原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

周囲ママ友に翻弄されるより子育てをちゃんとしようよ

2014年08月18日 | 人間関係
 私がこの世の中で一切興味が持てない対象物は数多いのだが、その最たるものが “有名人(著名人)が公開しているオフィシャルブログ” と言って過言ではない。

 私自身が「原左都子エッセイ集」をネット上に公開して既に7年近くの年月が流れている関係で、我がHP編集画面等を通じて“オフィシャルブログ”とやらと接触しそうになる機会は多々ある。
 それでも、私は7年間に渡りただの一度もそれら“オフィシャルブログ”とやらを訪問した事はない。 何故ならば冒頭に記した通り、私にとっては何らの関心が抱けない対象物だからである。


 さて、そんなオフィシャルブログに於いて、「ママ友議論」を展開した某女優氏が存在したようだ。
 これに関して私が初めて認識したのは、朝日新聞下欄の週刊誌記事広告欄に他ならない。

 その週刊誌広告記事によれば、どうやら某女優氏は子供が通う超名門小学校に於いてママ友達からいじめを受けているらしい。 そこで女優氏側が取った対応とは、ママ友から「いじめ」の被害に遭っているとの内容記事を自らが管理している“オフィシャルブログ”内で綴り公開するとの手段だったようだ。

 ところが、今時ネット情報とは万人が目を光らせている対象物であることには間違いない。
 早速、某女優氏の“オフィシャルブログ”を見た周囲のママ友達から、「某女優氏こそが我々ママ友達にいじめ行為をしている元凶だ!」との反撃が展開されたとの週刊誌記事広告内容である。


 一旦、私論に入ろう。

 天皇家の愛子ちゃん(失礼な表現をお詫びします。現在愛子様は中学生になられ立派に育たれているご様子だが。)とて、代々天皇家が学舎として選択されている国内某私立小学校に於いて、周囲からいじめに遭い一時不登校に陥った事実を国民の皆様もご記憶であろう。
 それに比し、たかが少しばかり有名との立場で一女優氏が産んだ子供を“超名門小学校”へ入学させることが叶ったとて、親の態度次第では周囲のママ友達からいじめ行為に遭う事など重々想定内と私は理解する。

 で、その女優氏は今後ご自身が如何に有りたいと言いたかったのだろうか?
 周囲ママ友たちから、一体如何なる試練に遭ったかどうかなど私が知った事ではない。 それにしても、その事実を自身が管理している“オフィシャルブログ”内で殊更取り上げ被害者ぶる事により、今のネット時代背景を考察する事もなく、ご自身こそが世間からの加護でも欲したのであろうか??

 ここで原左都子の結論を述べるならば、この勝負(そもそも下劣ではあるものの)、某女優氏が“オフィシャルブログ”内で公開した言論に反旗を翻した周囲ママ友達の「勝利」と結論付けたい。


 上記のごとく、某女優氏がご自身のオフィシャルブログ内でママ友批判記事を公開した事が、その後周囲ママ友らの反発を引き起こす展開となった恩恵により、最近我が過去のママ友関連エッセイに多数のアクセスを頂戴する事と相成った。

 その我がバックナンバーとは、2013年4月11日公開の 「庶民ママ達は“ママ友序列化”がお好き?」であるが、その一部を以下に紹介しよう。

 前政権の某首相経験者のごとく、年老いた母親から兄弟共に何百億円の生前贈与を受ける事が叶うリッチ層とは、この世において1%未満の一握りの存在であろう。
 その他99%以上の人民は皆「庶民」、と私は捉えている。  
 私自身の独身時代を振り返るならば自己実現意欲に駆られるままに突き進み、「結婚」や「子育て」にはさほどの興味を抱かずに過ごした後に、晩婚・高齢出産に至った。
 さて最近のネット情報によると、近年「ママ友カースト制度」なる新語が庶民ママ友達の間での流行り言葉となっている様子だ。
 私の場合、高齢出産したその直後より“ママ友”なる女性達との付き合いをなるべく回避するべく行動してきた母親である。 それでも、「ママ友付き合い」を回避できない場面が子を持つ私にも多々あったものだ。
 私論でまとめるが、「ママ友カースト制度」にこだわるママ達とは、私に言わせてもらうと(私も含め)社会の底辺に位置する「庶民」でしかあり得ない。  要するに「ママカースト」とはそんな庶民間で“どんぐりの背比べ”をしたいとの、せせこましいばかりの連中達の悪あがきに過ぎないのだ
 冒頭で掲げた元首相の鳩山氏がどれ程の資産を先祖から受け継いでいるのかに関しては、庶民の想像の域をはるかに超えていよう。  そんな桁外れの資産を手中に出来る人物が、庶民として生きる自分の身近に存在するはずもない事にまずは気付こう。
 その辺に着眼して、今後は狭い意識でせせこましくも「ママ友カースト制度」などにこだわる事無くもっと自由に子育てをしつつ、亭主や実家の力ではなくママ自身の努力と能力で(“腕一本の実力”を育みつつ)、子どもと共に大きな心でいろんな人との付き合いを育もうではありませんか!!
 (以上、「原左都子エッセイ集」バクナンバーより引用。)


