原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

人の親密度と敬体表現

2009年03月17日 | 人間関係
 3月上旬に朝日新聞「声」欄において、老人介護における介護者の言葉遣いに関する投書とそれに対する反論投書が掲載された。

 早速、この2つの投書内容を以下に紹介する。

 まずは、3月3日(火)「声」欄の高校生による投書「老人介護の際 敬語を使って」から紹介しよう。
 「うんうん、こぼさないで食べてね。」老人介護施設で中年の介護士が入居者にこう話しかけている場面をテレビで見た。まるで赤ちゃんに対するようで、何十年も年上の人になぜ敬語を使わないのか強く疑問を抱いた。その老人は認知症で介護する方も大変そうなのだが、認知症になる以前に長い人生があり、社会のために働き家族を養い、年を重ねてきたはずだ。そんな人生の先輩に敬意と感謝の念をもって接することは、介護以前の問題として大切ではないだろうか。

 これに対する反論投書、3月8日(日)「声」欄の元介護士女性による「介護の言葉は気持ちが第一」を次に紹介しよう。
 認知症の表れ方は人それぞれで、本当に子どもの頃に返ったような方もいる。そのような場合、介護士が母親になったり友達のように話しかけることもあるが、その方が利用者は安心してくれる。まして方言のある地方においては、丁寧な言葉遣いでは聴き取りづらかったり理解しにくかったりする。何の気持ちも思いも込めていない言葉は利用者には届かない。施設が利用者にとって第二の家庭と思ってもらえることを願ってやまない。


 上記の「声」欄の2通の投書においては、声をかける相手のお年寄りが「認知症」であるという特殊事情が背景にあるため、多少議論が面倒となるものと私論は捉える。 それを承知した上で、私論は基本的には上の高校生の意見に軍配をあげたい。

 反論を提示した元介護士の意見ももっともではある。この元介護士も述べているが「何の気持ちも思いも込めていない言葉は相手に届かない」、その通りである。
 ところが残念ながら、この元介護士の主張するところの、「敬体表現」イコール「何の気持ちも思いも込めていない」という図式は決して成り立たない。気持ちや思いがこもった言葉は、その表現が「敬体」であれ「常体」であれ必ずや相手に通じるものであろう。
 これを前提として、さらに考察していこう。

 投書の高校生がテレビ映像を見て違和感を抱いたのは、その「常体表現」に認知症老人に対する一種の“蔑み”のニュアンスを感じたためであろう。
 私も日常的に、そういった場面によく出くわす。自分の見知らぬ年配者に対して、意味もなく「常体表現」を使用する大人は社会に多く存在するようである。その背景には「年寄りとは、既に労働生産性の観点で何の役にも立たない社会のお荷物であり、自分よりも格下の部類の人間である。」とする潜在的思想が見え見えであるように響いて、私も嫌悪感を抱く場面がよくある。
 こういった“年寄り排除思想”がまかり通っているかのごとくの現代社会の実態を念頭においた場合、相手がたとえ認知症という特殊事情を抱えていようがいまいが、良識のある人間としてはとりあえず「敬体表現」を用いて、人生の先輩であるお年寄りを敬うのが無難ではないのだろうか。

 もちろん、人間関係が築かれて両者の関係が親密になって「常体表現」を使用することに関する暗黙の了解が二者間において得られた後は、「常体表現」で十分であろう。その場合、端で見ている人間にとっても違和感を抱かないものではなかろうか。
 上記朝日新聞「声」欄において反論した元介護士が、以上の社会の現状も十分に承知で、「認知症」という症状の実態もわきまえた上で、相手によって「常体」「敬体」を使い分けているのであれば何ら問題はないであろう。


 私自身も、面識のない人から突然「常体表現」で接してこられるという場面をよく経験している。

 今よりも多少若かりし頃の話であるが、街中を歩いていて突然「彼女~、いい化粧品があるから、ちょっと話聞いてくれない~~?」とセールスしてくる若い男性。 これなんぞ女性の皆さんはよくご経験であろうが、(きっと実年齢よりも相当若く見てもらってうれしいと思う女心を狙ってるぞ。)なんて、見え見えのセールスだよね。 (もちろん、年の功でセールスの話なんか聞かないよ~)

