(冒頭写真は、亭主が買って来てくれた娘の誕生祝いケーキ。 今年 29歳になります。)
今更ながら、29年前の“惨事”を繰り返すのはもうやめにしたいが。
あの日の朝から、私は陣痛に苦しめられていた。
亭主が祝日出勤のため自宅で一人でその陣痛に耐えつつ。 一方で、陣痛が来たからと言って急に産気づく訳でも無いとの情報も耳にしていたため。
医学関係者の私としては比較的冷静に日々のルーチンワークをこなしつつ、それでも郷里の母に電話にて相談した。
遠方の実母にしてみれば、そんなことを相談されたとて困惑するばかりの様子で、「東京の義母さんに電話しなさい」とのアドバイスだ。
では、と義母宅へ電話を入れると相変わらず義母は留守だ。(参考だが、義母が日中家にいたためしがなかった。)代わりに出てくれた義父がとても親切に、「すぐに産科主治医に連絡しなさい。」との適切なアドバイスをくれたためそうすると。
主治医曰く、「貴方の場合初産なので、おそらく出産は明日になるかと計算する。 それまでに何らかの異常があるようなら、また連絡下さい。」
そうこうして陣痛が激しくなるのに耐えつつ、家事を一通りこなし夕刻になった時に、私は明らかに“破水”した。
それを主治医に電話で告げると、「すぐに医院まで来なさい!」
と言われても、もうすでに我が身体が硬直して動けない状態だ。
やむを得ず職場の亭主に電話を入れて、「すぐに帰ってきて産院へ連れてって!!」 それを告げつつ、私はあらかじめ用意してあった“出産セット”を自分で持ち出し、タワーマンションの一階玄関まで一人でエレベーターで降りて、玄関先でうずくまって亭主の車での帰宅を待った。
亭主の車に乗った時には、私は既に産気づいていた。
やっと産院に到着し、主治医が我が容態を診察してすぐに救急車を手配し、それに私は「自分で歩けます!」と言いつつ乗り込み、地元では著名な大規模産院に到着した。
娘を出産したのは、その夜の20時06分のことだった。
出産が終った私をベッドごと病室へ運んでくれるエレベーター内で私は看護師氏に尋ねた。「女の子でしたか?」 二人の看護師氏が口を応えて「とても可愛い女の子ですよ!!」
ただ 私が娘に初対面できたのは、それから3日後だった。
娘は仮死産だったが故に、3日間特別措置を受けていた。
それでも娘と3日後に初対面した際に、私は大いに感激した! 本当に“可愛い赤ちゃん”だったが故だ。 こんな可愛い子を産めた自分を褒めたい思いだった。
時は過ぎ去り、娘は大学卒業後IT技術者として活躍する身となり。
今年5月には「ひとり立ちしたい」との自己の決意を述べて、我が家から巣立っていった。
その後は、1,2か月に一度程のペースで我が家に訪れてくれるのだが。
いつも宿泊はせず、必ず都内の自宅まで帰っていく。
昨夜は、娘の29歳の誕生日祝いを一家3人で楽しんだ。
まずはバースデイケーキで、29歳を祝い。
母の私も、娘の好物の「鍋料理」を脚の不自由さにも耐えて用意した。
片や亭主は、これまた娘の好物であるピザを購入してきてくれて。
束の間の我が娘の29歳バースデイパーティは終焉した。
娘と会うたび、私は思う。
こんなに可愛いく、かつ強い娘は何処を捜してもいないだろうと。
仮死産を生き抜き、その後サリバン(私の事だが)の厳しい生活・学習指導にも耐え続け、自分なりのサクセスをゲットして今は独り立ちしている我が娘。
私といつ何時再会しても、何らの苦情を呈するでもなくいつも変わらぬ笑顔で接してくれるその性質は、天性のものであろう。
もしも、娘が私に向かって「仮死産でなど産みやがって!!」と非難してきたとしても、私はそれに一生涯懺悔し続けるつもりでいた。「すべてはこの母の落ち度だ」と。
ところがそんなそぶりなど一切見せずいつも笑顔の我が娘に、私は感謝する以外に手だてが無い。
とにかく、今年29歳を迎える我が娘だが。
もしも今後娘の気が変わって、母の責任を責める気になったとしても、私にはそれを全面的に受け入れる覚悟がいつもある!
それこそが、私の娘に対する“真の愛情”であるかもしれない。