 “オフィシャルブログ”とやらを世に蔓延らせている有名(著名)人とやらに、一言物申そう。
 貴方達はオフィシャルサイトとして管理しているそのネット媒介体を、自身の活動の拠り所として100%信頼しておられるのだろうか?
 私が推測するに、貴方達の想像を超えて世のネット依存度が急激に高まっているのが実情であろう。
 今回のように某女優氏の発言に対して反発世論が高まる事態とは、今後多々発生し得る現象だ。
 そんな世の実態を自分の力で見通せて初めて、“オフィシャルブログ”なる媒体物を自身の実力の下に公開するべきであろう。

 表題に戻すが「ママ友」云々に関しては、女優であれ誰であれ、周囲のママ友達の動向に翻弄される以前の問題として、子供を産んだ親の責任を母親自らが果たすべき視点に立ち戻ろうではないか!
 その基本に立ち返りさえすれば子どもとは健全に育つ存在であると私は実感しつつ、それを実行出来てきたと自負している。

ダウン児拒否親なる“究極エゴ”を産み出した代理出産

2014年08月16日 | 時事論評
 8月初旬頃、代理出産にて誕生した「ダウン症児」赤ちゃんの引き取りを拒否したオーストラリア人夫妻のニュースに触れ、原左都子の脳裏に真っ先に浮かんだ事がある。

 夫婦が引き取った代理出産双子のもう一人である女児を、“究極エゴ”に満ち溢れ人権感覚に極めて疎いと想像可能なこの親どもに、果たして今後育てていける資質や能力があるのか?? との大いなる疑惑感だ。


 私は本エッセイ集2010年11月9日バックナンバーに於いて、「野田聖子さん、産まれて来る子どもの人権に思いが及んでいますか?」 なるエッセイを綴り公開している。

 以下に、その一部を要約して紹介しよう。
 元々不妊治療という人工的措置を施してまで子どもを設けることに関して、私は基本的には肯定的に捉えていない。 親であるご本人が子どもを産みたい意思をあくまで押し通して体外受精(や代理出産)に踏み切る場合、自分の希望を優先する以前の問題として、必ずや生まれてくる子どもの一生に渡る人権こそに思いを馳せるべきであると強調している。
 体外受精等人工的措置を施してまで子どもを設けることにこだわる人種とは、ややもすると親本人のエゴが優先されているきらいがあることを私は懸念しつつ、親自身のエゴよりも、産まれて来る子どもの将来に渡る人権の方がはるかに尊いとの私論を展開し続けている。
 私自身が今まで身近に経験している体外受精をしてまで子供を設けることに躍起になっている人種とは、どうも自分のエゴにがんじがらめになるが故に客観的な思考能力を失ってしまい、生まれてくる子どもの人権に思いが及んでいない場合が多々あるためだ。
 野田聖子さん、あなたが自民党国会議員として活躍(?)していたがために子どもを産み遅れ、その後体外受精に14回も頼って子どもを設けようとした意図はよく理解できた。 その間、ご亭主をとっ替えて現在のご主人をパートナーとした後に米国での卵子提供体外受精妊娠により“ハーフ”の息子さんをまもなく出産しようとしていることもよく分かった。 今の時代家庭が多様化しているのだから、(国民の)皆さんこんな新バージョンの親子の姿を受け入れて欲しい、とのあなたの今の願いも分かった。
 ここで、我がエッセイの本来の趣旨に戻そう。 
 子どもを産んだ達成感など、産んだ瞬間にぶっ飛んでしまうものである。 その後の親に課せられるのは、産んだ子どもの人権を一生かけて守り抜く責任のみである。
 国会議員であれ如何なる立場であれ、子を持つ親の果すべく使命とは共通であるはずだ。  自分のDNAを受け継いでいない子どもの誕生、加えて“超高齢出産”となれば親である自身の老後に及んで尚その使命が続く訳であるが、その現状をどれ程自己責任として捉えられた上で野田氏は人工授精に及んだのか?!?
 (以上、「原左都子エッセイ集」2010.11.9 バックナンバーより一部を引用。)