 学校等の保護者(特に母親)関係においても「常体表現」が横行している模様だ。
 独身期間が長く社会人としての生活が長かった私は、面識のない人との初対面の会話は「敬体表現」が基本と心得ていたため、これには当初大いに違和感を抱いたものである。 幼稚園や習い事や学校へ行くと、突然見知らぬ保護者が“タメ口”で私に近づいてくるのだ。
 「あのさ~、あれがあれじゃん、どうのこうの…」  あの異質な世界には度肝を抜かれた思いだった。おそらく皆さん、学校の同級生や会社の同期生との付き合いのノリなのであろうと把握した私はすぐにそれに合わせたのだが、違和感はずっと隠し切れないでいた。 もちろん、母親同士とて仲良しになると「常体表現」になるのは自然の成り行きなのだが…。(子どもを中学校以降“私立”に入れてからは、どういう訳か、母親同士の間でも言葉遣いの常識が通用するようになり、自然体で保護者と会話ができるようになって胸を撫で下ろしている現在である…)


 この私も、年老いて痴呆症になったら「おばあちゃん、こぼさないで食べてね!」と介護士からたしなめられるのであろうか???
 私にとって“老後”とはさほど遠くはない未来であるが、日本の美学でもある「敬体表現」と「常体表現」の言葉の使い分けの文化を堪能できるような、毅然とした貴婦人でいつまでもありたいものである。
   (元々無理か?!)
Comments (10)

子どもの授業料くらい払おうか

2009年03月14日 | 教育・学校
 高校の卒業式において、生徒である子ども本人は履修単位や出席日数等の卒業条件を満たしているにもかかわらず、保護者が授業料未納であるばかりに卒業証書を生徒に授与しなかったり、一旦授与した卒業証書を生徒から回収するという事態が、この3月に全国で公立高校を中心に相次いでいる。

 私立の場合、授業料未納の場合卒業が認定されないことについては学校の就学規則として文書にて明言されており、入学時点から口頭でもその旨についての説明が再三なされる。これに関する保護者側からの異議申し立ての余地が一切ない手立てがあらかじめ重々取られている。
 にもかかわらず、私立においてもやはり保護者が授業料を滞納しているがために、卒業条件を満たしている生徒に対して卒業証書を授与するか否かの是非に関して難儀している学校は今年は特に多い様子である。

 授業料未納の生徒に卒業証書を授与しなかったり、一旦手渡した卒業証書を後で回収したり等の学校の対応に対し、“行き過ぎ”であるとの批判が多く、学校側は“今後検討する”等の回答をしているとの報道である。


 授業料滞納に関しては、18歳以下の子どもについては保護者に全責任があると考えるのが私論である。

 その見解に立った上で、まず当初より「私立」進学を目指す場合から話を進めよう。

 途中から授業料を支払えなくなる程度の家計力で、なぜ子どもを私立へ通わせようとするのかが、以前より私は疑問である。公立に比して私立の学費が割高なことは保護者ならば誰もが知る既存の事実である。
 特に中学、中でも首都圏においては、数年前から私立進学がブームとなっている。6年生の4割以上が私立へ進学する公立小学校も少なくないとの報道も耳にする。私立の場合、中高一貫校が主流であるため、保護者は入学前に6年間の潜在的学費を確保しておくべきなのは当然の義務である。 私立の教育力に期待する保護者が多い実情なのだろうが、“右にならえ”的な他力本願ではなく、各家庭が各自の家計力と十分相談した上で子どもの進路を決定するべきであることは言うまでもない。特に中学の場合、私立、公立の選択は可能であるのだから、子どもの進学先決定において、保護者は総合判断力を持って臨むべきである。
 3月12日(木)朝日新聞夕刊の記事に、私立高校へ推薦合格したにもかかわらず、父親の“派遣切り”により入学を断念した日系ブラジル4世の15歳の少年の話が掲載されていた。この少年一家は少年の中学卒業式が終わった後、祖国のブラジルに帰国するとのことである。
 授業料が納められない以上、このような勇断もやむを得ないことであろう。

