昨日、子どもの学校の保護者全体会に出かけた。
後方の椅子に腰掛けていると、斜め後ろからやって来た母親二人連れに声をかけられた。
「Fさんですよね?」
人違いのため、「いえ、私はHですが。」と返答する私。
すると、「失礼しました。とてもよく似ていらっしゃるので…。」と母親二人連れは顔を見合わせて私がFさんによく似ている事に同意し合っている。
(そうか、2人が同意しているということは、これはかなり似ているぞ。Fさんとやらを一度拝見申し上げたいものだ。出来れば“美人”であって欲しいものだが、とんでもなく変な外見の女性だったらどうしよう、ちょっと勘弁して欲しいよなあ…)と内心穏やかではない私である。
そして保護者会が終了し解散となり、学校の廊下を歩き始めた時のことだ。
「Fさん!」「Fさん!」とこれまた斜め後方から、どうやら私に声をかけてくる母親がいる。とっさに(上記のごとく)保護者会の開始前に母親2人から「Fさんに似ている」と言われたことを思い出した私は、またFさんに間違われていることを把握した。
斜め後ろの声の主の方を振り返ったのだが、その母親は私の顔を見ても、私がFさんでは“ない”ことにしばらく気付かない様子で、きつねにつままれたかのごとく私をまじまじと見ている。 (人をまじまじ見てないで、何とか言えよな)と思いつつ、こちらとしては面識のない方だったためそのまま帰路に着きながら、やはり複雑な心境だ。
(これで私をFさんと見間違えたのは3人目。しかも今回は立って歩いている姿を見間違えているため、Fさんと私は顔だけではなく、背格好や歩く姿等の立ち振舞いや服装の好みまで似ていて、もしかしたら“瓜二つ”なのかもしれない。これは是非ともFさんにお会いして自分で確認したいものだ。それにしても、やっぱりFさんは“美人”で素敵な人であって欲しいものだなあ…)
自分勝手な思いが頭を巡る。
「他人の空似」とは意外とあるようで、世の中に自分に似た人が10人はいる、と昔からよく言われてもいる。
タレントや歌手、俳優等の有名人に似ていると言われた経験がおありの方は多いことであろう。
この私もいろいろな有名人に似ているとよく言われたものである。思い出すだけでも何人もの有名人がいるのだが、複数の人から特定の人物に似ていると言われる場合、“似ている”ことにある程度信憑性があるものと捉えていた。
その中でも、私が最多の人に似ていると言われた有名人は、一時代において世を一斉風靡した歌って踊れるデュエット歌手の片方の女性である。これは確かに自分でも似ていると思った。顔だけでなく、身長等の全身のスタイルまでよく似ていた。(私の肖像権問題に触れますので、ここでは歌手名は伏せますが…)
ある時、田舎の旅先での大規模な飲み会において、大宴会場の舞台でこのデュエットを真似て歌って踊る余興に(衣裳もバッチリ決めて)私は出演したのだが、“実物が来ている!”とホテル内で噂になったようで、多数の従業員が私の姿を一目見ようと大宴会場へ詰め掛けたというハプニングもある。
似ていると言われる人物を観察することで、自分の外見を客観視して捉えることができる。普段、鏡という平面でしか把握できない自分の姿であるが、他者から立体的に観察されて誰かに似ていると言われた場合に、こういう一面もあるのか、と新しい自分を発見をしたりもする。
逆に、世間一般にはマイナスイメージとして認識されている有名人に似ていると言われた場合、やはりショックは隠せないものがある。私の場合、過去において某お笑い系女性タレントに似ていると言われたことがある。冷静に観察するとその女性が外見的に不細工という訳ではないのだが、私の抱くイメージとしてマイナス印象が強かったため私自身のイメージも崩されそうで、これだけは勘弁して欲しいと思ったものだ。
そういう意味では、人に対して安易に誰かに似ている、と指摘する発言は、失礼に当たる場合もあるため慎重にするべきかとも思う。
それにしても昨日3人に間違われたFさんには、私の“女心”として、是非とも素敵な女性であって欲しいものである。