 その後野田聖子氏は、上記体外受精による我が子誕生により世間を騒がせた知名度(のみ)を武器に、現自民党議員として(なんと!)党幹部の身分で活躍のご様子だ。
 一方で息子氏に関する続報に触れる機会が一切ないのだが、ネット画像によれば野田氏の我がままにより先天的障害を背負わされて誕生せざるを得なかった息子氏は、ご生存であられるようで何よりだ。

 ただ私がネット画像を見た印象によると、息子氏に寄り添う野田聖子氏の姿が「母」には程遠く、あくまでも「国会議員」としての立場で息子氏に接しているとしか映らない事実が何とももの悲しい…
 それでも国会議員であられる野田聖子氏は今後の少子化対策に向けて、「体外受精」や「代理母出産」等々の“正当性”を訴えつつ現在“陰りが激しい”安倍政権を支えている覚悟のご様子だ…。
 安倍政権が近い将来崩壊した暁に、野田聖子氏は息子氏の「母」として寄り添える資質や能力を発揮し続けられるのであろうか…。 


 ここで話題を、オーストラリア人「代理出産」に戻そう。

 朝日新聞2014.8.9付「社説」が、原左都子私論とほぼ同様の見解を展開しているため、その内容を以下に要約して記すこととしよう。
 オーストラリア夫妻のケースは、第三者の女性に受精卵を移植し妻に代わって出産させる代理出産がはらむ問題の根深さを突き付けた。  妊娠・出産にリスクはつきものだ。 代理母女性が重い後遺症を負ったり、死に至ったりすることもある。 そんな負担を他人に負わせることが許されるのかとの本質的問いがある。
 また、代理母出産の多くは報酬を伴う。 豊かな国から貧しい国へ代理母出産を求める動きとは、経済格差を背景にした搾取の性格が否めない。 
 代理母出産に於いて、日本の規制が大きく遅れている事態も深刻な課題だ。  政府は2000年以降、既に脱法的に実施されている日本人の代理出産を禁止しつつ、法案を提出出来ないまま年月が流れている。
 今後は、親の立場ではなく子の側に立つルールを求めたい。 生まれて来る子供と、(体を犠牲にする)代理母が窮地に陥らないような観点から、関係政府間で調査し対策を作って欲しい。
 (以上、朝日新聞8月9日「社説」より一部を要約引用。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 私自身は「どうしても子供が欲しい!」なる感覚をただの一度も抱くことなく、高齢出産にして自然体で一女に恵まれている立場だ。
 何故私が「我が子が是非共欲しい!」との思いを描かなかったのかに関して今考察してみるに、それはそもそも我が生まれ持っての“天邪鬼気質”に発端があったのかもしれない。

 それにしても、確かに世は理不尽だ。 
 子供が欲しい親には授からず、要らない親が人工中絶したり、究極の場合虐待によりせっかく生まれた子供を殺す親が後を絶たない現世だ。

 それがこの世の定めだとしても、今一度、人工的な手段で子を持とうとしているご夫婦に是非とも振り返って欲しい事がある。
 その子の一生に渡る「人権」を保障できる“強さ”と“愛情”そして“理性”が、自分達に本来的に備わっているのか否かを!

 参考だが、子供を産む以前は「どうしても子供が欲しい!」なる感覚が一切なかった私にして、何故現在我が子との幸せな暮らしが叶っているのかに関して説明しよう。
 手前味噌ながら、上記3条件が偶然にも私に本来的に備わっていたからに他ならないため、と考察している。

ずさんな自治体避難命令に異議申し立てする!