 次に「公立」について考察してみよう。

 公立の場合、中学は義務教育で無償であるため、話は「高校」に限定される。
 高校の場合、「公立」受験に失敗して「私立」への進学を余儀なくされるというケースも少なくないため、話が多少複雑となる。
 その場合も、やはり基本的には保護者が入学前に3年間の潜在的学費を確保しておくべきなのだが、そうではない家庭がやむを得ず「私立」に進学させる事例も多いのが現状であろう。この場合、確かに授業料の支払いが厳しい事は理解できなくもない。ただ、保護者はやはり子どもの授業料を支払うべきであり、どうしてもそれがかなわないと判断するならば、上記の朝日新聞記事のブラジル4世少年一家のような決断も、一つの選択肢として視野に入れるしか手立てはないのではなかろうか。
 
 現在の公立高校の授業料は、先程ネットで調べたところ年間約12万円程であるらしい。入学時に必要な諸経費は当然ながら支払わないと入学許可されないため、最低限その費用を準備できる家庭の子どもが公立高校へ入学しているのであろう。
 ところがやはり入学後、授業料を支払えないがために中退をやむなくされたり、冒頭のごとく、授業料未納のために卒業証書を手渡せない事例が少なからず発生している現状である。


 子どもの教育とは将来の社会発展に欠かせないものであるため、その教育費をめぐる話は容易ではない。親が支払えないから切り捨てる、と私論は短絡的に主張する訳では決してない。
 ただはやり、現在おそらく進学率99%を超過していると思われる高校の教育費負担に関しては、保護者が最終責任を持つのが基本であると考える。例えば愛車を売り払ってでも、携帯電話を手放してでも、保護者は子どもの高校の授業料を最優先して支払うべきである。
 
 昨年来の世界的経済危機で、この日本でも失業者が量産されている現在ではあるが、たとえ世界が破滅する程の危機が訪れようと、親とは子どもの成長を願い続ける生き物であると私は信じたい。
 そのために子を持つ親に要求されることは、“危機予知力”“危機想像力”ではなかろうか。今、世が繁栄しているから浮かれて暮らすのではなく、(子どもを設ける事自体が自由選択であるこの現代社会において)子どもを持つ決断をした以上は、その可愛い我が子が無事に高校を卒業できる程度の資金力をいつの時代も備えるべく努力するのが、親のあるべき姿と私は考える。 

 苦しくなったら社会保障に頼れば何とかなるという国民の発想は、既に大きく破綻しているこの国の将来を滅亡に導くのみである。
 近頃の国政の社会保障改革における(単なる票取りの)安易過ぎる政策の短絡さに、基本的には弱者保護観点に立つこの私ですら歯がゆさが隠し切れないでいる。
       
Comments (17)

元死刑囚の涙

2009年03月12日 | 時事論評
 昨日はニュース報道を見て感極まり、久々に泣けて泣けてしょうがなかった。
 NHKの昼のニュースの第一報でまず目を潤ませ、13時のニュースで再び涙を流し、夕方には新聞夕刊の記事でまた涙ぐみ、夜のニュースでは我が娘に報道内容を簡単に説明しつつ目を充血させた。
 昨日韓国釜山において実現した、北朝鮮拉致被害者日本人家族と大韓航空機爆破事件の実行犯である元死刑囚との面会に関する報道を見ての話である。

 大韓航空機爆破事件という世界を震撼させた大事件に実行犯としてかかわり、死刑判決が確定した後に韓国政府から特赦を受け、今現在韓国でひっそり暮らしている金賢姫元死刑囚。 その元死刑囚の日本語教育係であった女性が日本人拉致被害者のひとりであるため、今回の面会と相成ったのは皆さんも既にご存知の通りである。