後方の椅子に腰掛けていると、斜め後ろからやって来た母親二人連れに声をかけられた。
「Fさんですよね?」
人違いのため、「いえ、私はHですが。」と返答する私。
すると、「失礼しました。とてもよく似ていらっしゃるので…。」と母親二人連れは顔を見合わせて私がFさんによく似ている事に同意し合っている。
(そうか、2人が同意しているということは、これはかなり似ているぞ。Fさんとやらを一度拝見申し上げたいものだ。出来れば“美人”であって欲しいものだが、とんでもなく変な外見の女性だったらどうしよう、ちょっと勘弁して欲しいよなあ…)と内心穏やかではない私である。
そして保護者会が終了し解散となり、学校の廊下を歩き始めた時のことだ。
「Fさん!」「Fさん!」とこれまた斜め後方から、どうやら私に声をかけてくる母親がいる。とっさに(上記のごとく)保護者会の開始前に母親2人から「Fさんに似ている」と言われたことを思い出した私は、またFさんに間違われていることを把握した。
斜め後ろの声の主の方を振り返ったのだが、その母親は私の顔を見ても、私がFさんでは“ない”ことにしばらく気付かない様子で、きつねにつままれたかのごとく私をまじまじと見ている。 (人をまじまじ見てないで、何とか言えよな)と思いつつ、こちらとしては面識のない方だったためそのまま帰路に着きながら、やはり複雑な心境だ。
(これで私をFさんと見間違えたのは3人目。しかも今回は立って歩いている姿を見間違えているため、Fさんと私は顔だけではなく、背格好や歩く姿等の立ち振舞いや服装の好みまで似ていて、もしかしたら“瓜二つ”なのかもしれない。これは是非ともFさんにお会いして自分で確認したいものだ。それにしても、やっぱりFさんは“美人”で素敵な人であって欲しいものだなあ…)
自分勝手な思いが頭を巡る。
「他人の空似」とは意外とあるようで、世の中に自分に似た人が10人はいる、と昔からよく言われてもいる。
タレントや歌手、俳優等の有名人に似ていると言われた経験がおありの方は多いことであろう。
この私もいろいろな有名人に似ているとよく言われたものである。思い出すだけでも何人もの有名人がいるのだが、複数の人から特定の人物に似ていると言われる場合、“似ている”ことにある程度信憑性があるものと捉えていた。
その中でも、私が最多の人に似ていると言われた有名人は、一時代において世を一斉風靡した歌って踊れるデュエット歌手の片方の女性である。これは確かに自分でも似ていると思った。顔だけでなく、身長等の全身のスタイルまでよく似ていた。(私の肖像権問題に触れますので、ここでは歌手名は伏せますが…)
ある時、田舎の旅先での大規模な飲み会において、大宴会場の舞台でこのデュエットを真似て歌って踊る余興に(衣裳もバッチリ決めて)私は出演したのだが、“実物が来ている!”とホテル内で噂になったようで、多数の従業員が私の姿を一目見ようと大宴会場へ詰め掛けたというハプニングもある。
似ていると言われる人物を観察することで、自分の外見を客観視して捉えることができる。普段、鏡という平面でしか把握できない自分の姿であるが、他者から立体的に観察されて誰かに似ていると言われた場合に、こういう一面もあるのか、と新しい自分を発見をしたりもする。
逆に、世間一般にはマイナスイメージとして認識されている有名人に似ていると言われた場合、やはりショックは隠せないものがある。私の場合、過去において某お笑い系女性タレントに似ていると言われたことがある。冷静に観察するとその女性が外見的に不細工という訳ではないのだが、私の抱くイメージとしてマイナス印象が強かったため私自身のイメージも崩されそうで、これだけは勘弁して欲しいと思ったものだ。
そういう意味では、人に対して安易に誰かに似ている、と指摘する発言は、失礼に当たる場合もあるため慎重にするべきかとも思う。
それにしても昨日3人に間違われたFさんには、私の“女心”として、是非とも素敵な女性であって欲しいものである。