2014年08月13日 | 時事論評
 昨日(8月12日)より毎年恒例の「徳島阿波踊り」が始まり、我が郷里もやっと無事にお盆の時期を迎えているようだ。

 そんな故郷は今夏、幾度も繰り返す豪雨や台風の到来により歴史的大被害を経験した。
 度重なる豪雨被害により、未だ浸水した家屋が片付かず夜もろくろく眠れない地域の皆さんも多い事であろう。
 それでも、年に一度だけ郷里に於いて開催されるビッグイベント初日が、暴風雨の影響を受けて中止に追い込まれる事態とならなかった事に一応安堵している私だ。


 ところで、台風11号が四国を直撃した8月10日の夜、私は郷里の母より一本の電話を受けた。
 ちょうどNHKテレビ7時のニュースライブ映像が、高知や徳島が暴風雨で大荒れ模様を映し出したその直後の19時40分頃の事だ。

 母曰く、「これから避難する事になった。 高齢者の私を避難所まで車で連れて行ってくれる地域担当女性が近くに住んでいて、迎えに来てくれる。 今夜は避難所で寝る事になると思うから、これから家に電話をくれてもいないよ。」
  
 そんな事態になっても不思議ではない事は、遠方に住む私にもテレビライブ映像を見れば理解可能だ。
 ただ、ちょっとおかしいんじゃないの?? なる疑問符が私の脳裏をかすめる。  台風直撃による暴風雨の真最中に、何でこんな夜になって自治体は避難命令を出したのか!? これじゃあ、避難所へ移動中に暴風雨に打たれて死ね!と言ってるも同然ではないのか??

 などと思っても、母はおそらく急いでいるであろうから、ここは早めに電話を切って送り出してやるしか方策が取れないと判断した。 「気を付けて移動するのよ。」とだけ言って、とりあえず電話を切った。

 田舎暮らしの経験がない方には分かりにくいであろうから、私から追加説明をしよう。
 田舎とは大自然に溢れていて、主要道路ではない小道などアスファルト舗装されていない場所が今だ多い。 そして何故か、その小道の横に蓋の無い溝があり、昼間でも考え事などして歩くと若い世代の私でもその溝に落ちそうになる。 
 更には我が実家の近くには川縁のガードレールのない土手があり、常に強風が吹いている。 そこを通る時には、徒歩であれ車であれ細心の注意を払い慎重に通行しない事には、川に転落しかねない。 母の話によると、普段の日でもたまに人が転落するそうだ。
 母の電話では近くの女性が車で迎えに来てくれるとの事だが、その女性がまさかプロのベテランドライバーでもあるまい。 それ以前の問題として、あの横殴りの暴風雨状態では、避難グッズを抱え家の玄関から出て車に乗り込む行動すら大仕事であろう。


 そうこう考えている中、テレビニュースは三重県の自治体が次々と避難命令を出している報道を繰り返している。
 やはり他府県でもこんな夜の時間帯に住民を避難させるのか??と思いつつ、私はある事に気付いた。
 どうも、避難命令・指示が地方自治体間で「連鎖」しているのだ。 その「連鎖」状態に避難命令発動に於ける「他力本願」性を嗅ぎ取った私だ。
 要するに、「隣の自治体が避難命令を出したからうちも出すべきかなあ?」なる論理が自治体間で行き交っているとすると、そんな無責任な話はないだろうに… なる不信感が我が脳裏をもたげる。


 話題を、郷里の我が母に戻そう。

 次の日の朝10時頃、母が住む実家に電話をかけてみた。
 そうしたところ、母が電話に出るではないか!
 「えっ。もう避難所から帰って来たの?」と問う私に対し、母が言うのには「避難するのをやめた。」との事だ。 (さすがに、この娘にしてこの母ありを実感だが。
 母曰く、その後自宅周辺を自ら確認出来る範囲で確認したとの事だ。 そうしたところ、特に近くの小川が氾濫している様子もないし、明朝には台風が抜けるとの事だし、今までの経験からだと家に留まった方が安全と判断したとの回答だ。
 そして母は早速役所に電話を入れたらしい。「今回は全員が避難せねばならないのか?」と。 そうしたところ役所から返って来た返答は「安全が確保できるならば自宅に留まってもよい。 ただ、避難する気になったら(一人暮らし高齢者の場合)役所から迎えに行くので今一度お電話下さい。」との事だったようだ。

 その我が母と役所とのやり取りを聞いて私が思ったのは、我が母は意外と未だしっかりいているとの感覚だ。 と言うのも、私の判断でも今回の場合は自宅に留まるべきと考えたからだ。
 それにしても、さすがに私も母に一言付け加えた。 「避難せずに自宅に留まる場合も細心の注意を払い、諸準備を施す事に超したことはない。 水害を想定し食料と水と携帯電話を持って2階で一夜を明かすべき。」と。 