 世界でも他に類をみない独裁国である北朝鮮に生を受け、非凡な能力に加えて容姿端麗、そして家庭環境に恵まれていたがばかりに数奇な運命を決定付けられた元死刑囚の昨日の涙に、その類稀な人生の重みや哀愁を垣間見せられた思いである。

 今回の「原左都子エッセイ集」では、昨日の日本人拉致被害者家族との会見に出席した金元死刑囚の過去を辿りつつ、その数奇な運命を私なりに体感することにより、昨日の金元死刑囚の涙の重みについて考察してみたいと思う。
 (昨日の釜山での会見の主要論点である北朝鮮との拉致問題について論評する記事内容ではありませんので、その点ご了承下さいますように。)


 まずは、金元死刑囚の来歴を振り返ってみよう。
 金元死刑囚は北朝鮮のキューバ外交官の父と教師の母の長女として生まれ、生後まもなく父の赴任先であるキューバで暮らし、4歳の時に北朝鮮首都平壌に帰国。持ち前の容姿や能力故に、国家の主要なイベントにも出席する等の華々しい少女時代を経た後、大学生時代に北朝鮮の工作員として召還され、韓国化教育や、上記の日本人拉致被害者女性による日本人化教育等を受ける。
 その後、北朝鮮首脳から、1988年に開催されたソウルオリンピックの妨害目的で韓国の飛行機を落とす任務を与えられる。これが「大韓航空機爆破事件」である。金元死刑囚は身柄を拘束された後に自殺を図るのだが、一命を取り止めることとなる。
 韓国に移送された金元死刑囚は死刑判決が下されたものの、翌年韓国政府によって特赦されることになる。この特赦は北朝鮮からの強い要望によるものらしいのだが、金元死刑囚の家族が強制収容所に収容されたことを金氏は韓国で知る事になる。
 金氏は韓国ソウルの発展の景色をみて、自分が北朝鮮において欺かれて生きてきたことを把握し始める。そして、自分のボディガードであった韓国国家安全企画部員の男性と結婚し2人の子どもを設け、住居をたびたび変更しつつ、電話も持たないまま、現在も尚世間の目を気にしながら韓国の片隅でひっそりと暮らしている、ということである。
 (以上、ウィキペディア、及び、朝日新聞3月11日(水)夕刊を参照)


 大韓航空機爆破事件の発生から20年以上が経過した今尚、遺族らが韓国政府に対して金元死刑囚との面会を求めているにもかかわらず実現していないとの報道である。 今回の金氏の日本拉致被害者との面談が実現したことにより、航空機爆破被害者家族の韓国政府に対するさらなる反発は免れないことであろう。
 当然の事と私も考察する。日本との正常な国交関係維持を優先しようとする韓国政府の政策も理解できなくはないし、お隣の韓国との友好関係を是非とも築き続けて欲しいと私も望んでいる。だが、大韓航空機爆破事件犠牲者115人の家族の無念さは計り知れないものがあることは揺るぎない事実でもあろう。

 
 独裁国である北朝鮮に生を受け、持って生まれた能力や美貌、家庭環境等の境遇故に国家に人生を翻弄された挙句の果て死刑囚となりそれを特赦され、元敵国でひっそりと暮らす金元死刑囚。

 そのような世にも稀な生き様を余儀なくされた女性が昨日流した涙の重さに押し潰されそうになりながら、何とも恥ずかしいくらい何の力も持ち合わせていない凡人の私が、ここにいる…。 
Comments (8)

偏っているから面白い

2009年03月10日 | その他オピニオン
 報道によると、内閣総理大臣として就任して以来国民からの支持率低迷に苦しみ続け、近頃その支持率をさらに下げ込んでいる某国首相は、新聞を 「あんまり読まない」 (本人談) らしい。
 
