、何の手も打てない状態でストレスが溜まり困っていた時期があったそうです・・・。
そんな教員が多い学校だと、やはり学校が選択できるほうが、保護者も安心でしょうし、子供にも良い結果が出る気もします・・・。
でも、思わぬところで小泉首相政権下の負の遺産が出てきたようですねぇ・・・。
嫌でも、高校になれば選択制ですよ。
小学や中学で選択したいのなら私立に行けばいい。
確かに、選択制は学校間、先生間で競争があって学校が切磋琢磨して良くなるのは認めます。
でも、良い学校のため通学を遠くしたりするのは考えものです。
それよりも、お役所仕事をしている教師を何とかして欲しい。
塾の先生の情熱や気迫のこもった授業を見習って欲しい。
塾の先生に近いのが、私立の先生なのかもしれません?
思い切って、小学校は公立で、中学校は全学校、民間委託(私立ですね)にすればどうですか?
危機感のない先生には、学校を去ってもらう・・・。
ちなみに、私は学校の先生を希望したのですが、頭が付いて行かず、結局エンジニアですが、今でも教師をしたくなるときがあります。
ひとつの組織内に、多様な個性が集結することは組織の活性化にはプラスなのですが、子どもを学校へ行かせる身としては、あまりにも逸脱した個性の教員が担任になると保護者としては大いに苦労します。
モンスターペアレントという言葉がやたら独り歩きしている現状ですが、恐らくこの言葉は学校、教員側から発せられた造語なのでしょうね。
その実体を私は把握していないのですが、学校とは本来社会に開かれているべきです。保護者からの明らかに非常識な要求には、屈せずに撃退するべきなのは言うまでもありません。
とにかく、学校は閉鎖的な体質から脱却し、外部とどんどん意見交換をしていくべきだと私は考えます。
あやさんが「板書」のことを書かれていますが、今の日本の高校までの学校教育は「板書」に頼り過ぎなのは私も不可解です。あれをやると、生徒がノートをとることしかせず、まったく話を聞きません。そこで私は(高校ですが)「板書」なしの授業を試みました。科目にもよりますが「板書」なし授業は可能ですね。
「学級崩壊」の対応等、教員も大変な日常であるとは察しますが、“学校選択制”の導入は学校の活性化にも繋がり、生徒教職員双方の意識の向上にも繋がると私は考えますので、今後、この制度が根付くことに期待しております。
ドカドンさんがおっしゃるように、私学の選択ももちろん選択のひとつなのですが、経済力の問題等もあり、万人が選択できる選択手段ではない現状です。
ドカドンさんが塾に関して述べられていますが、私はバックナンバー「塾の教育力のレベル」でも既述しておりますが、「塾」とはそもそも“教育”を行なう場ではありません。あそこは市場原理に従い、商業主義で子どもを集め、顧客の要望(志望校に合格させて欲しい等の)にただ従っていればよい場です。それを“教育”とは言いません。私は明確に区別して考えております。公教育は決して塾化するべきではなく、あくまでも“教育”を行なうべきです。
そして、私学も多様です。確かにドカドンさんがおっしゃるように、ただ大学への進学実績のみにこだわり、塾化している私学も多い現状なのでしょうね。
ですが、そうではない学校もあります。子どもの個性に応じて、確かな学力を身につけさせることに尽力してくれる学校もあります。
私学は公立と異なり、経営努力をしないと生き残れませんので、教職員の努力の程は概して公立とは比べものにならないものがあると、私は実感しております。
ドカドンさん、教員希望でいらっしゃったのですね。(おそらく、教員よりもエンジニアの方が頭を使うと私は思うのですが。)本当はそういう人に教員になってもらいたいものです。“好きこそものの上手”だと私は思います。
30,40年前の教育・指導方法、、、カリュキラムへ戻し、、、、もう一度、改善、改革をし直すべきでは、、、と考えます。
パープリンの私の発言お許しくださいねん。。。
(モンスターペアレントを力で抑えつけることのできる昔の親父、、、俺自体をバカ親と区別がつかない教師が多いことに幻滅している元地域スポーツ指導者。)
初コメントをありがとうございます。
教育全般に渡るご意見をありがとうございます。教育論に関しましては、当ブログのバックナンバーで散々既述しておりますので、よろしければご参照下さい。
教員も一人の人間ですので、私など元々多くは期待していないのですが、とにかく職種にかかわらず、人間としての良識をもって仕事に臨んで欲しいものです。