 さて、次の日(8月11日)の各メディア報道によれば、徳島県阿南市に位置する加茂谷中学校周辺が、近くを流れる那賀川の氾濫により、一時2階部分まで浸水したとの事だ。

 この報道に於いて私が一番驚かされたのは、当該公立中学校が地元住民の「避難場所」として指定されていた事態であり、実際にこの中学校に避難していた住民が少なからず存在した事実だ。
 今回の場合、自治体としては“歴史的に鑑みても想定外の洪水”だったらしいのだが…。

 それにしても、“安易に”地元の公立小中学校を「避難場所」とする地方自治体の政策こそ、どうにか改善出来ないものか??
 原左都子の私事を述べると、管轄自治体が設定した都心の我が家の「避難所」も近くの公立小学校と定められている。
 ところがこの公立小学校の現状を語るなら、築年数が古いし正直言って今にも倒壊しそうな外見だ…。

 それだからこそ、我が家では我が家なりの“独自の避難所”を設定している。 
 それこそ、築11年にして上階に位置するマンション物件である「我が家」に他ならない。
 火事以外は、まかり間違っても何処に避難するでもなく、この場に留まる事が命を繋げる最善の場であると、私は家族に教育し続けている。

何を心の拠り所として生きているのか理解に苦しむ相手

2014年08月11日 | 人間関係
 人間も還暦近くまで生き延び世を渡っていると、多様な人間の様々な人生模様が我が「心理眼」を通して見えて来て感慨深い思いだ。

 ところが人間観察力が鋭い原左都子にして、最初のご対面から縁が切れる最後の最後まで「この人の心の拠り所とは一体何だったのだろう?!?」、なる不可思議感を抱かされる相手に対峙させられる運命に最近遭った。


 今回のエッセイは、前回のエッセイ 「『腹が立つ』感情とは世の進化のきっかけともなり得る」 の続編の形となる。

 前回綴ったエッセイ内で、私は以下の記述をした。
 切羽詰まって私自身が穏やかに生きたい! と志ざさねば我が身が持たない程の非情な運命に陥ったのは、自己所有不動産物件の「賃借人選択」において大失敗をしでかしたからに他ならない……  6カ月間で150万円に上る損失を計上した挙句、手塩にかけて育てて来た我が賃貸物件を売りに出し、不動産貸付業廃業に追い込まれた私にとっては、相手に対して「腹が立つ」云々よりも……
 (以上、当エッセイ集バックナンバーより最後の部分を引用。)

 実は上記の後、私が本心から記したかった文章を以下に再現するならば……
 「相手に対して腹が立つより何よりも、相手人物の人生観の程がどうしても理解し難い。」と言うことだ。
 
 この人物とはたった6カ月間の付き合いだったのに加え、そもそも「賃貸借物件の賃貸側と賃借側」とのあくまでも“法的な上下関係”のみであるはずだった。
 ところが仲介不動産会社の力不足にもよるのだが、どういう訳か賃貸人の立場である私が直接この人物と6カ月間に渡り、対峙せねば事が運ばない運命と相成った。

 
 (個人情報保護法に準拠し、言葉を選びつつの公開だが。)
 相手方賃借人女性が入居当初、不動産仲介会社を通じてオーナーである私に要求していきたのは、「風呂の排水が悪いのでそれを修理して欲しい」との依頼だった。 これに関しては前回退室した賃借人氏よりも情報を得ていたため、当然ながらオーナーの私としては前賃借人退室後のリフォーム時に私なりのその対策を最大限取った。
 その旨を仲介会社を通じて伝えたにもかかわらず、新賃借人氏から入居直後にクレームがついたのだ。 
 新賃借人氏曰く、「こんな老朽化した物件を賃借人に貸した責任を、オーナーがどうとるのか!?」
 (嫌ならとっとと出て行けよ! あるいはもっと高い賃貸料払って築年数が新しい物件に住めば済む話だろ?こんな古マンションにしか住めない身で偉そうに難ぐせ付けて来るなよ!)と喉元まで出かかっているのを抑えつつ、そんな賃借人の苦情に応じ、私はなけなしの金を叩いて修繕工事及び工事中のホテル補償等々の金銭補償を法律に基づき実行し続けた。 
 (その一方、どうやら今回の賃借人とは「金を積めば」静かになるタイプの人物像である事を、私が早期に把握出来たのがその後の打つ手の明るい兆しだった事には間違いないのだが……)