 その理由とは、本人曰く 「しばしば偏る」 からであるとのことだ。 
 もう少し詳しく記述すると、「署名記事は読むが、署名の無い記事は自分に関することはだいたい違うので読まない」というのが本人の言い分である。

 これに対し、当然ながら国民からの反発がある。
 例えば朝日新聞3月4日(水)朝刊「声」欄には、会社員男性による以下のような批判意見が掲載されていた。
 「新聞を読まずして首相は国民の気持ちを何で知るのだろう。テレビや雑誌、ネットなどで情報が足りると感じているとしたら、そもそも政治家失格だ。首相は定額給付金や中川前財務・金融相に対する世論の反発なども、実感がつかめていないのではないか。新聞報道は、政治家に指針ともなる貴重な情報を提供しているはずだ。我々国民の生活を守る立場にありながら、“あんまり読まない”では満足な政治などできるはずがない…。」
 以上が、朝日新聞「声」欄の批判意見である。


 私に言わせていただくと、あの某国首相は何とも“天然質”で正直な方と申せばよいのか、国会答弁等を聞いていても“地で行っている”印象を受けたり、持たされた原稿を丸読みしているのが見え見えだったりと、一国の首相らしからぬ幼稚な言動は大方の指摘通りである。
 どうせ中身がないのならば、一見もっともらしい答弁をして表面だけ威厳を保とうとしたり品格があるように演出しようとする政治家より、あの方のように“地を丸出し”のタイプの方が人間としては可愛げがあって受け入れられるような気が私はしなくもない。(ただし、それはあくまでも一般人であればの話であり、政治家としては政治力の如何が問われるのは当然ではあるのだが…)

 今回の「新聞を読むか?」の問いに対しても、「あんまり読まない」の回答は一国の首相としていくら何でもお粗末である。 嘘も方便で、「一応目を通す」程度に答えて場を濁しておくべきであっただろうに…


 ところで本来、新聞に限らず報道とは「偏り」のある性質のものであると私は認識している。「偏り」とまでは言わずとも、同一事象を扱っても対象の事象を取り上げる角度や切り込み方や表現方法のわずかな違いからも、読み手に訴える趣旨が大いに異なってくるかにみえるのはやむを得ない結果なのではなかろうか。 それは、情報の発信側とて意思や思考において多様性のある人間集団であり、報道とはそのような人間の成せる業であるため、発信内容に「偏り」が生じてしまうのは自然な成り行きであるようにも、普段私は捉えている。
 情報の受け手側は、世に氾濫している各種マスメディア報道の中から自分の思考や好みに応じて情報提供先を選び、情報を入手しているのが現状であろう。

 私事になるが、私が朝日新聞を好んで購読していることは「原左都子エッセイ集」を長い期間ご愛読いただいている方々は十分にご存知のことであろう。
 朝日新聞に関しては、思想に「偏り」があるとの世論が存在することを私も昔から認識している。そういった“偏り”世論を承知の上で、私は朝日新聞を長年愛読してきている。
 私の朝日新聞愛読生活において、その記事内容にいつもいつも同調している訳では決して“ない”。 元より反骨精神旺盛な私は、「とんでもない内容だ!」「何を馬鹿なことを書いているんだ!」と怒りをあらわにすることも日々多いのが現状である。
 これが面白いのだ。
 読み手を熱くしてくれるこのようなエネルギーこそが報道には不可欠ではないかと私は考える。この反発エネルギーを元に「原左都子エッセイ集」でその反論記事を綴ったりもしている訳である。
 (朝日新聞を長年読んでいて気付いてるのだが、読者の“反発エネルギー”を期待してあえて煽っているかのごとくの記事を目にすることもあるが、あれは一種の“やらせ”に近く、その意図が見え見えで白けることも大いにあることを書き添えておこう。)


 話が飛躍するが、「偏り」とは人間の個性でもある。これがあるからこそ、人間関係を構築していく事が人として生きていく上での醍醐味となるのではなかろうか。 人間関係における「偏り」を埋めようとして人は議論を重ねながら徐々に接近し、そして理解し合えるのだと私は思いつつ、日頃人とお付き合いさせていただいている。
 
 それはともかく某国の首相さん、やっぱり新聞は一応読みましょうかね? 
Comments (11)

300万円を超える月収

2009年03月07日 | 仕事・就職
 朝日新聞3月1日(日)朝刊社会面の下欄に、とある窃盗事件の記事が掲載されていて一瞬目を奪われた。

 この記事によると、2月28日の深夜、大阪・北新地の路上を歩いていたホステスの女性が、後ろから近づいてきたバイクの男に手提げバックをひったくられた、とのことである。
 ここまで読んだ分にはよくあるひったくり窃盗事件のパターンであるが、今回私がこの記事に目を奪われたのは、ひったくられたバックの中に入っていた現金の「金額」の程が尋常ではないためだ。

 バックの中には女性の1ヶ月(約20日分)の給与340万円が入った封筒と、約5万円入りの財布が入っていたそうなのだ!

 この女性は大阪北新地の高級クラブに勤務し、同僚や客と一緒に2次会の店に移動中だったとのことである。 (340万円の現金を持って、2次会に行くのはやめましょうかね…


 昨年来の世界的な経済危機のあおりで、職を失ったり、ワークシェア等で給料を減額される人々が世界中に溢れている中、この記事の高級クラブのホステスは今尚月収300万円余りを手中にしていたとはちょっと驚きである。
 月収340万円と言うと、年収にすると4000万円を超える。これはおそらく大企業の社長よりも多額の給与であろう。 (お金がある所にはあるものだなあ…)


 昔、何度か高級クラブへ飲みに連れて行ってもらったことがある。 高級クラブでのホステス経験のある女性とお付き合いがあった時期もある。

 ある時、東京六本木の高級クラブへその店の常連の男性に連れて行ってもらった。
 そこにいた一人のホステスの女性がちょうど当時の私と同じ30歳代半ばとのことで同席して下さり、語り合った。 その女性は相当の知性の持ち主という印象があるのだが、当時30歳代半ばにして大学院生だった私を羨ましがり、多少酔っ払いながら修士論文の研究内容等を話す私の話をつまらなそうな顔一つもせずに十分に聞いて下さったものだ。
 人のつまらない話を聞かされること自体、忍耐力を要するものだ。しかも酔っ払い相手に、この女性はその力量を十分に備えていたことに脱帽したものである。

 夜の世界のホステスもピンキリで、“高級クラブ”のホステスともなると誰でもなれるという訳ではなく、美貌はもちろんのこと、知性や品格やしたたかさが要求されるということは知る人ぞ知る話だ。

 そしてホステス経験者の知人の話により、その舞台裏は表面の豪華さ華麗さからは想像もつかないようなドロドロした厳しい世界であるという実話も、私は昔耳にしている。(テレビドラマ等でも高級クラブ内部の女性同士の“ごたごた惨劇”はよく描かれているため、既に見聞されている方も多いことであろう。)
 “同伴ノルマ”をこなすための営業活動や、“ヘルプ”と言われる補助ホステスの勧誘や給与支払い、こういった諸業務をオフの時間にこなす力量も要求されるのは当然であるようだ。また、日々の衣裳代や美容代の出費も膨大であるのに加えて、ホステス同士のトップ争いの熾烈さや、客との各種トラブル……
 これらすべてをひっくるめた給与が、300万円余りの月収につながっているという計算だ。 
 
 「夜の蝶」とて、その適性や力量なくして多額の給与を手にする事は不可能なことは明白である。 結局は、どのような世界であれ厳しい自然淘汰の現状なのだ。大抵は短期間でギブアップしたり適性や力量がなくて諦めたりして、その場を去っていくのであろう。


 この私も一時期、銀座の高級クラブのホステスなんぞに憧れたことが無きにしもあらずだが、いや~~、そんな力量は元よりなかったと今では実感だね。
 月収340万円は、諦めよう……  
Comments (12)