 そんな賃借人氏の(歪んだ)人物像に触れる過程で、オーナー側の私が結論を出したのは、我が所有賃貸物件を売却するとの決断だった。
 今後このまま現賃借人氏と下手にかかわり続けたとて、ますます増額すると予想される“理不尽な”修繕費用や補償額に耐え続けるよりも、我が身の安全を確保する目的で“とっとと物件を売却して”賃借人氏と縁を切るに限る!との思い切った方策だった。
 そして売却最終段階である引き渡し決済を、一昨日実行したとの事だ。


 それにしても未だに理解し兼ねるのが、我が賃貸所有物件入居者氏とは、私とほぼ年齢が変わらぬ還暦近い一女性だったことだ。
 離婚経験がある方のようだが、現在は単身の身で正社員として民間企業に勤務されつつ、我が賃貸マンションに程近い場所にお住まいのお母上様の面倒も見たいとのご意向で、この地に引っ越されたらしい。

 我が身に置き換えて考察するに、私と同じくらいの年代で年老いた親の面倒も見ているのならば、ここは自分の借り住まいである住居に関して問題を起こさず静かに暮らした方が、親御さんも安心かとも考えるのだが…
 あるいは(ご自身曰く)正社員期間が長いらしいが、それならば相応の蓄えがあっておかしくないはずだ。 賃貸物件のオーナーに難ぐせつけてせせこましく金を巻き上げるよりも、その蓄えを有効活用して、老後に入る前に新たに自己所有物件を買い求める方が法的によほど自由な身が保障されるし、ずっと得策ではなかろうか!?

 ところが、我が所有物件賃借人氏の行動はまったく違った。
 入居後6ヶ月間に渡りオーナーである私にクレームをつけ続け、(自分はここに住み続ける!)との賃借人とての権利を主張し果てた。

 それに耐えきれず、賃貸借物件オーナーである私が(表向き)「敗北」した事実に、この賃借人氏は心底満足しているのであろうか?? 
 (何だかそうではなく、この人、今後一体如何にこの世を生き延びるのかに関して他人事ながら“もの悲しい”孤独感が漂う中、入居人共々物件を売却した私なのだが……)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 この世で展開する人間関係は、まさに多種多様だ。
 そんな人間関係を実行する上で理想的なのは、お互いに法的利害関係など何もない場面でその関係を大事に育成していくことであろう。
 
 ただ不運にも、当初より法的利害関係者同士として知わねばならない運命を背負った人生場面を抱える場面も、この世には多い事とも推察する。 たとえその場面でも、人間関係の基本とはお互いに対等な人間同志との意識の下にこの世を渡るべきと考えるのだ。

 自分が法的弱者である事をとことん利用しようと目論む人生の、その後の発展性など皆無ではなかろうか??

 如何なる場面に於いても人間関係を存続する上で理想的なのは、お互いに“1対1の立場で対等”に渡り合うとの意識の下に、その関係を大切に紡いていくことに間違いないであろう。

「腹が立つ」感情とは、世の進化のきっかけともなり得る

2014年08月09日 | 自己実現
 少し古くなるが7月19日付朝日新聞“悩みのるつぼ”の相談題目だけを見て、一瞬仰天させられた原左都子だ!

 あれっ、私、いつ朝日新聞に自分の事を相談したんだっけ!?! と…
 その題目とは、 「いつも腹を立てている私」 である。  

 世の中には必ずや同類人種がいるものだと妙に感心しつつ、以下に61歳女性による“悩みのるつぼ”への相談内容を要約して紹介しよう。
 
 私はいつも掃除をしていても、歩いていても誰かに腹を立てていて、自分でもうんざりする。
 例えば私は20年前に病気で息子を亡くしているが、その事象と自分の息子が結婚して遠い所に行った事で悲しんでいる事を対比した場合、どっちが辛いかすら分別がつかない友人に腹が立つ。
 両親にも腹を立てている。 両親共に子供に対する愛情が希薄だったと思う。 父は私が思春期の頃胸を触ったりお風呂を覗いたりした。 母は自己中心人物で、どちらもずっと嫌いだった。
 不用意な事を言う友人とはもう会わないし、母も亡くなり、父は独り暮らしで弱り仕方なく姉と交代で帰省し世話をしている。 それでも、会わなくなったり亡くなったり別人のように弱くなった相手への腹立ちを、繰り返し頭の中に再現する自分に疲れる。 
 他にも、何度指摘しても同じ過ちを繰り返すボランティア仲間や、車のアイドリングを執拗に繰り返す近所の人のも腹が立つ。
 後20年くらいの人生をもっと明るく穏やかに生きたいのだが、どうすればよいか?
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”相談内容より要約引用したもの。)


 ここで一旦、原左都子の私事と私論に入ろう。

 私も相談者同様に、生まれ持っての「笑い上戸」「泣き上戸」、そして「怒り上戸」を日夜ド派手に繰り返しつつこの世を生き延びている事には間違いない。(自分に都合よく表現するならば “感情豊かな人間” とのことだが…) 
 ただ私の場合は必ずや自己の感情を表出する以前の問題として、私自身の身の安全は元より我が家族達や現在の私の生活圏に於けるすべての安泰を願うがばかりに、特に“怒りの対象”に対して「客観的視野と判断」なる考察が計算高く入り混ざる現実なのだが…


 7月19日“悩みのるつぼ”回答者は、社会学者 上野千鶴子氏であられた。

 その回答内容が原左都子の私論とほぼ一致するため、以下に要約して紹介しよう。
 心無い友人に腹を立てるあなた。 思春期の娘にセクハラまがいのふるまいをした父と自己中の母に、今でも腹を立てているあなた。 腹を立てるのはそれだけの理由があるからでもっともだ。
 ただ、あなたは腹を立てた相手にその場でオトシマエをつけなかった悔いがあるのではなかろうか。
 そういうあなたの良いところは、怒りが外に向かいあなた自身には向かわなかったこと、要するに自己肯定感をちゃんと持っている人とのことだ。 要するにあなたはエネルギーを持っている人だが、そのエネルギーがネガティブな感情である事は悲しい。 
 ただそれがあなたの持ち味であるのだから、「穏やかに」生きようなどと、らしくない事を思わない事だ。  姑息な政治家がいたら、怒りの声を上げ怒りっぽくてうるさいおばさんでいるべきだ。
 怒りが気になるのは、今のあなたが現状に満足していないからだ。 怒りと同様かそれ以上の喜びやうれしさを味わえば、帳尻はプラスになりますよ。
 (以上、“悩みのるつぼ” 相談者であられる社会学者 上野千鶴子氏の回答を要約して引用。)


 再び、原左都子の私事と私論に入らせて頂こう。

 おそらく上に記されている上野千鶴子先生の回答に関しては、既に同等の感覚を持ちつつ私は世を渡っていると認識している。

 それでも類稀なる事例であろうが、この客観力が売り物の私に“歯向かって来る”人種を、最近我が所有賃貸不動産物件関係に於ける法的立場に於いて経験した。 (個人情報保護法に抵触するためその詳細を披露する事は今回避けるが。)
 たとえ庶民とて法的場面に於いて相手と利害対立関係に立った場合、どうしても法律上の弱者に対し物件所有者である強者側のこちらが配慮するしか方策が取れない事態に、無念の思いだ…

 話を戻すが、上野氏がご回答されている事案は“世間の普通のおばさん”の“お怒り”に対するご指導であることは理解申し上げている。

 
 最後に、原左都子の私論を述べよう。

 色々な人間がこの世に存在するものだ。
 私自身もいつも「普通のおばさん」の立場でこの世を渡っていかれるならば、まさに上野氏が書かれているご回答を参照しつつ、穏やかに生きようなどとの“らしくない”選択を避ければ済む話なのだろう。

 ところが、切羽詰まって私自身が穏やかに生きたい! と志ざさねば我が身が持たない程の非情な運命に陥ったのは、今回自己所有不動産物件の「賃借人選択」において大失敗をしでかしたからに他ならない……
 6カ月間で150万円に上る損失を計上した挙句、手塩にかけて育てて来た我が賃貸物件を売りに出し、不動産貸付業廃業に追い込まれた私にとっては、相手に対して「腹が立つ」云々よりも…

 今となっては、その損失と失敗を今後の我が発展のきっかけとする事で、せめても我が身ひいては世の「進化」に繋げたい思いが切実だ…